第七話:世界の入口
朝になっても、城の外だった。
ユイは目を開けて、まず天井を見た。
木の天井だった。白い石ではない。彫刻もない。染みがあり、節があり、梁の端に小さな傷がある。
宿の部屋。
昨日の夜、自分が眠った場所。
それを思い出してから、ユイは身を起こした。
窓の外は明るい。粗いカーテンの隙間から、白ではなく黄色みを帯びた朝の光が入っている。城の朝とは違う光だった。
隣のベッドでは、ルセリアが座ったまま目を閉じていた。
眠っているようにも、祈っているようにも見える。
「起きた?」
ルセリアが目を開けた。
「はい。おはようございます」
「おはよう。眠れた?」
「はい」
深く眠ったのかどうかは、よく分からない。目を開けると、昨日より身体が軽かった。
ユイは胸元に手を当てる。
黒曜石の小さな棺は、そこにあった。
冷たい。
昨夜ほど重くは感じなかった。
「ノクティラさんは?」
「起きている」
低い声が返ってきた。
「おはようございます」
「神に朝の挨拶をするとは、妙な娘だ」
「しない方がいいですか?」
「……好きにせよ」
拒まれてはいないらしい。
机の上の魔導書が、ぱたんと開いた。
アキがいつもの調子で顔を出す。
「おはよう。城の外、二日目だね」
「まだ一日目では?」
「昨日の夜から数えると二日目」
「そう数えるんですか」
「僕の中では」
アキは椅子の背に腰をかけるように現れた。
ルセリアが彼を見る。
「あなた、朝から元気ね」
「本に戻ると休んだ気分になるからね」
「便利な身体」
「否定はしない」
ルセリアは小さく息をついた。
昨夜より顔色は戻っている。まだ本調子ではないが、動きはゆっくりだった。
「ルセリアさんは、大丈夫ですか?」
「昨日よりはね」
「歩けますか?」
「歩けるわ」
アキが横から言う。
「またそれ」
「本当に歩けるわよ」
「じゃあ、昨日よりは信用する」
ルセリアは返事のかわりに、机の上の水差しを取った。
宿の主人が、朝食を持ってきた。
硬いパンと、豆の煮込み。薄い野菜のスープ。皿は古いが、清潔だった。
主人はルセリアの顔色を見て、何か言いかけた。机の上に置かれた銀貨を見ると、何も聞かずに頭を下げて出ていった。
「お金は、またアキさんですか?」
「うん」
「どこから出しているんですか?」
「本の中」
「本の中には、お金もあるんですか?」
「いろいろあるよ」
ユイは魔導書を見た。
「いろいろ、ですか」
「いろいろ」
「それは、あとで聞いてもいいですか?」
「答えるかは別だけどね」
「分かりました」
ユイはパンをちぎった。
硬い。スープにつけると、いくらか柔らかくなる。
城の食事とは違う。
それでも、悪くなかった。
窓の外では、車輪の音が通り過ぎる。誰かが水を汲む音もする。子どもの声が一度だけ聞こえ、すぐ遠ざかった。
人が暮らしている。
昨日聞いた言葉が戻ってくる。
食事が終わる頃、ルセリアは杯を置いた。
「私は聖都へ戻らなければならないわ」
声は静かで、すでに大主教の声だった。
「今回の件は、私一人で済ませていい話ではない。大主教が捕らえられ、神授物が狙われ、邪教が尋常ではない規模の戦力と情報を持って動いた。しかも、あの封印には得体の知れない力まで関わっていた」
ルセリアの銀の瞳が、朝の光を受ける。
「神々が直接干渉しないこの大陸で、邪教と魔物は昔から変わらない脅威よ。でも、今回は違う。あれだけの力を集め、私の移送経路まで読んでいた。背後で何かが動いている」
「だから、聖都へ?」
「ええ。教廷へ報告し、神聖議会にも上げる。記録を照合し、必要なら調査を始める。私は戻らなければならない」
ユイは頷いた。
そこまでは分かる。
では、自分はどうするのか。
机の上の魔導書が開く。
「じゃあ、ちょうどいいんじゃない?」
アキが顔を出した。
