第十二話:図書館に残る問い
次に現れた訓練魔物は、一体だけだった。
担当教師が制御札を操作し、訓練場の端に薄い線を走らせる。アキの魔導書は、エアリスのカバンの中で大人しく閉じていた。
「今度は待ってください」
エアリスが言うと、魔導書の表紙が一度だけ鳴った。
「返事として受け取ります」
「それでいいんだ」
隣で、セリナが笑いをこらえていた。
結界の向こうに、前足だけが不自然に長い魔物が立つ。先ほどの二体より小さい。赤い目と歪んだ肩は同じだった。訓練用に調整されているとはいえ、こちらへ向ける敵意ははっきりしている。
「今度こそ、私がやるね」
セリナの手に炎が灯った。
「炎環」
炎は広がらない。手のひらの上で丸くまとまり、そこから細い糸のように伸びる。火の糸は空中で輪を描き、魔物の足元へ落ちた。
魔物が跳ぶ。
その前に、床の魔導陣が赤く光った。火の輪が閉じ、魔物の足を止める。セリナは一歩踏み込み、指先を払った。
小さな火球が、魔物の肩に当たる。
爆ぜる音は短かった。強い火力ではない。逃げ道を一つずつ消し、相手の動きを絞るための炎だった。
エアリスは、火の輪の動きを目で追った。
炎は明るく、無駄に揺れない。セリナの呼吸と一緒に、火の輪がゆっくり位置を変える。
「左へ逃がすから、そこだけ見てて」
「はい」
セリナが声をかける。
魔物が左へ逃げる。エアリスは、そこにあった結界の線を見る。薄い光の壁。魔物はぶつかる寸前で進路を変えた。
「今」
セリナの炎が伸びる。
火の糸が魔物の脚を絡め取り、床へ倒した。担当教師が札を上げると、魔物は淡い光になって消えた。
「そこまで」
教師の声で、結界が解ける。
セリナは息を吐き、手の中の火を消した。
「こんな感じ。今日は軽めだけど」
「綺麗でした」
「そこ?」
「はい。炎が、暴れていませんでした」
セリナは目を丸くした。それから、嬉しそうに笑った。
「いいところ見てくれるね」
「もっと強い火も使えるんですか?」
「使えるよ。でも、実技場でいきなり出すと先生に怒られる」
「では、見ない方がいいですね」
「そこは『いつか見たいです』って言うところじゃない?」
「見たいです」
「遅い」
セリナが笑う。
カバンの中で、魔導書が小さく鳴った。
「アキさん」
「まだ何もしてないよ」
「何か言いたそうでした」
「見守るのも契約精霊の仕事だからね」
「今はそれでお願いします」
「はいはい」
教師は二人を見て、短く記録板へ何かを書き込んだ。
「ヴァレン嬢は、今日は観察を中心にして構いません。次回から魔力制御の基礎を始めます。グランツベルク嬢は、炎の拘束線が安定していました。ただし、最後の火球は少し速い。次からは味方の位置も確認してから撃ちなさい」
「はい」
セリナは素直に返事をした。
授業が終わる頃には、総合実技場の光も夕方の色に変わっていた。学生たちは組ごとに教師へ短い報告をし、順に訓練場を出ていく。
セリナはカバンを肩にかけた。
「私は寮に戻るね。今日の記録、まとめておきたいし」
「記録ですか?」
「家に送る分もあるから。初日から九色の編入生と組んだって書いたら、たぶん驚かれる」
「それは、書いていいものですか?」
「学院で禁止されてる数字や測定値は書かないよ。今日一緒に組んだ、くらい」
「なら、大丈夫だと思います」
「真面目だねえ」
セリナは軽く手を振った。
「また明日、エアリス」
「はい。また明日、セリナ」
別れてから、エアリスは一度だけ総合実技場を振り返った。
測定室。
九色の光。
契約精霊として膝をついたアキ。
今日のことは、まだノートに整理できていない。
図書館は、まだ開いている。
エアリスはカバンを持ち直し、回廊を曲がった。
扉をくぐると、昨日と同じ匂いがした。
放課後の時間だからか、昨日より人は多い。窓辺の席には上級生らしい学生が座り、二階の回廊では職員が本を戻していた。話し声は少ない。頁をめくる音と、結晶板へ触れる小さな音だけが聞こえる。
