第十五話:第三小演習室
授業が終わった後、第三制御演習室では制御板の光が順に消えていった。
生徒たちは制御板を返し、結晶片を元の箱へ収めていく。机の上に残ったのは、白い板と記録用の紙だけだった。
エアリスも結晶片を戻し、カバンを持つ。
「第三小演習室だよね?」
セリナが隣で言った。
「はい」
「学院長が直々に見るなら、たぶん長くはならないと思う。長くはならないけど、雑には終わらない」
「セリナさんは、受けたことがあるんですか?」
「一度だけ。入学したばかりの頃にね。火力はあるのに、止め方が下手だって言われた」
「今も、先ほど言われていました」
「そこは忘れてくれていいかな」
「覚えました」
「正直」
セリナは笑った。困ったような顔をしているのに、どこか楽しそうだった。
周囲の生徒たちは、エアリスを見てはいたが、近づきすぎなかった。昨日の測定と、今日の授業。それだけでも聞きたいことはあるはずだ。それでも、誰も囲もうとはしない。
何人かは目礼だけをして通り過ぎた。
その中で、一人の男子学生が足を止めた。黒に近い赤茶の髪を後ろで結び、制服の襟元をきちんと整えている。表情は静かで、視線がぶれない。
「ヴァレン嬢」
「はい」
「今日の制御、見事でした」
「ありがとうございます」
「ただ、止める方が得意に見えました。残す方は、まだ不慣れですか」
問いは唐突だったが、失礼ではなかった。
エアリスは答える。
「はい。残そうとすると、止まってしまいます」
「なるほど」
男子学生は短く頷いた。
「失礼しました。学院長の確認前に、長く引き留めるつもりはありません」
「いえ」
「ディートリヒ・レイス・ハルデンベルクです。同じAクラスとして、以後よろしくお願いします」
「エアリス・アウレリア・ヴァレンです。よろしくお願いします」
エアリスが一礼すると、ディートリヒも同じ深さで礼を返した。
彼はそれ以上踏み込まず、廊下の方へ向かった。
セリナが小さく息をつく。
「ディートリヒ、硬いでしょ」
「丁寧な方でした」
「うん。丁寧。ものすごく丁寧。だからたまに硬い」
「セリナさんは、柔らかいです」
「それ、褒めてる?」
「はい」
「なら受け取っておく」
セリナは肩にかけたカバンを直した。
「終わったら食堂に来る? 今日の復習もしたいし」
「行けたら、行きます」
「じゃあ、席だけ取っておく。学院長に捕まったら長くなるかもしれないけど」
「捕まるんですか?」
「言い方の問題」
セリナは片手を振り、先に廊下へ出ていった。
エアリスは封筒に書かれた案内を確かめる。
第三小演習室。
総合実技場の奥、制御演習室群とは別の通路にある部屋だった。
廊下は授業直後で人が多い。制服の色、ローブの飾り、杖や記録板で、学年や専攻の違いが見える。
カバンの中で、魔導書が動く。
「ねえ、僕も会話に参加していい?」
「駄目です」
「まだ何も言ってない」
「第三小演習室でも見学です」
「僕、そろそろ見学の専門家になれそう」
「よかったですね」
「よくないよ」
声は周囲に聞こえない程度だった。
第三小演習室の扉は、白い石壁の奥まった場所にあった。扉の上には小さな結晶灯が灯り、使用中を示している。
エアリスが軽く扉を叩くと、中から声がした。
「どうぞ」
扉を開ける。
部屋は広くなかった。
中央に一つの演習台。壁際に制御板が三枚。奥には記録用の結晶板があり、窓はない。防護術式は床と壁に細く刻まれている。大きな実技場とは違い、一人か二人を個別に見る部屋らしい。
マグヌス学院長は、演習台の横に立っていた。
古い木の杖を片手に持っている。派手な装飾はない。教壇の指し棒にも見えるほど、飾り気のない杖だった。
「来ましたね、ヴァレン嬢」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ。まず言っておきますが、これは試験ではありません」
マグヌスは演習台の上に置かれた制御板を示した。
「あなたを急がせるための場でもない。今日の授業で見えた癖を、私が確認するだけです」
「癖、ですか」
「ええ。才能ではなく、癖です」
九属性、上限級反応、珍しい才能。そうした言葉は出てこない。今この場では必要ないのだろう。
「カバンはそこへ」
「はい」
エアリスは壁際の机にカバンを置いた。
