第六話:灰の夜
足音が近づいていた。
地下の階段を、何人もの兵が下りてくる音だった。重い靴音に、鎧の擦れる音が混じっている。
アキは魔導書を片手に持ち、出口の方を見た。
「急ごうか」
「戦うんですか?」
ユイが尋ねると、アキは軽く首を傾げた。
「必要ならね。でも、ここで粘る理由もないしね」
その言い方は軽かった。
アキが先に歩き出すと、通路の青白い灯りが一つずつ消えていった。こちらへ向かっていた足音が乱れる。
「灯りが消えたぞ」
「待て、前が見えない」
声が重なった。
アキは振り返らない。
「ルセリア、歩ける?」
「歩くわ」
ルセリアは答えた。
顔色は悪い。金の髪はまだ乱れ、額には汗が残っている。それでも、彼女は背筋を伸ばそうとしていた。
「歩けるかどうかを聞いたんだけど」
「歩くと言ったでしょう」
「はいはい、無理してるね」
アキがそう言うと、ルセリアは返事のかわりに睨んだ。
ユイはルセリアの腕を支えた。
「私が支えます」
「ありがとう。でも、無理はしないで」
「はい」
そう答えながら、ユイはルセリアの体重を受けた。
想像していたより軽い。
それだけ、彼女は弱っていた。
胸元では、黒曜石の小さな棺が小さく揺れている。ノクティラの声はない。
階段の下へ兵が現れる前に、アキが指を鳴らした。
風も音もない。
通路の奥にいた兵たちが、糸を切られたようにその場へ倒れた。
「殺したんですか」
ユイが聞く。
「眠ってもらっただけ。今は余計な血を流す場面じゃない」
アキはいつもの調子で答えた。
ルセリアが低く言う。
「あなたがそれを言うのね」
「便利な時だけ褒めてくれてもいいよ」
「褒める理由が見当たらないわ」
「厳しいなあ」
地下の階段を上る。
扉の向こうには、夜の廊下が広がっていた。青白い灯りではなく、城の燭台の弱い火が壁を照らしている。そこは、ユイが何度も通った廊下だった。
同じ場所には見えなかった。
先祖の肖像画。
冷えた石の床。
遠くから聞こえる兵の声。
どれも知っている。なのに、もう自分のものではない。
アキは迷わず進んだ。角を曲がるたび、扉が勝手に開き、閉じていく。出会った兵は、声を上げる前に床へ倒れた。
ユイはそれを見ていた。
アキにとって、この城は障害にもならない。
彼は脱出しているのではなく、道を歩いているだけだった。
自分が十六年暮らした城を、彼はそのくらい簡単に抜けていく。
廊下の先に、ユイの部屋へ続く角が見えた。
ユイは足を止めなかった。
「荷物は?」
アキが聞いた。
「ありません」
「本当に?」
「はい」
服も、本も、筆記具も、鏡も、白いリボンも。
そこに置いていく。
必要なものは、もう手元にある。ルセリアを支える腕と、胸元の小さな棺と、アキの魔導書。それだけで、今は足りた。
「当面の金は僕が持っていく。子爵家の金庫からね」
「……いいんですか?」
「後始末の一部だよ。君が空の手で放り出される理由はない」
城門へ向かう途中、背後で大きな音がした。
誰かが扉を蹴破ったのだろう。
「子爵様が倒れている!」
「娘を探せ!」
「大主教もいないぞ!」
声が廊下を走る。
ルセリアの手に力が入った。
「追ってくるわ」
「来るなら来るでいいよ」
アキは足を止めなかった。
「でも、外へ出るまではユイ君に走らせたくない。ルセリアも倒れそうだし」
「倒れないわ」
「はいはい」
「返事が軽い」
「今さら?」
ユイは二人のやり取りを聞きながら、息を整えた。
城門の前には、夜番の兵がいた。
彼らはユイたちを見ると、すぐに剣へ手を伸ばした。その動きは途中で止まる。アキが手を振っただけで、兵たちはその場に膝をついた。
倒れる音は小さい。
門が開く。
外の風が入ってきた。
冷たかった。
ユイは、城門の外へ一歩出た。
石畳の先に、夜の道が続いている。城壁の向こうは暗い。森も、街道も、遠くの丘も、ほとんど見えない。
それでも、そこは外だった。
ユイは振り返った。
ローゼンベルク子爵家の城が、夜の中に立っている。
大きく、冷たく、静かだった。
言葉は出なかった。
「行く前に、ひとつ片づける」
アキが城を見た。
「燃やすの?」
ルセリアが聞いた。
「火をつけるだけじゃないよ」
アキは軽く指を上げる。
「邪教の襲撃で終わった夜として残るように、痕を焼き直す。炎は城の外へ出ない。人にも、街にも、森にも広がらない」
「……真相を隠す火、ということ?」
