第五話:葬夜の棺
「大丈夫。壊しはしないよ」
アキはそう言って、ルセリアへ手を伸ばした。
鎖は落ちた。
ルセリアの魔力はまだ戻っていない。金の髪が頬に張りつき、銀の瞳には疲労の色が濃い。それでも、彼女はユイを背にかばうように前へ出た。
「何をするつもり」
「報酬をもらう」
「報酬?」
「救出の報酬だよ」
アキはさらりと言った。
「君が魂の奥に隠している神授物。葬夜の棺。それを報酬としてもらう」
ルセリアの目つきが変わった。
疲れも痛みも消えたように見えた。立っているだけでも苦しいはずなのに、彼女は退かなかった。
「ユイ、下がって」
「ルセリアさん」
「下がりなさい」
声は弱い。それでも、逆らえない響きがあった。
ユイは一歩だけ下がる。
アキは肩をすくめた。
「そんなに警戒しなくてもいいのに」
「あなたに渡すくらいなら、ここで砕いた方がましよ」
「砕けるの?」
「できるかは分からない。それでも渡さないわ」
「じゃあ、やめた方がいい」
アキの声は軽かった。
ルセリアは笑わない。
「あなたは精霊ではない。悪魔でも、まだ足りない。何か別のものよ」
「ひどい評価だなあ」
「ここまで都合よく重なるなら、偶然ではないわね」
アキは答えなかった。
ルセリアの足元に白い光が灯る。
青い拘束封印は破られた。彼女の魔力は戻りきっていない。光は細く、何度も揺れた。地下の石壁を照らすには足りた。
「大主教さん。無理すると倒れるよ」
「倒れても、あなたは止める」
「止められる?」
「止めるのよ」
ルセリアが右手を上げた。
白い光が細い槍になる。
ユイには、それが美しいものに見えた。完全ではない。光の輪郭がかすかに乱れ、先端が震えている。
アキはそれを見て、ため息をついた。
「本来の君なら、もう少し怖かっただろうね」
「黙りなさい」
光の槍が放たれた。
ユイには、何も見えなかった。
次の瞬間、白い槍はアキの二本の指の間に挟まれていた。
避ける素振りもない。
白い光はそこで止まり、音もなく砕けた。
砕けた光の一部が、ルセリアの胸元へ跳ね返る。
ルセリアが息を詰めた。
「ルセリアさん!」
「来ないで!」
ルセリアは叫ぶ。
胸元に、白い輪が浮かんでいた。
細かな文字が幾重にも巡っている。祈りのような、鎖のような光。その奥に、黒い点がある。
アキの目が細くなった。
「なるほど。魂の内側か」
ルセリアの顔が強張る。
「見たわね」
「うん」
「触れさせない」
ルセリアは両手を胸元に重ねた。
白い輪が強く光る。
白い輪は外へ広がらず、ルセリアの胸元だけを包み込んだ。
アキは一歩近づく。
「魂の奥に隠しているのは分かった。だから、ここで抱え込むより、僕が受け取る方が早い」
「だからって、あなたが奪っていい理由にはならないわ」
「報酬だからね」
「信用できない」
「それでいい」
アキは悪びれなかった。
「信用しなくていい。許可はいらない。君の手からこちらへ渡れば、それでいい」
「それを、奪う者の言葉というのよ」
「否定はしない」
ルセリアが唇を噛む。
次の瞬間、彼女の背に薄い光が開いた。
翼と呼ぶには弱い。光がかろうじて羽根の形を取り、湿った石壁を白く照らした。
ユイの白い髪が揺れる。
ルセリアは前へ出た。
一歩踏み出しただけで、彼女の膝が折れそうになる。
それでも、止まらない。
「ルセリアさん、もう――」
「ユイ」
ルセリアは振り返らなかった。
「この人から離れて」
アキが苦笑する。
「僕、そこまで悪く見える?」
「見えるわ」
「困ったな」
「困るだけなら退きなさい」
「それは無理」
