第十三話:神喩の名
ゼニスクライムへ戻る頃には、聖都の灯りは夜の色に沈んでいた。
下層の通りは、昼より静かに見えた。人の気配は消えていない。遠くで鐘が鳴り、窓の下にはまだ小さな明かりが残っている。
エアリスは私邸へ入り、カバンを机の横に置いた。
ルセリアは書類を読んでいた。机の上には封蝋つきの書簡が数通、種類ごとに分けられている。帰ってきたエアリスを見ると、顔を上げた。
机の脇には、エアリスの分の湯飲みも置かれていた。湯気はもう細い。
「おかえりなさい。今日も図書館?」
「はい」
「楽しかった?」
「はい。半分友だちができました」
ルセリアは一度まばたきをした。
「半分?」
「名前をまだ聞いていません。でも、二回会ったので友人だそうです」
「面白い数え方ね」
カバンの中で、魔導書がぱたんと開いた。
「じゃあ、あと二回会えば一人前の友人になるのかな」
「分かりません」
「そこは計算しようよ」
「名前を聞いてから考えます」
アキは魔導書から上半身だけを出し、机の端に肘を置いた。
「で、図書館では何か見つかった?」
エアリスは湯飲みに手を添え、それからノートを出した。冷めかけていたが、指先にはまだ温かい。
「答えではありません。問いです」
「いいね」
アキは短く言った。茶化す調子ではなかった。
エアリスはノートを開き、今日書いた部分を指で押さえる。
「神授物が発見された後の流れは、公開資料でも分かりました。現地で確かめ、仮に封じ、鑑定する。その後、記録と保管を扱う部署へ回すか、現地に残すかを決めるんですね」
ルセリアは手元の書類の端を指で押さえた。
「公開資料なら、そのあたりでしょうね」
「でも、発見される前の道筋が書かれていません。最初の波動を誰が見て、誰が報告し、その報告がどの部署へ渡るのか」
ルセリアの表情が引き締まった。
「そこに気づいたのね」
「はい。邪教が葬夜の棺の発見地点か運搬経路を知っていたなら、発見前の情報に触れた可能性があります」
ルセリアの指が、書類の端で止まった。
机の端に置かれていた黒曜石の小さな棺が、低く光った。ノクティラの声がそこから響く。
「続けよ」
ルセリアは書類を閉じ、机の端から薄い紙束を一つ取った。
教廷の報告控えだった。白い紙の上に、管理科と収容科の印が並んでいる。ルセリアはその一枚を選び、エアリスの前へ置いた。
「公開資料に載らないのは当然よ。教廷が神授物を探す方法は、一般には教えられない」
「方法があるんですね」
「ええ。教廷では、神喩と呼ばれているわ」
「神喩」
エアリスはその言葉をノートの余白に書いた。
「初代教皇が残した装置だと伝えられている。光の神アウレクスから授けられたもの。神授物が地上に現れた時、位置と、どの神に属するか、それから用途の断片を示す」
「受け取るのは、大主教の方々ですか?」
「毎回ではないわ。神喩には記録係と確認役がいる。強い反応なら、私たちや教皇のもとへ上がる」
「確認役もいるんですね」
「ええ。記録だけでは済ませられないものだから」
アキは黙っている。
黒曜石の棺も、光ったまま動かない。
エアリスはペンを止めた。
「葬夜の棺については、何が示されたんですか?」
ルセリアは報告控えの一行を指した。
位置。
帰属神格、ノクティラ。
「用途は?」
ルセリアの指が、一つ下の欄で止まる。
用途。
そこには何も書かれていなかった。
ノクティラの姿が、棺のそばに現れる。黒い髪と黒い瞳。昨夜よりも輪郭は薄いが、声ははっきりしていた。
彼女は報告控えを見たまま、しばらく黙っていた。
「……その神喩とやらは、おかしい」
ルセリアの表情が変わる。
「ノクティラ様」
「我は、人間どもの道具を一つ一つ見ているわけではない。だが、今の話が事実なら、ただの手違いでは済まぬ」
「葬夜の棺が、神授物として見つかったことですか?」
「そうだ」
ノクティラは棺を見下ろした。
「神授物とは、神が地上へ与える器だ。人間が魔物に抗うため。外からの脅威に備えるため。そういうものとして扱われているのだろう」
「はい」
エアリスは報告控えを見た。
「では、これは誰が授けたことになるんですか?」
ノクティラの視線が、エアリスへ移った。
「そこだ」
短い返事だった。
「少なくとも、教廷が言うような形で人間へ器を授けたことはない。そもそも、我が地上へ器を下すことなど、まずない。これは、我が人間へ授けたものではない。我自身を閉じ込める器だ」
ルセリアは報告控えから目を離せなかった。
「用途が示されなかったのは、隠されたからですか?」
エアリスが尋ねた。
ノクティラは報告控えへ目を戻した。