「聖都を、ユイ君が外の世界に触れる最初の場所にすればいい」
「聖都を……」
「大きな街だし、本もある。人も多い。神官も、商人も、学生もいる。城の外を知りたいなら、入口としては悪くない」
ルセリアは目を伏せた。
「……学術院」
ユイは顔を上げる。
「学術院、ですか?」
「セラフィア中央神導学術院。聖都にある教育機関よ。魔法、歴史、神学、地誌、礼法、実技。多くのものを学べる。各地から学生も集まるわ」
「同じ年頃の人も、いますか?」
「もちろん」
「本も?」
「多すぎるくらいに」
ユイは黙った。
知らない街。
知らない人。
知らない本。
「行きたいです」
迷いはなかった。
ルセリアは頷いた。
「では、聖都へ戻ったら、あなたを私の保護下に置く手続きをする。その上で学術院へ推薦するわ」
「保護下」
「ユイ・オデット・ローゼンベルクの名は、もう表では使えない」
ユイは自分の手元を見た。
その名前は、自分のものだった。
昨日までは。
「死んだことになるからですか?」
「そういう扱いになるわ。ローゼンベルク子爵家は邪教の襲撃で滅んだ。あなたが生きていると知られれば、邪教にも、事情を知らない教廷の者にも、帝国側にも狙われる可能性がある」
「帝国側にも」
「あなたは、ガイア帝国の皇室へ嫁ぐ予定だったのでしょう。どこから話が歪むか分からない」
ユイは頷いた。
「分かりました」
「新しい名と、新しい立場が必要になる」
新しい名。
今はまだ、実感のない言葉だった。
アキが机を軽く叩く。
「それじゃ、目的地も決まったところで、最初の授業をしようか」
「授業?」
「世界の入口」
そう言って、アキは指を鳴らした。
机の上に、薄い紙が一枚現れる。
紙の上には、アストラ大陸の主要部をまとめた地図が描かれていた。
ユイは身を乗り出した。
「地図ですか?」
「アストラ大陸の地図。君も城の書庫で見たことはあるはず」
「はい。でも、これは詳しいです」
城の書庫にあった地図より、線が細かい。山脈、川、主な街道、港、大まかな国境。いくつもの文字が並んでいる。
中央には、神聖法王領ルミナリア。
南には、ガイア帝国とプロメテ共和国。
北には、血統契約公国サンギナリア。
東には、広大な海域と大陸側の領域を抱える海洋連合アクアリス。
ユイは一つずつ名前を追った。
「ここが、ルミナリア」
ルセリアが指で示す。
「私たちが向かう聖都セラフィアは、その中心にあるわ」
「ガイア帝国は、ここですね」
「ええ。あなたが行くはずだった国」
ユイは地図の南を見た。
皇室にいる、まだ会ったことのない婚約者。
自分を待っていたはずの場所。
紙の上では近い。けれど、今のユイには遠かった。
「行かなくていいんですか?」
アキが聞いた。
軽い声だったが、からかってはいなかった。
「分かりません」
ユイは答えた。
「でも、今すぐ行く場所ではないと思います」
「いい答え」
「いいんですか?」
「行きたい場所と、行かなきゃいけない場所は違うからね。順番を間違えると面倒になる」
ルセリアが頷いた。
「今のあなたには、まず守られる場所と学ぶ場所が必要よ」
「聖都ですね」
「ええ」
地図の外側に、淡い線が浮かんだ。
ユイは瞬きをする。
大陸の周囲ではない。紙の端に、別の文字が現れていく。
ソムニウム。
アンブラ。
アビスネスト。
「これは、地図の外ですか?」
「現世の外、と言った方が近いね」
アキが答えた。
「ソムニウムは夢と魂に近い領域。アンブラは影と深層に近い領域。そしてアビスネストは、魔界とも呼ばれる」
魔界。
ユイはその言葉を繰り返した。
「魔物がいる場所ですか?」
「そう」
ルセリアが答える。
「魔界裂隙を通って、魔物が現実へ入ってくることがあるわ。大きな裂隙は厳重に管理されているし、小さな裂隙でも油断すれば人が死ぬ」
