第十一話:九色の光
白い光の奥に、青が灯った。
水面を思わせる青だった。
測定官の指が、記録結晶の上で止まる。
次に薄い緑が広がった。風の色だと、午前の授業で聞いたばかりだった。続いて深い緑。大地。赤。炎。淡い紫。夢。深い紅。血。銀。星。
最後に、黒が浮いた。
黒は光ではないはずなのに、結晶球の中で沈まず、輪郭を持っていた。
九つの色は混ざらなかった。
濁らず、互いを押しのけず、それぞれの色を保って輝いている。結晶球の表面に、細い光の筋が走った。測定台の魔導陣が一度強く光り、壁の記録板にも同じ九色が映る。
背後で、誰かのペンが机に当たった。
「……九つ」
誰かが小さく呟いた。
「混ざっていない」
「結晶の過負荷なら、もっと白く濁るはずだ」
声は低かった。視線は結晶球と記録板を行き来している。
セリナは口を開けかけ、すぐ閉じた。
マグヌスは測定台の横に立ったまま、声を荒げなかった。
「記録を止めないでください。結界の反応も残します」
「は、はい」
測定官が慌てて手を動かす。
記録結晶に、細かな文字と数値が流れ始めた。測定官の顔から血の気が引く。
「全属性、反応値が上限――」
「読み上げは不要です」
マグヌスが短く止めた。
「記録だけ残してください。今ここで数値を扱う必要はありません」
測定官は息を呑み、すぐに頷いた。
エアリスは結晶球に手を置いたまま、自分の指を見る。痛みはない。熱もない。手のひらの下に、硬いガラスのような感触だけがある。
九つの光。
自分の中に、そんなものがあったという実感はなかった。
「ヴァレン嬢」
マグヌスが声をかけた。
「手を離して構いません」
「はい」
エアリスが手を引くと、結晶球の光はすぐには消えなかった。九色が数呼吸ほど残り、それから順に薄れていく。
白。青。薄緑。深緑。赤。紫。紅。銀。黒。
最後に残った黒い輪だけが、遅れて消えた。
その時だった。
カバンの留め具が、かちりと鳴った。
エアリスが振り返るより早く、黒い魔導書がカバンから抜け出す。押さえようとした指先をすり抜け、魔導書は空中をまっすぐ滑り、エアリスの手の中へ収まった。
「……アキさん」
声は小さかった。
魔導書が開く。
頁の上から、アキが姿を現した。彼はいつになく真面目な顔をしている。真面目すぎて、かえって不安になる顔だった。
アキはエアリスの前で片膝をついた。
「こんにちは。僕の名はアキ」
測定室中の視線が、今度は魔導書へ集まる。
「九色の光に応えて参りました。どうか、あなたの契約精霊としてお認めください。我が主」
教師が口を開きかけたまま止まった。測定官も、記録結晶から目を離せずにいる。
学生たちは一瞬だけ言葉を失った。
「契約精霊……?」
「今、召喚されたのか」
「媒介は本か」
「でも、契約式は見えなかった」
低い声が続いた。
エアリスはアキを見た。
アキの目元だけが、楽しそうだった。
否定するには遅い。周囲はもう、これを召喚として見ている。ここで違うと言えば、アキはもっと丁寧に演じ直す。
エアリスは短く息を吐いた。
「……分かりました。よろしくお願いします、アキ」
「ありがとうございます」
アキは大げさに頭を下げた。
頁が淡く光る。
結晶球に残っていた九色の名残が、細い糸のように魔導書の上へ引かれた。光は頁の上で小さな輪を描き、すぐに消える。
周囲には、契約の儀式に見えた。
エアリスには、何も変わっていないことが分かった。
「これより、あなたの命令に従います」
アキはそう言って、魔導書の中へ戻った。
魔導書は、ぱたりと閉じた。
セリナがゆっくりこちらを見た。
「今の、知り合い?」
「契約精霊です」
「それ、知り合いにする答え方だよね」
「……契約精霊です」
セリナは一拍置き、肩を震わせて笑いをこらえた。
マグヌスが手を軽く上げた。
「ここまでにしましょう」
測定室のざわめきが収まる。
「本日の結果は仮記録として扱います。測定官は結晶球、記録板、防護結界の状態を確認してください。担当教師は、Aクラス全員を実技場へ移動させてください」
「学院長先生」
後方の学生が手を上げた。
「仮記録なら、このまま授業に戻る形でよろしいですか」
マグヌスはその学生へ頷く。
「ええ。測定の確認は学院側で行います。皆さんは予定通り授業を続けなさい」
学生たちは短く返事をした。
「珍しい結果を前にしても、礼を失わないこと。それもこの学院で学ぶべきことです」
近くにいた学生が、エアリスへ短く会釈した。
別の学生は、記録板から視線を外して教師の指示を待っている。
エアリスはマグヌスを見る。
マグヌスは、すぐに次の指示へ移った。
「ヴァレン嬢」
「はい」
「疲れはありますか」
「ありません」
「では、予定を軽く変えます。今日は魔力制御の基礎ではなく、短い連携訓練にしましょう。魔法をまだ本格的に扱ったことがないなら、まずは実技場の形式に慣れる方がよい」
「分かりました」
測定室を出ると、総合実技場の音が戻ってきた。
遠くで結界が鳴る。床に刻まれた魔導陣が淡く光り、別の訓練場では上級生らしき学生が術式を組んでいた。光の壁に炎が当たり、細かな火花になって散る。