エアリスが昨日の席へ向かうと、机の上に昨日預けた本が積まれていた。
聖都地誌。学術院制度。魔導理論の入門書。ゼニスクライム建築史。
昨日、閉館間際に預けた本だ。
「来ると思った」
背後から声がした。
振り返ると、昨日の少女が本を数冊抱えて立っている。制服の上に薄い外套。口元には、昨日と同じ笑みがあった。
「こんばんは」
「こんばんは、九色の編入生さん」
エアリスは机の上の本を胸元へ寄せた。
「もう、その呼び方になっているんですか?」
「なってるね。昼過ぎまでは『大主教閣下の連れてきた子』だったけど、実技の後に更新された」
「噂にもいろいろある、と言っていましたね」
「覚えてたんだ」
「はい」
「じゃあ、最新版は九色の編入生。契約精霊つき」
少女は机の上の本を見た。
「今日は何を探す?」
エアリスはカバンを椅子の横に置いた。
「契約精霊について。それから、神授物と魔界の裂け目についても」
「範囲が広い」
「広いですか?」
「初めて台所に立った人が、包丁の持ち方と宮廷料理と食材の仕入れを同時に調べるくらいには広い」
エアリスは考えた。
「それらは、つながっているのでは?」
「つながってるけど、普通は包丁から入る」
「では、包丁の本をお願いします」
少女は数秒だけ黙り、それから吹き出した。
「君ってさ、本当に真面目に変な子だね」
「変ですか?」
「褒めてる」
「ありがとうございます」
「そこも素直」
少女は抱えていた本を机へ置いた。
「契約精霊なら、まずこれ。『精霊契約入門』。神授物はこっちの棚。魔界の裂け目は二階の東側。危ない術式や具体的な裂け目の位置は制限付きだから、公開資料だけね」
「制限があるんですね」
「あるよ。場所や封鎖術式を悪用されたら困るでしょ」
「そうですね」
「それで、どれから読む?」
エアリスは迷ってから、契約精霊の本を開いた。
契約者。媒介。対価。距離制限。主従関係。維持に必要なマナ。
項目は整理されている。契約精霊は、契約者のマナや精神状態に影響を受けることが多い。媒介となる物品を持つ例もある。契約には、双方の同意や条件が必要になる。
読み進めるほど、アキには当てはまらない部分が増えた。
本に宿る。
勝手に出てくる。
測定室で契約精霊を名乗る。
訓練魔物を勝手に消す。
どれも、入門書の例にはなかった。
「どう?」
少女が横から尋ねる。
「役に立ちました」
「当てはまった?」
「ほとんど当てはまりません」
「それ、役に立ったって言うのかな」
「違うことが分かるのも、役に立ちます」
少女は目を丸くした。
「いい読み方するね」
「そうですか?」
「うん。答えだけ探す人より、だいぶいい」
エアリスは次に、魔界の裂け目の基礎資料を開いた。
授業で聞いた内容より、実務寄りだった。裂け目の規模、周囲の退避、結界柱の確認、魔物侵入時の初動。学生向けなので、危険な封鎖術式や正確な位置は伏せられている。
それでも、読みたいことは多かった。
上級生は、監督付きで危険度の低い裂け目の見学や支援に参加することがある。学術院の記録には、見学前に精神耐性と危機判断の確認を行うと書かれていた。
「学生も行くんですね」
「上級生からね。全員じゃないよ」
「怖くないんですか?」
「怖いでしょ。でも、知らないまま大人になる方が怖いって考える人もいる」
「マグヌス学院長ですか?」
「たぶんね。そういうところはあると思う」
少女は棚の方へ目を向けた。
「学院長は優しいよ。教えるのもうまい。でも、弱いままでいいとは言わない人」
「悪いことですか?」
「分からない。魔物は、お願いして止まってくれる相手じゃないし」
軽い言い方だった。それでも、今日見た訓練魔物の赤い目を思い出すと、聞き流せなかった。
エアリスは神授物の本へ手を伸ばした。
表紙には『神授物管理概論・公開版』とある。