中から、アキが小さく声を出す。
「僕は?」
「そこに」
「扱いが荷物」
マグヌスはカバンに視線を向けた。
「契約精霊殿。今日の確認では、助言も補助も不要です」
「契約精霊殿って呼ばれると、急にちゃんとしなきゃいけない気がするね」
「ちゃんとしてください」
エアリスが言う。
「はい」
魔導書は静かになった。
マグヌスは演習台の制御板を軽く叩いた。板の中央に、薄い円が浮かび上がる。
「今日、あなたはマナを出す、細くする、止める、という三つをほとんど迷わず行いました」
「はい」
「その精度は高い。ですが、完全に止める前で保つ課題では、線が乱れました」
「止めないようにすると、かえって止まります」
「いい観察です」
マグヌスは頷いた。
「では、もう一度やってみましょう。円の内側に白い線を出してください。円に触れず、中心を通す」
「分かりました」
エアリスは結晶片に指を置いた。
白い線が生まれる。
それはまっすぐ円の中心を通った。円には触れない。太さも均一だった。
「細く」
線が細くなる。
「止めずに、残す」
白い線が薄くなる。
そして、消えた。
制御板には円だけが残る。
「失敗しました」
「はい」
マグヌスは淡々と答えた。
「もう一度。今度は消えそうになった時、戻そうとしないでください」
「戻さない?」
「ええ。あなたは消えそうだと思うと、すぐに形を整え直そうとする。整え直す力が強すぎて、逆に切れている」
「では、どうすればいいですか?」
「揺れたまま置く」
エアリスはその言葉を聞き、制御板を見た。
「揺れたまま」
「不安定なものを、不安定なまま扱う練習です」
「……落ち着きません」
「でしょうね」
マグヌスは口元を緩めた。
「ですが、魔法はあなた一人で完結するものではありません。相手がいる。地形がある。風が吹く。魔物は思った通りに動かない。完全に整った形だけを扱うと、変化に遅れます」
「はい」
「もう一度」
エアリスは白い線を出した。
細くする。
薄くする。
消えそうになる。
今度は戻さない。
白い線はわずかに波打った。今にも消えそうで、消えない。制御板の上で、細い糸のように揺れている。
エアリスの指先が熱くなった。
魔力が暴れているわけではない。むしろ、小さすぎる火を消さないように息を止めている感覚に近かった。
「そのまま」
マグヌスが言った。
白い線はまだ残っている。
「よろしい。そこまで」
エアリスはマナを止めた。
今度は、線が静かに消えた。
「今のが、余白です」
「余白」
「完全に止めるのでも、強く出すのでもない。次の動きのために残す場所です」
マグヌスは制御板の記録を結晶板へ移した。
「覚えようとしすぎる必要はありません。今日は、そういう感覚があると知れば十分です」
「はい」
「才能があれば、選べる道は増えます。ですが、どの道をどう歩くかは、結局、足元の癖で決まる」
エアリスは制御板の消えた光を見た。
「足元の癖」
「ええ。強い者ほど、基礎の小さな癖があとで大きく響きます」
エアリスは短く頷いた。
マグヌスは演習台の横から、小さな透明の輪を取り出した。指輪ほどの大きさで、宙に置くと手のひらほどに広がった。
「次はこれです。輪の内側へマナを置き、輪を押さず、外へも漏らさない」
「はい」
「目的は、力を入れないことです」
「力を入れない」
「正確に言えば、入れすぎない」
エアリスは結晶片に触れたまま、輪の内側へ白い光を置いた。
光はすぐに輪の中を満たした。
透明な輪が白く光る。
「満たしすぎです」
「すみません」
「謝ることではありません。今のあなたは、空いた場所を見ると、埋める方へ動きやすい」
「空いていると、埋めたくなります」
「自然な反応です。ですが、連携では相手の力が入る余地を残す必要があります」
マグヌスは輪の隣に、もう一つ小さな赤い光を浮かべた。
「例えば、グランツベルクさんの炎がここへ入る。あなたのマナがすべて満たしていれば、彼女の炎は押し返される」
白い光と赤い光が触れた瞬間、赤い光が外へ弾かれた。
「逆に、あなたが弱すぎれば」
白い光が薄くなる。
今度は赤い光が内側へ入りすぎ、輪の中が赤に染まった。
「相手に全部を預けることになる」
「ちょうどよい余地が必要なんですね」
「そうです」