アキが手を上げた。
その動きは小さかった。
ルセリアの光が一気に砕けた。
白い破片が地下に散る。雪のように落ちる前に、光は消えた。
ルセリアの身体が傾く。
それでも彼女は、最後の魔力を胸元へ集めた。
白い輪が狭まる。
葬夜の棺を、魂の奥へ押し戻そうとしている。
白い文字は乱れず、棺だけを奥へ抱え込んでいく。
アキが一瞬だけ真顔になった。
彼が見たのは、白い輪のさらに奥に沈む古い印だった。
「へえ。奥にまだ一手残してある」
「あなたに言われたくないわ」
「棺を取るなら、あれを越えないといけない」
「触れるな! それは教皇猊下が重ねた封印よ。あなたに破れるものではないわ」
ルセリアの光が弾けた。
白い輪は、棺を奥へ抱え込もうとしていた。
そのさらに内側へ、アキの指先だけが入る。
白い輪の奥で、古い印が浮かぶ。
それはルセリアの魔力とは違う色で、触れられることを拒むように細く震えた。
アキの指先が止まる。
一瞬だけ、地下に硬い音がした。
扉を叩いた音ではない。目に見えない壁へ、指先が当たったような音だった。
ルセリアは唇を噛んだまま、薄く息を吐く。
「退きなさい。今なら、まだ――」
「うん。固いね」
アキの声から、軽さが少し消えた。
「でも、破れないわけじゃない」
「やめなさい!」
アキの指先が、ほんの少し沈む。
古い印の白が、奥へ折れた。
その瞬間、棺そのものに刻まれていた黒い細線まで震えた。
アキの指先と古い印の間で、白い光と黒いひびが同時に走った。
ユイの目には、ルセリアの胸元で白い輪が割れたことだけが分かった。
黒曜石の小さな棺が、魂の奥から表へ押し出される。
十センチほどの、艶のある黒い石。
外に置かれていたものではない。ルセリアの内側に隠されていたものが、無理にこちらへ浮かび上がっていた。
アキの口元から笑みが消えた。
「……開きすぎた」
「あなたが……!」
アキは返事の代わりに、小さな棺の縁へ指を伏せた。
黒いひびが外へ伸びかけ、そこで止まる。
「触れないで!」
ルセリアがまた光を集めようとする。
もう立っていられなかった。
彼女は膝から崩れる。
ユイが駆け寄り、支えた。
「ルセリアさん」
「離れて……だめ、まだ……」
「もう無理です」
「無理でも、守るの」
ルセリアの声は震えていた。
腕だけは、まだユイの前から退いていない。
黒いひびが広がる。
小さな棺の蓋がわずかに開いた。
隙間は指一本にも満たない。
それなのに、地下の奥に別の夜が折り畳まれていたように、黒が音もなくあふれた。
灯りを消す闇ではない。
灯りの届く距離そのものが、遠ざかっていく。
その黒の中から、影が立ち上がる。
長い黒髪。
漆黒の瞳。
少女の姿をしている。人間ではない。そこにいるだけで、地下の灯りが遠くなる。
その瞼が開いた瞬間、地下全体が沈んだ。
音ではなかった。
石壁の灯りが一斉に細くなり、ユイの膝から力が抜けかける。
ルセリアには、神授物の余波だけではないと分かった。
それだけなら、白い輪が震えるだけで済む。
今は違った。
割れた輪の内側で、ルセリアの指先まで冷たく痺れていた。
数多くの強者を見てきた彼女の目にも、いま目の前で目を開けたものは、人の領域に収まらないと映った。
アキが指先を伏せる。
床へ落ちかけた夜が、小さな棺の周囲へ折り畳まれた。
黒いひびから漏れたものは、石一枚の高さで止まる。
「……誰だ」
低い声が響いた。
影の少女は、ゆっくりと周囲を見た。
「我の眠りを破ったのは」
少女の視線がルセリアを通り過ぎ、アキで止まる。
