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神と悪魔と契約したら、世界が壊れかけました  作者: 0くるみ0


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第八話:白き都市とエアリスの名

 翌朝、宿の裏手には、まだ薄い影が残っていた。


 表の通りでは、荷車がもう動き始めている。宿の主人は何も聞かなかった。帳場に置かれた銀貨を見て、ただ「お気をつけて」とだけ言った。


 ユイは小さく頭を下げた。


 旅人として見送られる。


 それは、城を出る時とは違う別れだった。


 ルセリアは周囲を確かめると、片手を上げた。


「準備はいい?」


「はい」


 ユイは頷いた。


 アキはすでに魔導書へ戻っている。黒曜石の小さな棺も、ユイの胸元で冷たく沈んでいた。


 ルセリアの足元に、淡い光が広がる。


 細い文字が輪を描き、土の上に魔法陣が浮かび上がった。地下で見た、拘束に浮かぶ青白い文字とは違う。こちらの光は澄んでいて、風にほどける糸に似ていた。


「テレポートは、目を閉じた方がいいですか?」


「どちらでもいいわ。怖ければ閉じて」


「閉じなくても大丈夫です」


「そう」


 ルセリアは小さく笑った。


「では、行くわ」


 光が足元から立ち上がる。


 次の瞬間、景色が切り替わった。


 衝撃はない。


 風が止み、土の匂いが消え、代わりに乾いた石と香の匂いがした。


 ユイは目を開けたままだった。


 そこは、広い部屋だった。


 白い石の床。高い天井。壁際には書棚と棚飾りが並び、細い金の縁取りが朝の光を受けている。窓は大きく、カーテンは薄い。家具は多くないが、どれもよく手入れされていた。


 ユイの視線はすぐに窓へ向かった。


 光が強い。


 窓の向こうに、白い都市が広がっていた。


 白亜の建物が、幾重にも重なっている。尖塔、鐘楼、回廊、広場、神殿。遠くには外壁が見え、そのさらに先まで、白い屋根が続いていた。


 高い。


 そして、広い。


 城の塔から見下ろす領地とは、まるで違った。


 人の流れがある。通りを行き交う小さな影が、朝の光の中で動いている。どこかで鐘が鳴った。低く、長い音だった。


「ここが、セラフィア」


 ルセリアが言った。


「神聖法王領ルミナリアの首都よ。今いるのは、白き巨塔ゼニスクライムの上層にある私の住まい」


「……白いですね」


「最初は、だいたい皆そう言うわ」


 ユイは窓に近づいた。


 白い街。


 本で読んだ言葉が、目の前にある。


 本の中の都市は、頁を閉じれば消える。これは消えない。窓の外で、人が歩き、鐘が鳴り、朝の街が動いている。


「降りたいです」


「あとでね」


 ルセリアの返事は早かった。


「先に、あなたの身分を用意する」


 ユイは振り返った。


 そうだった。


 ユイ・オデット・ローゼンベルクという名は、もう表では使えない。


 ルセリアは部屋の奥へ向かった。扉の先には、書斎のような部屋があった。机、封蝋、記録用の結晶板、認可印。棚には書類が整然と並んでいる。


 ルセリアは机の前に立つと、まず結晶板へ手を置いた。


 淡い光が浮かぶ。


「帰還報告を先に送るわ」


「今ですか?」


「ええ。大主教が戻ったこと、邪教の襲撃を受けたこと、神授物に関する緊急調査が必要なこと。詳しい報告は後で直接するけれど、知らせだけは先に入れておく」


 ルセリアの指が光の上を滑る。


 短い文字列が結晶板に浮かび、すぐに消えた。


「これでいい。次はあなた」


 ルセリアは引き出しから数枚の紙を取り出した。


「新しい名前を決めてある」


 紙の一番上に、名前が書かれていた。


 エアリス・アウレリア・ヴァレン。


 ユイは、その文字を見た。


「エアリス」


 声に出すと、まだ自分の名前ではないように聞こえた。


「光を思わせる響きの名よ。アウレリアは中名、ヴァレンを家名にする。教廷保護下の遠縁という扱いにすれば、学術院に入るにも不自然ではないわ」


「私の、名前になるんですね」


「嫌なら、変えるわ」


 ユイは首を横に振った。


「嫌ではありません。ただ、まだ少し遠く感じます」


「それでいいわ。名前は、呼ばれているうちに近くなるものだから」


 ルセリアは椅子を示した。


「座って。いくつか確認するわ」


 ユイは椅子に座った。


 ルセリアは書類を一枚ずつ整えていく。出生地の扱い。後見人。教廷の保護認可。管理科に回す控え。学術院への推薦状。どれもユイが初めて見る形式だった。


 紙が重なっていく。


 人が一人、別の名前で生きるには、こんなに多くの印が必要なのだと知った。


「年齢は十六歳で変えない。六月編入。寮ではなく、当面はゼニスクライムから通う」


「ゼニスクライムから?」