ページを開くと、章立ては整っていた。
神授物とは、神から地上へ授けられる奇跡の器である。
教廷は発見報告を受け、現地確認を行い、必要に応じて仮封印を施す。その後、鑑定、管理科への報告、収容科への移管、または現地保護の判断が下される。
代表例も載っていた。
癒やしをもたらした杯。
水を呼んだ青い杖。
戦場で結界を張った白銀の輪。
どれも、神の恵みとして説明されている。
どの事例にも、発見時の波動反応という欄があった。
見出しも手順も整っていて、学生が読むには分かりやすい。
エアリスは、発見前の欄を探して手を止めた。
「発見報告」
少女が顔を上げる。
「ん?」
「神授物が発見された後の流れは分かります。でも、発見される前に、どこへ現れたかを知る方法が書かれていません」
「そこは公開資料だとぼかされるね」
「危険だからですか?」
「たぶん。神授物の場所を知る方法なんて、悪用されたらまずいでしょ」
そう説明されれば、納得はできる。
エアリスは返事をしかけて、止めた。
ルセリアを襲った邪教は、葬夜の棺の発見地点か運搬経路を知っていた可能性がある。
アキがそう言っていた。
なら、問題は神授物の場所をどう知るかだけではない。
その情報が、誰まで届くのか。
エアリスはノートを開いた。
神授物の発見前に、波動反応を誰が確認するのか。
発見報告は誰から上がるのか。
管理科、収容科、情報科のどこまで共有されるのか。
邪教は、どうやって発見地点か運搬経路を知ったのか。
「難しい顔してる」
少女が言った。
「難しいところを読んでいます」
「そういう時は、答えより問いを書いておくといいよ」
「問いを?」
「うん。答えを急ぐと、違う方へ行くことがあるから。分からない時は、問いだけ書いておけばいい」
エアリスは、ペンを止めた。
「良い言葉ですね」
「受け売り」
「誰からですか?」
「それはまだ秘密」
少女は軽く笑った。
エアリスはノートの端に、短く書き足した。
問いを書いておく。
書き足した文字の端に、インクがまだ光っていた。
カバンの中で、魔導書がかすかに動いた。
エアリスは手を置いた。
「アキさん」
小声で言う。
「ここは図書館です」
魔導書は大人しくなった。
少女はカバンの方を見た。
「契約精霊さん、今もいるんだ」
「はい」
「本に入ってるの、便利だね」
「便利ですが、時々困ります」
「今日、魔物を消したって聞いた」
「消しました」
「本人が消したみたいに言うね」
「私の契約精霊ということになっているので」
「責任感が強い」
少女はそう言って、机の上の本を揃えた。
「今日はこのくらいにする?」
「まだ時間があります」
「あるけど、登校二日目から寝不足になりたい?」
「なりたくありません」
「模範解答」
少女は閲覧札の番号を確かめ、本を揃えていく。手つきは早いが、雑ではない。
「明日も読めますか?」
「読めるよ。あなた用に置いておく」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
エアリスは迷ってから、昨日と同じ質問をした。
「名前を聞いてもいいですか?」
少女は本を抱え直し、返事を選ぶように一度だけ視線を落とした。
「今日はまだ」
「二度目です」
「そう。二度目だから、半分友だち」
「半分友だち」
「名前を知らないから半分。二回会ったから友人」
エアリスは本の背に指を添えた。
「では、半分よろしくお願いします」
「うん。半分よろしく」
少女は笑い、受付の方へ歩いていった。
エアリスはノートを閉じる。
本は借りなかった。
ノートには、短い言葉がいくつも残っている。
発見報告。
波動反応。
情報の行き先。
そして、まだ名前を知らない半分友だち。
図書館を出ると、夜の廊下に白い灯りが伸びていた。
エアリスはカバンを持ち直し、ゼニスクライムへ戻る道を歩き出した。




