第十四話:魔力制御の基礎
翌朝、エアリスが身支度を終えて居間へ入ると、ルセリアはすでに机に向かっていた。
机の上には、封筒と申請書がいくつも積まれている。どれも教廷の印が押されたものだった。
「おはようございます」
「おはよう。眠れた?」
「はい」
「ならよかったわ」
ルセリアは短く答え、書類の一枚に目を戻した。昨日の夜に話した神喩のこともある。朝から楽な仕事ではないはずだ。それでも、ペンは止まらなかった。
「今日は予定通り学術院へ行きなさい。こちらは私が進めておくわ」
「手伝わなくていいんですか?」
「今のあなたに、ここで手伝えることは多くないわ。それより、授業を受けて、学術院に慣れること」
「はい」
エアリスは頷いた。
カバンの中で、魔導書がかすかに動いた。
「僕も慣れる練習が必要そうだね」
アキの声がする。
「今日は勝手に出ないでください」
「まだ朝の挨拶しかしてないよ」
「昨日のことがあります」
「信用が薄い」
アキは不満そうだったが、カバンの中から出てくる気配はなかった。
机の端に置かれた黒曜石の小さな棺は、何も言わない。冷たい重みだけがそこにある。
ルセリアはそれを一度見てから、エアリスへ視線を戻した。
「昨日の話は、外で出さないこと。神授物のことも、神喩のことも、ノクティラ様のことも」
「分かっています」
「学術院で知ることは、学術院で学ぶこととして受け取りなさい。無理に探ろうとしなくていい」
「はい」
「それと、アキ」
「はいはい」
「授業中は、本当に控えめに」
「僕、そんなに信用ない?」
「ないわね」
ルセリアが即答すると、アキは黙った。
エアリスはカバンの留め具を確かめ、玄関へ向かった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
その声は、昨日より自然に聞こえた。
学術院へ向かう道は、朝から人が多かった。
白い街路では、学生や神官、管理科の職員がそれぞれの行き先へ歩いていた。遠くで鐘が鳴る。店先には焼きたてのパンが並び、広場へ続く柱には、来月の光神祭に使う白い飾り紐が結ばれ始めている。
中央棟に入ると、Aクラスの生徒たちはもう集まり始めていた。
エアリスへ向く視線には、まだ好奇心があった。誰もむやみに騒がない。何かを尋ねたそうな者も、まず相手と場を見ている。
「おはよう、エアリス」
セリナが手を上げた。
「おはようございます、セリナさん」
「今日は魔力制御の基礎だって。昨日みたいに派手な測定じゃないけど、こっちの方が大事かもね」
「魔力制御の基礎」
「マナをどう出すか、止めるか、細くするか。魔法って、強く出せばいいものじゃないから」
「はい。見て覚えます」
「見るだけで終わるかなあ」
セリナは笑った。
担当教師が入ってきた。昨日の魔法理論とは別の教師だった。細身の女性で、髪を後ろでまとめている。手には薄い板状の魔導具を持っていた。
「全員、総合実技場の第三制御演習室へ移動してください。今日は魔力制御の基礎を扱います」
生徒たちが立ち上がる。
総合実技場は、校舎の奥にあった。外から見た時よりも内部は広い。中央の大きな実技場のほか、横には用途別の小部屋が並んでいる。その一つが、第三制御演習室だった。
部屋の壁には防護術式が刻まれていた。床には小さな魔導陣がいくつもあり、各席には透明な結晶片と、銀色の制御板が置かれている。
教師は教壇に立ち、全員を見回した。
「昨日、ヴァレンさんの属性測定が行われました。結果については、学院側で正式に確認しています。ただし、今日の授業内容は変更しません」
生徒の何人かが、制御板から顔を上げた。
「才能は出発点です。制御は訓練です。資質があっても、歩き方を知らなければ転びます。今日はそれを確認します」
誰も笑わなかった。
教師は制御板を掲げた。
「この板は、術式を組む前のマナの流れを可視化します。結晶片に触れ、制御板へマナを通してください。目標は三つ。出す、細くする、止める。属性は問いません。まずは自分の扱いやすい流れで構いません」
生徒たちは慣れた動きで席についた。
エアリスも席に座り、結晶片へ指を置いた。ひんやりしている。
「最初は見ていてもいいよ」
隣のセリナが言った。
「ありがとうございます」
「じゃあ、先にやるね」
セリナが結晶片に指を添える。
制御板の上に、赤い線が一本浮かんだ。線は細く、まっすぐ伸びる。途中で輪になり、小さな火の粒を作った。熱は感じない。色だけで炎だと分かる。
「きれいです」
「ありがと。でも、まだ揺れる」
セリナがそう言った直後、赤い輪の端がわずかに乱れた。
教師が近づいてくる。
「グランツベルクさん。出力は十分です。止める時に急ぎすぎています」
「はい」
「火は最後が荒れやすい。消す時ほど丁寧に」
「分かりました」
セリナはもう一度やり直した。今度は赤い輪がゆっくり細くなり、最後に消えた。
教師は頷く。
「よろしい」
エアリスはその一連の流れを見ていた。
出す。形にする。細くする。止める。
単純に見えて、手順は多い。
「ヴァレンさん」
教師が声をかけた。
「はい」
「あなたは昨日、正式な覚醒儀式を受けていない状態だと答えましたね」
「はい」
「今日は術式ではなく、制御板を通して流れを見るだけです。無理に属性を選ぼうとしないでください。まず、結晶片に触れたまま、呼吸に合わせてマナを流します」
「分かりました」
エアリスは結晶片に触れ直した。
呼吸に合わせる。