「安全のためよ。あなたをすぐ寮へ入れるには、事情が多すぎる」


「分かりました」


 ルセリアは手を止めた。


「無理に分かったふりをしなくていいわ」


「無理ではありません。必要なことだと思いました」


「そう」


 ルセリアは短く頷いた。


 ルセリアは封蝋を押した。


 赤ではなく、白に近い金色の封蝋だった。印には、光を抱く塔の紋が刻まれている。


「今日から、あなたはエアリス・アウレリア・ヴァレン」


 ルセリアが言った。


「はい」


 ユイは答え、言い直した。


「……エアリスです」


 ルセリアの目がわずかに柔らかくなった。


「ええ。エアリス」


 その声で呼ばれると、名前は少しだけ近づいた。


 手続きが一段落すると、ルセリアは立ち上がった。


「学術院へ行くわ。学院長には、直接話す」


「今からですか?」


「ええ。こういうことは早い方がいい」


 エアリスは頷き、胸元の棺に手を触れた。


 冷たい。


 静かなままだった。


 魔導書をカバンに入れる前、アキが顔を出した。


「僕、出ない方がいい?」


「出ないでください」


「即答だね」


「今日は手続きです」


「はいはい。便利な本として大人しくしてるよ」


「危ない本として、です」


「そこ訂正するんだ」


 ルセリアが横から言った。


「出たら置いていくわよ」


「大主教こわい」


 魔導書はぱたりと閉じた。エアリスはそれをカバンにしまった。


 ゼニスクライムの内部は、外から見上げた印象よりも静かだった。


 高い吹き抜け。白い階段。壁に刻まれた古い紋様。色ガラスから落ちる光が、床に淡い青や金を落としている。


 エアリスは天井を見上げた。


「この塔は、どうしてここまで高いんですか?」


「ゼニスクライムのこと?」


「はい。ただ人が住むための塔には見えません」


「その通りよ。伝承では、初代教皇が神の命を受け、神授物を用いて築いたとされているの」


 ルセリアは壁の古い紋様へ目を向けた。


「神と人をつなぐ塔。祈りを天へ届け、神意を地上へ降ろすための象徴ね」


「本当に、神と人をつなぐんですか?」


「少なくとも、そう語られてきたわ」


 神官や使いの者が行き交うが、誰も大きな声を出さない。ルセリアを見ると、すぐに道を開ける。驚いた顔をした者もいたが、声にはしなかった。


 ルセリアはそれに短く頷くだけで進む。


「皆さん、驚いています」


「私が戻ったことは、まだ知れ渡っていないでしょうからね」


「心配されていたんですね」


「たぶんね」


「たぶん、ですか?」


「大主教は便利に使われる役職だから、心配と仕事が一緒に来るのよ」


 エアリスは少し考えた。


「それは、大変ですね」


「ええ。とても」


 ルセリアは淡々と言った。


 塔を出ると、聖都の音が近くなった。


 石畳を踏む靴音。噴水の水。遠くの鐘。香油の匂い。白い街は、高い場所から見た時よりずっと人に近かった。


 エアリスは歩きながら、目に入るものを追った。


 白い柱廊の下で話す神官。


 小さな店の前に並ぶ瓶。


 巡礼者らしき人たち。


 水路に浮かぶ光。


 どれも、城にはなかった。


「前を見て歩きなさい」


「はい」


「見たいものが多いのは分かるけれど」


「多いです」


「素直ね」


 ルセリアは笑った。


 セラフィア中央神導学術院は、ゼニスクライムからも見えていた。


 近づくと、さらに大きい。


 白い校舎群が広がり、その奥に高い塔が立っている。神殿ほど重くはない。もちろん、遊びの場でもない。石と光の中に、若い声が混じっていた。


 正門をくぐると、学生たちが行き交っている。


 ローブを羽織った者。制服の上に短い外套を合わせた者。書物を抱えた者。杖を持つ者。年齢はエアリスと近い者もいれば、少し上に見える者もいる。


 何人かがこちらを見た。


 ルセリアに気づき、姿勢を正す。


 その隣にいるエアリスにも、視線が向く。


 好奇心。


 警戒。


 それから、相手を見定めるような目。


 エアリスはそれを受け止め、ルセリアの隣を歩いた。


 中央棟の上階へ案内されるまで、時間はかからなかった。


 扉の前には秘書官が立っていた。ルセリアの名を聞くと、すぐに中へ通された。


 校長室は広かった。


 古い木の机。壁一面の書架。窓から入る昼前の光。部屋には紙と革の匂いがあったが、城の書斎のように重くはない。


 机の向こうに、年配の男が立っていた。


 白髪はきちんと整えられ、表情は穏やかだった。目は静かで、こちらを見る時も急がない。


「大主教閣下。ご無事で何よりです」


「形式は後にして、マグヌス学院長」


 ルセリアは短く言った。


「話が早いですね」


「急ぎの件が多いの」


「でしょうね」


 マグヌスは一度だけ頷いた。