「見られて困るものを、見せられる形にする火」
アキが指を鳴らした。
城の窓の奥に、白い火が灯った。
赤く燃え上がる炎ではない。石壁の内側をなぞるように広がり、音も煙もなく、夜を薄く照らしていく。
ユイは城を見ていた。
自分の部屋。書庫。食堂。父の書斎。地下へ続く扉。
そこにあったものが、別の形へ変えられていく。
火は石を焼くのではなく、城に残った出来事の跡をなぞっているように見えた。
「周りの人は」
「巻き込まない」
アキの返事は早かった。
「残すべきじゃないものだけ燃やす」
ルセリアは黙ってその言葉を聞いた。
「あそこで何が行われていたかを思えば、それが一番、被害の少ない形でしょう」
ユイはしばらく何も言わなかった。
それから、頷いた。
「分かりました」
「行きましょう」
ルセリアが言った。
声はかすれていたが、はっきりしていた。
ユイは頷く。
アキがもう一度、指を鳴らした。
次の瞬間、景色が滑るように切り替わった。
眩しさも衝撃もない。
足元の石畳が消え、別の土の感触が靴の下に来る。頬に当たる風の匂いが変わった。
テレポート。
言葉として知る前に、ユイはそれを体験した。
気づけば、そこはもう別の場所だった。
街だった。
背の低い建物が並び、窓はほとんど暗い。通りは狭く、城の廊下よりも雑然としている。壁の隙間から、炭と乾いた草の匂いがした。
ユイはあたりを見回した。
「……ここは?」
「子爵領の外縁に近い街」
アキが答える。
ルセリアは深く息を吸った。
「……懐かしい匂い」
「聖都とは違いますか?」
「違うわ。聖都は石と香の匂い。ここは、人が暮らしている匂い」
ユイは、その言葉を覚えようとした。
人が暮らしている匂い。
城にも人はいた。
ここには、城にはない雑さがある。整えられていない道。低い屋根。閉じた窓。どこかで戸板が鳴り、すぐに静かになる。
ユイは胸元の棺に手を添えた。
城の白い火は、もう見えない。
宿は通りの奥にあった。
看板は古く、文字はかすれている。戸口の灯りは弱いが、消えてはいない。夜更けの旅人を追い返す宿ではなさそうだった。
ルセリアは入口の前で息を整える。
「部屋は一つでいいわね」
「一つで、足りますか?」
「私はベッドが一つあれば十分。あなたも休まなければならない。アキは本に戻れる。ノクティラ様は……」
胸元の棺から、低い声がした。
「依り代があれば足りる」
ユイは棺を見下ろした。
「濡れたり、揺れたりしても大丈夫ですか?」
「ぞんざいに扱わなければよい」
「気をつけます」
「当然だ」
ルセリアが小さく息を吐いた。
「では、二人部屋を一つ取りましょう」
宿に入ると、帳場の主人は眠そうな目でこちらを見た。
「……部屋かい」
「二人部屋を一つ」
ルセリアが答える。
主人はユイの白い髪と、ルセリアの汚れた服を見た。何か言いたげだったが、結局、鍵を出した。
「湯は裏だ。今ならまだ使える」
「助かります」
支払いはアキがした。
銀貨が一枚、いつの間にか帳場に置かれている。
主人はそれを見て、何も聞かずに鍵を渡した。
階段は古く、上るたびに木が鳴った。
廊下は狭い。壁も薄い。どこかの部屋で人が寝返りを打つ音がした。
部屋は簡素だった。
机、椅子、棚、洗面台。小さな窓。粗い布のカーテン。ベッドは二つ。
城の部屋とは比べものにならない。
ユイは息をついた。
「落ち着きます」
ルセリアが小さく首を傾げる。
「そう?」
「はい。暮らしの匂いがします」
アキは魔導書を机に置いた。
「名言っぽい」
「そうでしょうか」
「うん。たぶん今日の記念に残るやつ」
ルセリアがアキを見る。
「茶化さない」
「はい」
返事だけは素直だった。
魔導書が閉じると、アキの姿は薄くなり、本の中へ戻った。
ユイはその様子を見ていた。
「便利ですね」
「便利な相手ほど、使い方を間違えると危ないわ」
ルセリアの声はやわらかかったが、言葉は軽くなかった。
「覚えておきます」
「ええ」
ルセリアは部屋の入口に目を向ける。
「先に湯へ行きなさい」
「ルセリアさんは?」
「後でいいわ」
「でも」
「あなたから」
短い言葉だった。
ユイは頷いた。
宿の風呂場は狭かった。
湯気がこもり、木の壁は湿っている。湯は熱すぎず、疲れた身体にはちょうどよかった。
ユイは胸元の棺を濡らさないように外し、脱衣棚の布の上へ置いた。
「目を離すな」
棺から声がした。
「はい」
「落とすな」
「はい」
「湯に入れるな」