「断じるには足りぬ。だが、読み違いではない。最初から示す内容が絞られている可能性はある」
「神喩が、出す情報を選んだということですか?」
「位置と帰属神格。そこまでは出た。だが、本質だけが抜けている」
アキがようやく口を開いた。
「分かっているのは、神喩に何かあるってことだね。誰が、どう触ったかまではまだ分からない」
「貴様は知っているのではないのか」
ノクティラの視線がアキへ向く。
アキは肩をすくめた。
「知ってたら、もっと楽な話をしてるよ」
「信用できぬ」
「信用しないくらいでちょうどいい」
二人のやり取りを、ルセリアは遮らなかった。
彼女は一度、閉じた書類へ目を落とした。それから、エアリスへ向き直る。
「神喩が関わるなら、話は教廷内の情報経路だけでは済まないわ」
「神の領域に近い、ということですか?」
「ええ」
ルセリアの声は低くなっていた。
「今、私たちが確かに追えるのは邪教ね」
エアリスはペンを持ち直す。
「邪教」
「神喩がおかしいとしても、誰がどう触れたのかは分からない。けれど、私を襲ったのは邪教。ローゼンベルク子爵領を使ったのも邪教。なら、まずはそこから見るのが筋でしょう」
「邪教は、魔物とも関係がありますか?」
ノクティラが答えた。
「深い。魔物は魔界から来る。邪教がそれを利用しているなら、境界にも近い」
「境界」
「魔界と現世の境だ」
エアリスは、昼に読んだ魔界の裂け目の資料を思い出した。裂け目の規模、結界柱、退避手順。公開資料には、学生が知るべき最低限の危険が並んでいた。
「じゃあ、邪教を追えば、神喩の異常に近づくかもしれない」
アキが言った。
「今はそのくらいでいい。名前の分からない相手を、無理に当てに行かなくていいよ」
「背後にいる相手を、ですか?」
「うん。今は輪郭もない。影に名前をつけると、だいたい間違える」
ノクティラは不機嫌そうにアキを見たが、否定はしなかった。
ルセリアはノートの上へ視線を落とす。
「私は、神喩に関する記録を調べるわ。ただし、装置そのものへすぐ触れるのは避ける。まずは記録。過去の出力、最初に受けた者、管理科へ渡った時刻、収容科へ移された時刻、情報科が閲覧した形跡」
「危なくありませんか?」
「危ないわ」
ルセリアははっきり言った。
「でも、調べない方がもっと危ない。神授物の情報が外へ漏れた可能性がある。あるいは、神喩そのものが歪んでいる可能性がある。大主教として、放ってはおけないわ」
エアリスはノートの余白を空けたまま尋ねた。
「私は、何をすればいいですか?」
「学びなさい」
ルセリアは即答した。
エアリスは目を上げる。
「学ぶ、ですか?」
「ええ。探ろうとしなくていい。無理に聞き出す必要もない。あなたはまだ学術院に入ったばかりよ。授業を受けて、本を読んで、友人を作る。それで十分」
「でも」
「その中で、もし邪教や神授物、魔界の裂け目に関わる話を耳にしたら、覚えておいて。今のあなたには、それでいい」
エアリスはノートの余白に、邪教、神授物、魔界の裂け目と書いた。
線は引かない。ペン先だけが、紙の上で一度止まった。
「分かりました」
アキが横から口を挟む。
「エアリス君は、学生生活を楽しむ係だね」
「係ではありません」
「でも大事だよ。友達を作る。授業を聞く。図書館に行く。契約精霊に待つことを教える」
「最後はアキさんの課題です」
「はい」
返事が早かった。
ルセリアは額に手を当てた。
「明日の授業中も、勝手に出てこないこと」
「分かってるよ。今日だって、二回目は我慢した」
「一回目が問題だったのです」
エアリスが言うと、アキは視線をそらした。
「そこを突かれると弱い」
ノクティラは、机の端に置かれたノートを見ていた。
「その三つの言葉は、消すな」
急にそう言った。
エアリスは顔を向ける。
「この三つ、ですか?」
「今は結びつけるな。消さずに残せ。それでよい」
「図書館の半分友だちも、似たことを言っていました」
「半分友だちとは何だ」
「名前を知らない友人です」
ノクティラは沈黙した。
アキが笑いかけたが、エアリスが先に魔導書を閉じた。
「今日は、もう遅いです」
「え、今のは僕の出番じゃない?」
「明日も授業があります」
「はい」
魔導書は大人しく閉じた。
ノクティラも棺へ戻る。最後に、低い声が残った。
「神喩の名は覚えた。次に聞くときは、もっと詳しく聞く」
「ええ」
ルセリアは灯りの落ちたノートを見た。
エアリスはノートを閉じる前に、余白の三つの言葉をもう一度見た。
ペンは置いた。
ルセリアは書類をまとめ、神喩の記録閲覧に必要な申請書を一枚取り出した。
エアリスはノートを閉じ、カバンにしまった。