「魔物は、人と話せますか?」
「多くは無理ね。強い戦闘本能を持つ生物に近い。例外はあるかもしれないけれど、普通は交渉する相手ではないわ」
「倒す相手ですか?」
「まずは、止める相手よ」
ルセリアの返事は早かった。
「人を守るために倒さなければならないこともある。でも、魔物を倒すこと自体が目的ではない。裂隙を閉じ、被害を抑え、人を逃がす。それが先」
ユイは頷いた。
胸元の棺が低く光る。
「魔界を侮るな」
ノクティラの声だった。
「裂隙の向こうは、この世の理だけで測れぬ。近づくなら、境界を知れ」
「境界、ですか」
「こちらとあちらを分けるものだ。線を知らぬ者は、線を越えたことにも気づかぬ」
ノクティラはそれ以上続けなかった。
ルセリアも何も聞かなかった。
「覚えておきます」
「覚えるだけでは足りぬ」
「では、いつか見ます」
棺の光が止まった。
「……勝手に決めるな」
「はい。見られる時に、見ます」
「同じことだ」
アキが小さく笑う。
ノクティラは黙った。
ルセリアは地図の上に手を置いた。
「次は魔法の話ね」
「お願いします」
「魔法は、マナを扱う技術よ。マナはこの世界に満ちていて、世界そのものを形作る基礎でもある」
ルセリアの手のひらに、小さな光が灯った。
白い光。
朝の光とは違う。もっと澄んでいて、手の中に収まる火にも見えた。
「これが光魔法ですか?」
「ええ。私の得意な領域ね」
光は小さく揺れた。
「魔法には、九柱の神が司る領域と関わる属性があるわ」
アキが地図の横に、九つの名を並べた。
光と秩序の神、アウレクス。
水と循環の神、サレッサ。
風と運命の神、アエラリス。
大地と生命の神、ガエロス。
炎と変革の神、ピュラ。
夢と魂の神、ソムニア。
血と契約の神、クリムゾン。
星と世界の神、アストリクス。
闇と境界の神、ノクティラ。
最後の名が浮かんだ時、棺から漂う気配が強張った。
「この名前も、書いていいんですか?」
ユイが尋ねる。
「神の名だ。隠すものではない」
ノクティラが答えた。
「余計な問いは向けるな」
「はい」
ユイはそれ以上聞かなかった。
封印のこと。
契約のこと。
それらは今、触れない方がいい。
「人は一つの属性しか使えないんですか?」
「そうとは限らないわ」
ルセリアが言った。
「複数の属性を学ぶ人もいる。ただし、簡単ではない。知識も、感覚も、マナの扱いも違うから。得意なものを伸ばす人が多いわね」
「本を読む時に、歴史と地誌で読み方が違うようなものですか?」
「近いわ」
ルセリアは嬉しそうに頷いた。
「でも、魔法は失敗すれば危険がある。本よりは慎重に扱いなさい」
「はい」
アキが横から言う。
「ユイ君は本もけっこう危険な速度で読むけどね」
「本は爆発しません」
「たまにするよ」
「するんですか?」
「魔導書はね」
ユイはアキを見た。
「アキさんも?」
「僕は爆発しない。たぶん」
「たぶん、では困ります」
「はい」
ルセリアが笑うと、ユイも息をついた。
「それから、魔法使いには階位があるわ」
ルセリアは話を戻した。
「第一階位から第九階位まで。数字が上がるほど、扱う力も、求められる精神も、世界への影響も大きくなる」
「ルセリアさんは?」
「第八階位」
ユイはルセリアを見た。
「第八」
「人間の中では、かなり高い階位よ」
アキが言う。
「かなり、ですか」
「うん。普通なら国が丁寧に扱うくらい」
「そうなんですか?」
ユイはルセリアを見る。
ルセリアは苦笑した。
「今は、ただの怪我人よ」
「でも、第八階位なんですね」
「ええ」
「すごいです」
ユイが素直に言うと、ルセリアは目を伏せた。
「ありがとう」
「魔法そのものにも、等級があるわ」
「階位とは違うんですか?」
「違う。階位は魔法使いの力の段階。等級は魔法そのものの難しさや威力の分類よ」