 マグヌスはそれ以上、ルセリアへ踏み込まなかった。


 彼の視線が、エアリスへ向く。


「そちらが?」


「エアリス・アウレリア・ヴァレン。私の保護下に置く子よ。学術院への編入を推薦するわ」


 エアリスは一礼した。


「エアリス・アウレリア・ヴァレンです」


「ようこそ、エアリス嬢」


 マグヌスはエアリスを急かさず、次の言葉を続けた。


「この学術院では、知らないことを恥じる必要はありません。ただし、知ろうとしないのは、もったいないことです」


 エアリスは顔を上げた。


「学べば、知ることができますか?」


「すべては無理でしょう」


 マグヌスはすぐに答えた。


「ですが、学ばなければ、最初の扉さえ見えません」


「扉」


「ええ。知識は、扉の場所を教えてくれます。開くかどうかは、その人次第です」


 エアリスは、その言葉を覚えた。


 鍵ではなく、扉の場所。


「ありがとうございます」


「まだ礼を言うには早いですよ。ここで学ぶのは、楽しいことばかりではありませんから」


 声は優しい。


 脅す響きはなかった。


 けれど、軽くもなかった。


 ルセリアが書類を机に置く。


「必要なものは揃えてきたわ」


「拝見します」


 マグヌスは書類に目を通した。


 手つきは遅くない。けれど、一枚ずつ確かめる。名前、年齢、後見、推薦、通学先。必要な印がそろっているかを見て、最後に自分の署名を入れた。


「寮ではなく、ゼニスクライムから通学」


「ええ。当面は」


「妥当でしょう。事情が事情です」


 マグヌスはエアリスを見た。


「基礎教養、魔導理論、礼法、神学、地誌。まずはそのあたりからですね。実技適性は、後日測定します」


「魔法の実技も、受けるんですか?」


「もちろん。ここは学術院です。知識だけでなく、扱い方も学びます」


「危険ではありませんか?」


「危険です」


 マグヌスはすぐには否定しなかった。


「だから、教師がいる。危険から遠ざけるだけでは、危険を知ることはできません。ただし、危険に放り込むための場所でもない。そこを間違えないことが、教育です」


 彼は書類を揃え、軽く指で押さえた。


「ですから、測るだけで終わらせません。結果を見て、必要な授業を組む。それが教師の仕事です」


 ルセリアは黙って聞いていた。


 その横顔に、反論はない。


「分かりました」


 エアリスは答えた。


「分かったつもりでも構いませんよ」


 マグヌスが言った。


「最初から本当に分かる必要はありません。学ぶ場所とは、そのためにあるのですから」


 署名が終わった。


 マグヌスが認可印を押した。


 書類の上で、小さな光が一度だけ走った。


「これで、エアリス・アウレリア・ヴァレン嬢は、セラフィア中央神導学術院の生徒です」


 マグヌスはそう告げた。


 生徒。


 子爵家の娘。


 政略結婚の道具。


 死んだことになった名前。


 それらとは別の言葉だった。


「私は、明日からここへ来ればいいですか?」


「ええ。今日は手続きだけで十分でしょう。大主教閣下も休まれるべきです」


「休む暇があると思う?」


「ないでしょうね。ですが、休まない理由にはなりません」


 ルセリアが目を細めた。


「相変わらずね」


「こちらの台詞です」


 二人の間に、短い間があった。


 二人には、エアリスの知らない時間がある。


 エアリスは尋ねなかった。


 マグヌスは机の端から小さな札を取った。


「仮の通行札です。正式な学生証は明日までに用意させます」


 エアリスは両手で受け取った。


 白い札に、金の文字で名が刻まれている。


 エアリス・アウレリア・ヴァレン。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 マグヌスは微笑んだ。


「学術院へようこそ、エアリス嬢。ここで、あなたが多くのものを見てくれることを願っています」


「はい」


 エアリスは札を見た。


 自分の名が、そこにある。


 まだ遠い。


 今はもう、紙の上だけではない。


 校長室を出ると、廊下の窓から中庭が見えた。


 学生たちが歩いている。誰かが笑い、誰かが本を抱え、誰かが杖を振って友人に注意されていた。


「どう?」


 ルセリアが尋ねる。


「広いです」


「またそれ?」


「はい。広いです」


 エアリスは通行札を胸元に寄せた。


「でも、私が入ってもいい場所になりました」


 ルセリアは少しだけ目を細めた。


「ええ。明日からね」


 窓の外で、学術院の鐘が鳴った。


 聖都の鐘より軽く、宿の鐘より澄んだ音だった。


 エアリスはその音を聞きながら、通行札をカバンにしまわず、もう一度だけ自分の名を見た。

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