黒い瞳が、アキを捉えた。
「貴様か」
「おはよう、ノクティラ」
アキは気楽に言った。
「寝起きに悪いけど、静かな目覚めにはならない」
ノクティラ。
闇と境界の名。
先ほど地下を沈めた波動。
葬夜の棺。
アキが呼んだ名。
割れた白い輪の上で、ルセリアの指先が止まった。
声は出なかった。
「我の名を、どこで知った」
「秘密」
ノクティラの足元に黒い線が走る。
線は円を描き、アキを囲んだ。
黒い円は、内側と外側を切り分けていた。
しかし、円はすぐに揺らぐ。
アキは、その中で平然と立っている。
「今の君では無理だよ」
「……」
ノクティラの黒い瞳が、わずかに細くなる。
怒りより先に、測ろうとする冷えた光が浮いた。
「覚えておく」
「できれば穏便に」
「事故で済むと思うな」
「思ってないよ」
アキは笑っていなかった。
ノクティラの輪郭は薄い。黒い髪の先が煙のように揺れている。
完全には出ていない。棺の封印の隙間から、影だけが漏れ出ている。
アキは小さな棺へ視線を落とした。
「そのまま出続けると、君を探している連中に見つかる」
「誰が我を探す」
アキは答えなかった。
ノクティラの視線が、棺のひびへ落ちる。
「……そういうことか」
「たぶんね」
「くだらぬ」
低く、冷たい声だった。
「我は境界を守っていた」
棺のひびが細く鳴り、床の影がわずかに濃くなる。
アキの指が棺を軽く叩くと、影は石の継ぎ目までで止まった。
ルセリアの指先に、白い光が集まりかける。
だが、親指が震えた。
光は形になる前に散り、膝の上へ落ちた。
ユイは胸元に手を当てた。
黒曜石の棺は、まだ空中に浮かんでいる。白い封印は割れ、黒いひびが残っている。
「アキさん」
「なに?」
「このままでは、危ないんですか」
「外から気配を辿られる状態だね。さっきの波は押さえたけど、封印のひびは残っている。上に残っている連中だけじゃない。もっと厄介なものまで寄ってくる」
「どうするんですか」
「この棺を仮の依り代として整える。中にいるものを外へ漏らさないための、仮の器だ。漏れた気配は僕が隠す。持つのはユイ君」
「私が?」
「僕が今持つより、君のそばに置いた方が目立たない。救出の報酬としてもらう話は変わらないけど、今は隠す方が先だ」
「持つだけでは足りない。棺が君のそばにある、という形を作る。縛るためじゃない。今夜だけの、浅い縁でいい」
ノクティラの目が冷えた。
「我に、人間と縁を結べと」
「今夜だけの応急処置だよ。後で君が文句を言えるくらいには残す」
「その子を巻き込むな」
ルセリアが言った。
「もう巻き込まれている」
「あなたが巻き込んだのでしょう」
「そうだね」
アキは否定しなかった。
ノクティラがユイを見る。
「白い娘」
「はい」
「お前は、自分が何を預かるか分かっているのか」
「分かっていません」
「なら、なぜ聞いている」
「分からないまま持つより、少しでも聞いた方がいいからです」
ノクティラの眉が動いた。
「恐れぬのか」
「何を怖がればいいのかも、まだ分かりません」
「愚かだな」
「そうかもしれません」
「だが、嘘はない」
ノクティラは短く言った。
ルセリアも、ユイを見ていた。
止めたい。
止める方法がない。
「ユイ」
「はい」
「嫌なら、嫌と言いなさい」
「嫌ではありません」
「危険なのよ」
「はい」
「分かっていないでしょう」
「分かっていないと思います」
ユイは正直に答えた。
「でも、このままだと、ルセリアさんも、ノクティラさんも見つかってしまうのでしょう」
「……そうね」
「なら、持ちます」