ユイは頭の中で分けた。
人は階位。
魔法は等級。
「覚えました」
「早いね」
アキが言う。
「まだ覚えただけです。理解したわけではありません」
「そこを分けられるのは偉い」
「偉いですか?」
「うん。世の中、覚えた瞬間に理解した気になる人が多いから」
ノクティラが低く言った。
「俗な者には多い」
「ノクティラさんも、そういう人を見たことがあるんですか?」
「見飽きた」
「どのくらいですか?」
「数える気にもならぬほどだ」
ユイは考えた。
「長く生きているんですね」
棺が沈黙した。
ルセリアが湯を注ぐ。
アキは窓の外を見た。
踏み込みすぎた。
「失礼しました」
「……よい」
ノクティラの声は低かった。
怒ってはいないらしい。
アキが紙の上の地図を畳むように指を動かした。
地図は小さくなり、机の中央に収まる。
「今日のところは、このくらいでいいんじゃない?」
「まだ聞きたいことがあります」
「知ってる。でも、一日で世界全部は入らないよ」
「本なら、何冊分ですか?」
「すごい聞き方するね」
ルセリアが答えた。
「一生かけても、読み終わらないくらい」
ユイは地図を見た。
一生。
城で聞いた時とは、響きが違った。
「では、少しずつですね」
「ええ。少しずつ」
ルセリアは頷いた。
「まずは聖都。そこで身分を整え、学術院へ入る。あなたが世界を知るなら、知識と人の両方が必要になるわ」
「人も、ですか」
「本は多くを教えてくれる。でも、人の声でしか分からないこともある」
ユイは宿の外の音を聞いた。
車輪。
水。
話し声。
遠くで誰かが笑う声。
「人の暮らし、ですね」
「そう」
ルセリアが言った。
「あなたが知りたがっていたものよ」
ユイは頷いた。
「聖都へ行きます」
「明日の朝、飛ぶわ」
「テレポートですか?」
「ええ。私ができる範囲で、安全に飛ぶ」
アキが首を傾げた。
「僕でもいいよ」
「あなたに任せると、到着場所が信用できない」
「ひどい」
「昨日のあなたを見た後で、信用しろと言う方が無理よ」
「ちゃんと街に着いたじゃない」
「そういう問題ではないわ」
ユイは二人を見ていた。
言い合いに聞こえるのに、昨日ほど刺々しくない。
同じ部屋にいて、同じ地図を見て、同じ行き先を話している。
「私は、何を準備すればいいですか?」
ユイが尋ねる。
「今は休むこと」
ルセリアが即答した。
「またですか?」
「またよ。昨日、あなたは城を出たばかりなの」
「はい」
「今日一日で覚えることは、地図と、九柱の名と、階位と等級の違い。それで十分」
「十分でしょうか」
「十分」
アキが手を上げた。
「補足。僕の扱い方も覚えておくといいよ」
「どう扱えばいいですか?」
「便利な本として大切に」
「危ない本として注意します」
「ひどい」
「ルセリアさんがそう言いました」
「教育が早い」
ルセリアは平然としていた。
「間違っていないもの」
ユイは小さく笑い、机の上の地図へ目を落とした。
白い紙の上で、聖都セラフィアの文字が淡く光っている。
「明日、聖都へ行くんですね」
「ええ」
ルセリアが答える。
「そこから、あなたの新しい生活が始まるわ」
「新しい名前も?」
「そうね。名前も」
ユイは自分の名を、口に出さずに呼んだ。
ユイ・オデット・ローゼンベルク。
それは消えるわけではない。
それでも、別の名を持つことになる。
その名がどんな響きなのか、まだ知らない。
「変な感じがします」
「当然よ」
「でも、嫌ではありません」
「なら、大丈夫」
ルセリアはそれだけ言った。
ユイは頷いた。
窓の外で、昼の鐘が鳴った。
小さな街の鐘は、城で聞いた鐘より軽い音だった。
ユイはその音を聞きながら、地図の上の聖都を見ていた。
明日から、自分は学生になる。
ユイは地図の上の聖都をもう一度指でなぞった。