エアリスはもう一度、白い光を輪の内側へ置いた。
満たしすぎない。
消しすぎない。
赤い光が入る場所を残す。
輪の中で、白と赤が並んだ。触れない。混ざらない。互いを押さない。
マグヌスは頷いた。
「今の感覚を忘れないでください」
「はい」
「あなたは一人で整えるのがうまい。これからは、他者が入る場所を残す練習をした方がいい」
カバンの中で、アキが小さく咳払いをした。
「僕も入る場所を――」
「アキさん」
「はい、見学です」
返事が早かった。
マグヌスは軽く笑った。
「契約精霊との距離も、同じです。頼れる力が近くにあるのは幸運ですが、近すぎる力は、本人の感覚が育つ前に答えを出してしまう」
「昨日の魔物みたいに、ですか」
「ええ」
エアリスはカバンを見た。
「待つ練習が必要です」
「またそれ」
アキの声は不満そうだった。
「ですが、先生の言う通りです」
「エアリス君、最近ちゃんと先生側につくよね」
「今は授業ですから」
「正論がまぶしい」
マグヌスはそのやり取りを止めず、契約者と契約精霊の距離を確かめていた。
「ヴァレン嬢」
「はい」
「今日の確認はここまでにしましょう」
「もう、よろしいのですか?」
「十分です。長く続ければ身につくものではありません。疲れた状態で繰り返すと、悪い癖がつく」
マグヌスは記録結晶を小さな封筒に収めた。
「今日の結果は、担当教師と共有します。あなたは通常授業を続けてください。特別な訓練を急ぐ必要はありません」
「はい」
「それから、明後日の午後、Aクラス向けに魔界裂隙の報告会を開きます」
エアリスは顔を上げた。
「魔界裂隙の、報告会」
「上級生と教廷の監督官が来ます。実戦ではありません。危険を知るための授業です」
「見学の前に、知るんですね」
「知らずに近づくより、知ってから距離を取る方がいい」
マグヌスの声は変わらない。
「力は人を前へ進ませます。ですが、戻る道を覚えていない者は、遠くへ行きすぎる」
エアリスは、その言葉を一度だけ頭の中で繰り返した。
「覚えておきます」
「ええ。今日はよくできました」
マグヌスはそう言って、演習台の光を消した。
第三小演習室の結晶灯だけが残る。
エアリスはカバンを持ち、扉の前で一礼した。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。気をつけて戻りなさい」
廊下に出ると、授業後の騒がしさは引いていた。
食堂へ向かう学生、寮へ戻る学生、研究棟へ急ぐ上級生。遠くで、誰かが実技場の予約時間を確認している声がする。
エアリスが歩き出すと、壁際にいたセリナが手を上げた。
「終わった?」
「はい。待っていたんですか?」
「食堂に行くつもりだったけど、どうせなら一緒にと思って」
「ありがとうございます」
「で、何をしたの?」
「余白を残す練習をしました」
「余白」
セリナは一度考えた。
「学院長らしいね」
「そうですか?」
「うん。強くしろ、じゃなくて、残せって言うところが」
セリナは歩きながら、ふと声を落とした。
「明後日、裂隙報告会だって聞いた?」
「はい。先ほど」
「危険度の低い裂隙を見学する前にやるやつだと思う。怖がらせるためじゃないけど、たぶん軽い話でもない」
「セリナさんは、見たことがありますか?」
「遠くからなら。家の関係で、報告だけは何度か」
そこでセリナは言葉を止めた。
すぐに笑顔へ戻る。
「まあ、詳しくは報告会で聞けばいいよ。私が変に言うより、その方が正確」
「分かりました」
エアリスはそれ以上聞かなかった。
廊下の先で、ディートリヒが掲示板の前に立っていた。報告会の通知が、もう貼られている。
彼はエアリスたちに気づくと、一度だけ会釈した。
掲示板には、教廷印の入った紙がある。
魔界裂隙報告会。
参加対象、Aクラス全員。
場所、第二講義室。
持参物、筆記具、通行札、基礎結界札。
エアリスはその文字を目で追った。
カバンの中で、アキが珍しく黙っている。
セリナも、掲示を見ていた。
「行こう。席、取らないと」
「はい」
エアリスは掲示板から目を離した。
白い廊下の向こうで、食堂へ続く人の流れができている。さっきまで手元の制御板にあった白い線は、もうどこにもない。
それでも、消える前に残した細い光の感覚だけは、指先に残っていた。




