第十話:初めての教室
翌朝、エアリスは鐘が鳴る前に目を覚ました。
窓の外は明るい。白い聖都の屋根に朝の光が落ち、遠くで鐘楼の影が伸びている。城で見た朝とは違う。同じ朝でも、ここには人の動きがあった。
身支度には時間がかからなかった。
朝食の前に、学術院から正式な学生証が届いていた。昨日の仮学生証より少し厚く、名前と所属が淡い光で刻まれている。
用意された制服に袖を通し、髪を整え、学生証と筆記具を確認する。昨日、図書館でもらった閲覧札も、カバンの内側へしまった。魔導書を入れようとしたところで、表紙がひとりでに開く。
「初登校だね」
アキが、頁の上から顔を出した。
「はい」
「緊張してる?」
「少し」
「期待は?」
「あります」
「いい答え」
アキは満足そうに本の頁を鳴らした。
エアリスは魔導書を見下ろす。
「今日は、授業中に出てこないでください」
「信用がないなあ」
「昨日までの積み重ねです」
「言い方が丁寧なのに痛い」
「本らしくしていてください」
アキは肩をすくめ、魔導書の中へ戻った。表紙は閉じたが、角がかすかに浮いている。
机の端では、黒曜石の小さな棺が光を返さずに置かれていた。
「学ぶなら、よく聞け」
棺の奥から低い声がした。
「はい」
「ただし、何でも信じるな」
「覚えておきます」
返事をすると、棺はまた静かになった。
朝食は、ルセリアと二人で取った。
パン、卵、温かいスープ。食器は簡素ではないが、城の食卓ほど距離を感じない。ルセリアは書類に目を通しながらも、エアリスの様子を見ていた。
「眠れた?」
「はい」
「ならよかった。今日は初日だから、分からないことは多いと思うわ」
「質問してもいいですか?」
「もちろん。ただ、聞く場所と相手は選びなさい」
「場所と相手」
「授業中に聞いていいことと、あとで私に聞いた方がいいことがある。アキに聞くのは、最後でいいわ」
カバンの中で魔導書がかすかに動いた。
「聞こえています」
「聞こえるように言ったのよ」
ルセリアは何食わぬ顔でスープを口に運んだ。
朝食を終えると、二人はゼニスクライムを出た。
朝のセラフィアは、昨日見た夕方の街よりもずっと速く動いていた。通りには神官、学生、商人、巡礼者がいる。白い石畳の端では、小さな魔導具が水を撒き、掃除係がそれを追っている。広場の一角には公共テレポート陣の案内柱があり、利用券を持った人々が順番を待っていた。
「あれは?」
「市内用の公共テレポート陣よ。行き先も時刻も決まっているし、保護環の中で使う。登録と利用券が必要だから、あなたはまだ使わないこと」
「アキさんのテレポートとは違うんですか?」
「仕組みは近いけれど、自由に飛ぶものではないわ。決められた場所から決められた場所へ移るための公共交通よ」
エアリスは案内柱を見た。
アキのテレポートとは違う。けれど、街の中ではそれが当たり前のものとして使われていた。
学術院の門に着くと、守衛が学生証を確かめた。
「エアリス・アウレリア・ヴァレン嬢ですね。本日よりAクラスへの出席を認めます」
「よろしくお願いします」
エアリスが頭を下げると、守衛も丁寧に礼を返した。
ルセリアは門の内側までは入らず、そこで足を止めた。
「私は教廷へ回るわ。昼過ぎには戻れると思うけれど、授業中は学院の先生に従いなさい」
「はい」
「困ったら職員か教師に聞くこと。アキに聞くのは、そのあと」
「はい」
同じ注意を二度言われた。エアリスはカバンの上から魔導書を押さえる。
「大丈夫です」
「なら、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
その言葉を口にした時、エアリスは一瞬だけ立ち止まった。
行ってきます。
城では、ほとんど使わなかった言葉だ。誰かにそう言って出ていく朝は、なかった。
ルセリアは何も言わず、扉の脇へ一歩退いた。
講義棟の二階に、Aクラスの教室はあった。
扉の前には、マグヌス学院長が立っていた。白髪を整え、昨日と同じ、こちらを急かさない目をしている。
「おはようございます、エアリス嬢」
「おはようございます、学院長先生」
「よく眠れましたか?」
「はい」
「それは何よりです。学ぶ者にとって、眠ることも準備の一つですから」
マグヌスは教室の扉へ視線を向ける。
「緊張しますか?」
「少しは」
「よいことです。初日なら、そのくらいでちょうどいい」
エアリスは制服の袖を一度だけ直し、扉を開いた。
教室の中の視線が、一斉に向いた。
少年少女たちがいる。
制服は同じでも、姿勢、目つき、座り方が違う。談笑していた者も、窓の外を見ていた者も、すぐにこちらを見た。驚きだけではない。好奇心、警戒、計算、遠慮。いくつもの感情が、声になる前に教室の中を渡っていく。
前列には明るい髪の少女がいた。目が合うと、彼女は隠さずに笑った。