そう言われたので、その通りにした。
制御板の上に、白い点が浮かんだ。
点はすぐに線になった。細く、均一で、ほとんど揺れない。部屋の灯りより白い光だった。
近くの生徒が、書きかけていた手を止めた。
教師も制御板を覗き込む。
「そのまま、半分まで弱めてください」
「はい」
白い線が細くなる。
教師が言うより早く、光は半分の太さになった。
「さらに半分」
光はまた細くなる。
「止めて」
白い線は消えた。
結晶片には何も残らない。
教師はすぐに言葉を継がなかった。制御板を確かめ、エアリスの指先を見て、それから短く息をついた。
「もう一度。今度は、止める前に少し残してください」
「残す、ですか?」
「ええ。完全に切るのではなく、いつでも戻せる程度に保つ。実戦でも研究でも、この余裕が要ります」
「やってみます」
エアリスは再び白い線を出した。
細くする。
止めない。
残す。
光は薄くなりすぎた。次の瞬間、制御板の端で小さく弾ける。
ぱち、と乾いた音がした。
大きな失敗ではない。結晶片も壊れていない。
白い線は消えていた。
「止まりました」
エアリスが言う。
「そうですね。今のは失敗です」
「はい」
教師は制御板を指で示した。
「あなたは指示された形へ合わせるのが速い。ですが、必要な幅を残す感覚がまだありません。正確すぎて、遊びがない」
「遊び」
「余白と言ってもいいです。魔法は、測定器の上だけで使うものではありません。相手も、地面も、風も動きます。きっちり整えすぎると、外からの変化に弱くなる」
「覚えます」
「覚えるだけでは足りません。何度もやって、手に入れてください」
「はい」
教師の声は厳しくない。甘くもなかった。
何人かの生徒は、今の説明を聞いてすぐ自分の制御板へ目を戻した。手元の光を細くして、止める前の加減を探り直している。
セリナも赤い線を出し直していた。
「今の、すごかったけど、ちょっと怖いね」
「怖いですか?」
「うん。刃物みたい。よく切れるけど、持ち方を間違えたら危ない感じ」
「なるほど」
「納得するんだ」
「分かりやすい例えでした」
セリナは苦笑した。
カバンの中で、魔導書が開きかけた。
エアリスは膝の横でカバンの留め具を押さえる。
「待ってください」
「まだ何もしてないよ」
アキの声が小さく聞こえた。
「開きました」
「感想を言おうとしただけ」
「授業中です」
「はい」
魔導書は閉じた。
教師はそのやり取りを聞いていたらしい。エアリスの席まで来ると、カバンを見た。
「契約精霊の助言は、今日の課題では禁止です」
「申し訳ありません」
「契約精霊にも伝えておいてください。魔力制御の基礎は、本人の感覚を作る時間です」
「伝えます」
「聞こえてます」
カバンの中から返事があった。
教師は一拍置いた。
「では、聞こえている契約精霊にも同じことを。今日は見学です」
「了解」
部屋の端で、誰かが小さく笑った。
授業は続いた。
エアリスは何度も制御板へマナを流した。出すことはできる。細くすることもできる。止めることも早い。
残すことだけは難しかった。
完全に消えるか、強すぎるか。その間を保とうとすると、白い線は途中で乱れる。
セリナは時々隣から見ていたが、余計な口出しはしなかった。自分の課題もある。赤い線は何度か安定し、何度か崩れた。
教師は一人ずつ見て回る。
「線を太くする前に、中心を決めなさい」
「消す時に息を止めない」
「血属性は反応が遅れて見えることがあります。焦らない」
「風は軽く出せますが、散りやすい。板の端まで見て」
指摘は短い。生徒たちはすぐに直す。
最後の課題は、二人一組だった。
一人が細い線を出し、もう一人がそれに触れず、横へ並べる。ぶつけず、乱さず、同じ長さで止める。
「連携の初歩です。相手のマナを押しのけないこと。自分の出力だけを見ないこと」
教師が言う。
エアリスはセリナと組んだ。
セリナが赤い線を出す。エアリスはその横に白い線を置いた。
近づける。
並べる。
止める。
赤い線がわずかに揺れた。
「ごめん、私の方が動いた」
「いえ。私も近づけすぎました」
「もう一回」
「はい」
二度目は、赤と白の線が同じ長さで止まった。
教師が頷く。
「よろしい。ヴァレンさん、今の距離を覚えてください。近ければよいわけではありません」
「はい」
「グランツベルクさんは、相手に合わせる時に出力を落としすぎないこと。遠慮と制御は別です」
「はい」
授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
制御板から光が消え、生徒たちは片づけを始める。
エアリスが結晶片を戻していると、教師が封筒を一つ持ってきた。
「ヴァレンさん。放課後、第三小演習室へ来てください」
「第三小演習室、ですか?」
「学院長が魔力制御の基礎を確認します。特別扱いではありません。昨日の測定結果と、今日の制御を見る限り、今後の指導方針を決める必要があります」
「分かりました」
エアリスは封筒を受け取った。
セリナが隣から顔を寄せる。
「学院長が直々に?」
「そうみたいです」
「すごいね。いや、すごいんだけど、大変そう」
「大変ですか?」
「学院長、優しいけど、基礎は絶対に飛ばさない人だから」
エアリスは封筒をカバンに入れた。
中からアキの声がした。
「僕は放課後も見学?」
「はい」
「待つ練習が増えるね」
「必要です」
魔導書が、カバンの中で一度だけ表紙を鳴らした。