「入れません」
声は威厳があるのに、言っていることは細かい。
ユイは口元を緩めた。
「何がおかしい」
「いいえ。気をつけます」
湯に浸かると、ようやく息が深くなった。
指先の冷えがほどけていく。
髪を洗い、肌についた地下の匂いを落とす。血の匂いも、石の湿り気も、完全には消えない。それでも湯は温かかった。
しばらくして、戸の向こうからルセリアの声がした。
「入ってもいい?」
「はい」
ルセリアが入ってくる。簡単な湯浴み着をまとっていた。傷を隠すためか、動きはゆっくりだ。
「一人で大丈夫?」
「大丈夫です」
「そう」
ルセリアはユイの隣に腰を下ろし、湯を手にすくった。
「今日は、いろいろありすぎたわ」
「はい」
「無理に名前をつけなくていい。怖いとか、悲しいとか、怒っているとか。今すぐ決めなくてもいいの」
ユイは湯の表面を見た。
「涙が出ません」
「出ない時もあるわ」
「それは、おかしいですか?」
「おかしくない」
ルセリアは迷わず言った。
「悲しみは、涙だけで決まらない。あなたが何も感じていないわけでもない」
ユイは頷き、湯の表面へ視線を落とした。
ルセリアはユイの髪を見た。
「髪、ほどけやすいわね」
「はい。よく言われます」
「結び紐を貸すわ」
ルセリアは自分のリボンを外した。
「いいんですか?」
「今は私よりあなたに必要」
「ありがとうございます」
「礼は明日でいいわ。今日は休むこと」
湯から上がる頃には、ユイの頬に赤みが戻っていた。
部屋へ戻ると、机の上にパンとスープが置かれていた。宿の主人が運んできたものらしい。
アキはすでに椅子に座っていた。
「おかえり。夜食だよ」
「払ったんですか?」
「払った。ちゃんと」
ルセリアが乾いた布で髪を押さえながら言う。
「あなたのお金なの?」
「細かいことを聞くと疲れるよ」
「聞かなくても疲れるわ」
「じゃあ、全然楽になってないね」
ルセリアは返事をしなかった。
ユイは椅子に座り、パンをちぎった。
スープは薄い塩味だった。具も少ない。けれど、温かい。
「おいしいです」
「旅先の食事は、だいたいこういうものよ」
ルセリアが言った。
「豪華ではないけれど、身体にしみるわ」
ユイはもう一口飲んだ。
身体の奥が温まった。
胸元の棺が淡く光る。
「食事というものは、そんなに重要か」
ノクティラの声だった。
アキが笑う。
「重要だよ。おいしいものは人類の偉大な発明だ」
「発明なのか」
「たぶん」
ユイは棺へ視線を落とした。
「ノクティラさんは、食べないんですか?」
「必要ない」
「おいしいものを知っていますか?」
棺は黙った。
アキが口元を押さえた。
「ユイ君、たまに鋭いこと聞くよね」
「失礼でしたか?」
「いや、かなり良い質問」
棺から低い声がする。
「……必要がなかっただけだ」
「では、いつか必要がなくても、食べてみますか」
「考えておく」
ノクティラは、それ以上否定しなかった。
ルセリアが笑う。
ユイはスープの器を両手で包み直した。
食事が終わる頃、ユイは一度だけ窓の外を見た。
城の方角は、もう夜に沈んでいる。
もう戻らない。
そう思っても、涙は出なかった。
アキは机の上の魔導書に手を置いた。
「今日はここまで。話すことは山ほどあるけど、全部やる夜じゃない」
「明日、教えてください」
ユイが言うと、ルセリアは頷いた。
「ええ。明日から、少しずつ」
「世界のことも」
「もちろん」
その返事は、約束のように聞こえた。
アキは本を開き、そこへ戻っていく。
「僕も寝る。というか、本に戻る」
「眠るんですか?」
「気分の問題」
「そうですか」
「ユイ君も寝なさい。明日、目を開けたら、ちゃんと城の外だから」
ユイはベッドに入った。
布団は軽い。城の寝具より薄い。けれど、身体を包むには十分だった。
ルセリアはもう一つのベッドに腰を下ろし、短い祈りの姿勢を取る。完全に眠るつもりはないのだろう。それでも、ユイの方を見て言った。
「おやすみ、ユイ」
「おやすみなさい。ルセリアさん」
胸元の棺から、小さな声がした。
「眠れ」
「はい。ノクティラさんも」
「我は眠っていたところを起こされた側だ」
「では、もう一度眠ってください」
返事はなかった。
けれど、棺の気配は静まった。
灯りが落ちる。
宿の壁は薄い。どこかで床板が鳴る。遠くで人が咳をする。城の夜より、音が近い。
初めての宿の夜は、思っていたよりも温かかった。