すぐに囲む者はいなかった。
数人は測定室を振り返り、数人は教師の指示を待っていた。
セリナだけは変わらなかった。
「ねえ、エアリス」
「はい」
「エアリスって呼んでいい?」
「はい。では、私もセリナと呼びます」
「うん。その方が楽」
セリナの表情が明るくなる。
「それで、さっきの契約精霊さん。あれ、絶対に普通じゃないよね」
「普通らしくしてほしいとは、お願いしました」
「お願いした結果があれなんだ」
「はい」
「大変そう」
「はい」
エアリスが真面目に頷くと、セリナは肩を揺らした。
担当教師が訓練場の中央に立つ。
「今日は二人一組で、訓練魔物への対処を行います。目的は勝敗ではなく、連携と距離感の確認です。各組、第三階位相当までの訓練魔物を選ぶように。危険があれば、こちらで結界を閉じます」
学生たちはすぐに動き始めた。
組む相手は、ほとんど決まっているらしい。目配せだけで並ぶ者もいれば、短く条件を確認する者もいる。
エアリスが周囲を見ると、セリナが手を上げた。
「じゃあ、私と組まない?」
「お願いします」
「早いね」
「セリナ以外に、まだよく知っている方がいません」
「それ、ちょっと嬉しい」
セリナは胸の前で拳を握った。
「じゃあ、第三階位相当を二体でいい? 私は炎で前に出るから、エアリスは後ろで見てて。危なかったら下がって」
「はい」
「本当に魔法を使ったことないんだよね」
「ありません」
「なら、まず見るだけで十分。九属性でも、最初の実技で無理する必要はないから」
その言い方に、エアリスは目を瞬かせた。
セリナは、九色を見ても近づきすぎず、特別扱いもしなかった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
二人は教師へ申請し、訓練場の一角へ入った。
床の魔導陣が光る。
結界が半透明の壁になって周囲を囲んだ。その向こう側に、二体の魔物が現れる。
獣に似ているが、獣ではない。
肩の位置が左右で違い、背中から硬い棘が伸びていた。目は赤く、口の端から黒い涎のようなものが落ちている。実体は薄い。訓練用に調整された魔物だと聞いていても、敵意だけは本物に近かった。
セリナの手のひらに炎が乗った。
小さな火ではない。掌の上で圧縮され、輪郭を保っている。火の色は明るく、熱は周囲へほとんど漏れていなかった。
「まず、右を止める。左は距離を見て――」
ぱちん。
指を鳴らす音がした。
カバンの中からだった。
二体の魔物が消えた。
倒れたのではない。燃えたのでもない。結界の中から、気配ごと抜き取られたように消えた。床の魔導陣だけが、数秒遅れて反応を終える。
セリナの炎が、掌の上で止まった。
担当教師も、結界制御の札を手にしたまま固まっている。
カバンの中で、魔導書が開いた。
「危なそうだったから、片づけておいたよ」
アキの声がした。
エアリスはカバンに視線を落とす。
「アキさん」
「はい」
「普通の契約精霊らしくしてください、と言いました」
「主を守るのは普通じゃない?」
「訓練です」
「訓練でも危ない時は危ないよ」
「セリナが説明している途中でした」
魔導書が黙った。
セリナは掌の炎を消し、ゆっくりエアリスの方を向く。
「今の、どうやったの?」
「契約精霊が、勝手に」
「勝手に魔物を消す契約精霊」
セリナはその言葉を一度口の中で転がすように言った。
それから、目を輝かせる。
「面白いね、あなた」
「私ではなく、アキさんが厄介です」
「そこ、分けて考えるんだ」
「はい」
結界の外で、教師がようやく咳払いをした。
「ヴァレン嬢。契約精霊の自主行動は、次から事前に止めるように」
「はい。努力します」
「努力、ですか」
「止められるかは、まだ分かりません」
教師は一度、魔導書を見た。
叱る言葉を探している顔だった。
「……では、次は監督側で制限をかけます」
マグヌスは結界の外で見ていた。
彼は笑わなかった。
「よい判断です。訓練場は、生徒だけでなく、契約相手の性質も見る場所になりますから」
「学院長先生」
エアリスが言うと、マグヌスは頷いた。
「ヴァレン嬢。君の今日の課題は一つ増えました」
「何でしょうか」
「自分の契約精霊に、待つことを覚えさせることです」
カバンの中で、頁が一枚鳴った。
セリナはこらえきれずに笑った。
「それ、私も見たい」
「難しい課題だと思います」
エアリスが答えると、魔導書の表紙が半分閉じた。
「聞こえてるよ」
「聞こえるように言いました」
セリナの笑いにつられ、近くの学生が息を吐いた。
遠くの訓練場でも、何人かがこちらを見ていた。
教師が手を打つまで、近くの学生たちは動かなかった。
エアリスはカバンの口を押さえ、セリナの隣に立った。
次は、本当に見るところから始めなければならない。
そう考えていると、セリナが小声で言った。
「次の魔物は、私が燃やすからね」
「はい」
「契約精霊さんにも、言っておいて」
エアリスはカバンに視線を落とした。
「アキさん」
「はいはい」
「次は、待ってください」
魔導書は、返事の代わりに表紙を一度だけ鳴らした。