離れた席には、銀灰色の髪の少年がいる。彼は騒がず、机の上の紙に何かを書き込んだ。
エアリスは教壇の横へ進み、一礼する。
「今日からAクラスに編入する、エアリス・アウレリア・ヴァレン嬢です」
マグヌスの声は静かだった。
「皆さんにとって、よい刺激になるでしょう」
紹介は短い。
エアリスは顔を上げた。
「エアリス・アウレリア・ヴァレンです。よろしくお願いします」
声は大きくない。それでも、教室の端まで届いた。
席は窓際の中ほどだった。案内されるまでの間に、机の並び、窓の数、黒板の位置、学生たちの表情が順に目に入る。
最初の授業は、魔法理論だった。
担当教師は、エアリスの編入初日であることを告げてから、黒板に九つの名を書いた。
アウレクス。
サレッサ。
アエラリス。
ガエロス。
ピュラ。
ソムニア。
クリムゾン。
アストリクス。
ノクティラ。
「魔法は、マナの運用です。そして多くの魔法は、九柱の神が司る領域に沿って分類されます」
教師の声はよく通る。
「光、水、風、大地、炎、夢、血、星、闇。属性は才能の傾向を示します。ただし、それだけで道が決まるわけではありません。人は学べば複数の属性を扱えます」
何人かの学生が頷き、板書の余白へ短く印をつけた。
「ただし、階位が上がるほど、自分の魔法の性質は深く固まります。特に領域を形成した後で、まったく異なる属性へ広げるのは難しい。早い段階で何を学び、何を磨くかは重要です」
エアリスはノートに短く書く。
属性だけで道は決まらない。
ただし、後から変えるほど難しい。
教師は次に、黒板へ二つの言葉を書いた。
等級。
階位。
「混同しやすいので、改めて確認しましょう。魔法そのものの難度や威力は等級で表します。魔法使いとしての到達段階は階位です」
ペンを持つ音が、いくつか止まった。
「第一階位は、魔力を覚醒させ、自分の器を広げる段階。第二階位は精神の鍛錬。第三階位は魔力を濃くし、精錬する段階です」
黒板に線が引かれる。
「第四階位からは超凡者と呼ばれます。ここから先は、ただ魔力を増やすだけでは進めません。第四階位では、精錬した魔力の中に魔力霊の核を凝らし始める。完全に形を持てば、第五階位です」
そこで、教師は一度言葉を切った。
「第五階位では、その魔力霊へ精神エネルギーを重ね、内側まで統合していきます。融合が完成すれば、第六階位。肉体を失っても、魔力霊によって存在を保つ者がいるのは、そのためです」
黒板の線が、さらに上へ伸びた。
「第六階位では、魔力霊の内側で、自分だけの領域を孵化させていきます。領域が形を持てば、第七階位です。第七階位からは、神話級と呼ばれます」
教室は静かだった。
誰も騒がない。強さの話を、ただの憧れとして聞いている者はいなかった。
「大国一つを見ても、公に名を確認できる第七階位は二十人から三十人ほどです」
教師が黒板に「二十から三十」とだけ書くと、教室の中でペンの音が一つ止まった。
「その数を、ただの数字として見ないように」
エアリスはペンを止めた。
一国につき、二十から三十人。
エアリスは、数字の横に小さく線を引いた。
教師はエアリスの方を見た。
「ヴァレン嬢。何か質問はありますか?」
突然名前を呼ばれ、教室の視線がまた集まる。
エアリスは考えた。
「階位は、身分のように扱われますか?」
教室の何人かの顔つきが、少し変わった。
教師はすぐには答えない。質問の意味を確かめるように、エアリスを見る。
「良い問いです」
その一言で、向けられる視線の色が変わった。
「実際には、そう扱われることもあります。高い階位を持つ者は、国や教廷から重んじられる。責任も、権限も、恐れも集まる」
教師は黒板の階位という文字を指す。
「ですが本来、階位は身分ではありません。力の到達段階です。力を持つ者に責任が生じるだけで、力そのものが人の価値を決めるわけではない」
教室の奥で、銀灰色の髪の少年がペンを止めた。
前列の明るい髪の少女は小さく頷き、すぐに黒板へ視線を戻す。
「分かりました」
エアリスはその言葉をノートに書いた。
力は身分ではない。
責任が伴う。
授業の後半では、魔界の裂け目にも触れられた。
「詳しい位置や封鎖術式は制限資料です。ですが、魔物が裂け目を通って現実へ侵入することは、皆さんが知っておくべき現実です」
教師は黒板に、裂け目のような簡単な図を描く。
「魔物は交渉できる相手ではありません。知性を持つ個体も報告されていますが、多くは強い戦闘本能で動く。大切なのは、恐れすぎないこと、そして見誤らないことです」
「見誤らない?」
前列の少女が小さく呟いた。
教師は板書の端を叩いた。
「自分が何をできるか。何をできないか。味方に何を任せるか。敵が何をしてくるか。魔法使いが最初に失うのは、たいてい魔力ではなく判断です」
その言葉は、教室の中に残った。
授業の終わり近く、後ろの扉が静かに開いた。マグヌスが入ってくる。教師は軽く頭を下げたが、授業を止めなかった。学生たちも、驚いた様子はない。
マグヌスは後方で、静かに授業を聞いていた。
最後の鐘が鳴る。
「今日の午後は、予定通り総合実技場へ移動します。魔力制御の基礎と適性確認を行いますので、各自準備しておくように」
教師がそう言って、授業は終わった。
すぐに教室が騒がしくなるわけではなかった。
学生たちは、まず互いの顔を見た。エアリスへ近づく者、まだ距離を置く者、友人と短く言葉を交わす者。反応は分かれている。
隣の席の少女が、そっと声をかけてきた。
「さっきの質問、よかったと思う」
「ありがとうございます」
「初日にあれを聞くの、けっこう勇気いるよ」
「気になっただけです」
「それがすごいんだけど」
少女は苦笑した。
銀灰色の髪の少年は、席を立たずにこちらを見ていた。手元の紙へ、いくつかの短い言葉を書き込んでいる。
エアリスが視線を向けると、少年は紙を伏せ、礼儀正しく会釈した。敵意はない。ただ、何も見逃す気もなさそうだった。
教室の前では、マグヌスが学生たちを見渡していた。
「新しい同級生に興味を持つのは悪いことではありません」
マグヌスは声を荒げなかった。
「ただし、誰かを測ろうとする時、自分もまた測られています。それを忘れないように」
学生たちは静かに返事をした。話し声はそこで切れた。
マグヌスはエアリスへ目を向ける。
「ヴァレン嬢。午後は総合実技場です。案内は、どなたかに頼むとよいでしょう」
「はい」
その言葉を待っていたように、前列の明るい髪の少女が立ち上がった。
「じゃあ、私が案内する」
彼女はまっすぐエアリスの席まで来た。
「私はセリナ。セリナ・フレイア・グランツベルク。ガイア帝国から来てるの」
「エアリス・アウレリア・ヴァレンです」
「知ってる。さっき聞いたから」
セリナは笑った。
「昼食の場所も分かりにくいし、総合実技場も初見だと迷うよ。よかったら一緒に行かない?」
距離が近い。
押しつけがましくはなかった。明るいのに、相手の返事を待ってくれる。
「お願いします」
「決まり。じゃあ、昼は食堂ね」
セリナは軽く手を打った。
その時、カバンの中で魔導書がかすかに動く。
エアリスは指先でそっと押さえた。
「本らしく、お願いします」
「何か言った?」
セリナが首を傾げる。
「いいえ。こちらの話です」
「そっか」
セリナは深く聞かなかった。
昼食は食堂で取った。
食堂は広く、講義棟よりずっと賑やかだった。席の間を歩く間、セリナはいくつもの相手から声をかけられた。騎士候補らしい少年、神官服に近い制服の少女、遠くの席で手だけを上げた学生。セリナはどの相手にも自然に返事をした。
入口で学生証をかざすと、受け取り口の木札に今日の献立が浮かんだ。白パン、豆のスープ、香草焼きの鶏、苺入りの小さな焼き菓子。隣の列では別の班の学生たちが、放課後に寄る書店と演習室の予約の話をしていた。
席に着いてから、エアリスは焼き菓子を最後に割った。赤い果肉の酸味が、甘さの奥に残る。
「甘いだけではないんですね」
「苺? そういうところが好きな人、多いよ」
「分かる気がします」
「知り合いが多いんですね」
「たぶん多い方かな。話しておくと、困った時に助かるから」
「困った時」
「学院って広いし、家も国も違う人が集まるでしょ。正面からぶつかるだけだと、けっこう疲れるんだよ」
セリナは軽く笑った。
昼食のあと、二人は総合実技場へ向かった。
建物の中へ入ると、講義棟とは違い、足元の魔導陣と壁の結界紋が先に目に入った。奥には訓練場がいくつも並び、その手前に測定室があった。
「初日は魔力制御の基礎って聞いてたけど、あなたは適性確認が先かもね」
「そうなんですか?」
「編入生だし。しかも、大主教閣下の推薦だし」
セリナは声を落とす。
「みんな、気にしてるよ。あなたの適性が、どこに出るのか」
「正式な測定は、まだ受けていません」
セリナが足を止めた。
「……じゃあ、今日が本当に初めてなんだ」
「はい」
「大主教閣下の推薦って、やっぱり普通じゃないね」
セリナは驚いた顔をした。けれど、その声に馬鹿にする響きはなかった。
「ますます気になるね」
測定室の前には、担当教師と測定官がいた。少し離れた場所に、マグヌスも立っている。
「ヴァレン嬢」
マグヌスが測定台の横から声をかけた。
「初日の測定は、優劣を決めるためのものではありません。これから何を学ぶかを決めるためのものです」
「分かりました」
「力を入れすぎず、自然に触れてください」
測定台の上には、透明な結晶球が置かれていた。
エアリスは一歩前へ出る。
背後のざわめきが消えた。セリナも黙っている。カバンの中の魔導書は、今のところ動かない。
エアリスは結晶球に手を置いた。
最初に、白い光が灯った。
それだけなら、誰も驚かなかったかもしれない。
けれど、光はそこで止まらなかった。