ルセリアは目を閉じた。
「本当に、危なっかしいわね」
「すみません」
「謝るところではないわ」
アキは口元だけを緩めた。
「じゃあ、決まり」
「勝手に決めるな」
ノクティラが言った。
「我は人間の持ち物ではない」
「知ってる。今は仮の置き場所だよ」
「言い方を変えただけだ」
「だね」
ノクティラは不機嫌そうにアキを睨んだ。
「貴様との話は、後で聞く」
「怖いなあ」
「茶化すな」
ノクティラの視線が、アキの手元へ落ちる。
黒い瞳の奥で、まだ怒りが消えていない。
「それを黙って見逃すほど、我は鈍くない」
「うん。そこは期待してる」
「何を」
「君が疑ってくれること」
ノクティラは答えなかった。
アキは棺へ手をかざす。
黒いひびから漏れていた夜が、ゆっくり棺へ戻っていく。白い封印の欠片も、完全ではないが縫い直されるように形を戻した。
次に、細い銀の鎖が現れた。
小さな黒曜石の棺が、首飾りになる。
アキはそれをユイへ差し出した。
「はい」
ユイは両手で受け取る。
見た目より重い。
冷たい。
嫌な冷たさではなかった。夜の石を手にしたような感触だった。
首にかけると、黒い棺が胸元に収まった。
ノクティラの姿が薄くなる。
「我は、お前を主とは認めぬ」
「はい」
「契約などという言葉も好かぬ」
「分かりました」
「分かっておらぬ顔だ」
「分かっていません」
「……本当に正直な娘だな」
黒い影が棺へ沈む。
胸元の黒い石だけが、服越しに冷たかった。
ルセリアは杖もないまま立とうとした。
ユイが支える。
「無理しないでください」
「無理はもうしたわ」
「では、もうしないでください」
「できればね」
ルセリアは息を整え、アキを見る。
「私は、あなたを信用しない」
「うん」
「ユイをあなた一人には預けない」
「それもいい」
「だから、私も行くわ」
アキは片手を軽く上げた。
「歓迎するよ」
「あなたに歓迎されると、不安になる」
「ひどいなあ」
「当然でしょう」
ルセリアの声は弱いが、芯は戻っていた。
「それと、その縁を結ぶなら、こちらからも一つ求めるわ」
「どうぞ」
「あなたも縛られなさい。ユイを媒介にしてでもいい。あなたが好き勝手に動けるままでは、私は従えない」
「いいよ」
返事は早かった。
ルセリアが眉をひそめる。
「本当に縛れるの?」
「完全には無理。でも、彼女から遠く離れられないくらいの縁なら結べる」
「それで十分とは言わないわ」
「十分じゃなくていい。疑う理由になればいい」
ルセリアは返す言葉をすぐには選ばなかった。
ユイはアキを見る。
「アキさんは、疑われたいんですか」
「信じてほしいよ。でも、信じ切られるには向いていない」
アキは軽く言った。
ユイは、すぐに返事を選べなかった。
魔導書が開く。
白い頁に、細い線が浮かぶ。
線はユイへ伸びる。
ルセリアへ。
胸元の棺へ。
最後に、アキ自身へ戻る。
ルセリアの視線が、白い頁の線を追った。
「ユイを中心にするのね」
「そうなる」
「本当に趣味が悪いわね」
「否定はしない」
ユイは頁を見つめた。
「これは、何ですか」
「今は、同行の約束として受け取っておけばいい」
アキが答える。
胸元の棺から、低い声が聞こえた。
「我は認めたわけではない」
「分かっています」
ユイは棺へ手を添えた。
「それでも、よろしくお願いします。ノクティラさん」
返事はしばらくなかった。
やがて、低く小さな声がした。
「……今は預けるだけだ」
「はい」
アキが笑いそうになり、ルセリアの視線を受けて口元を閉じた。
その時、上の階から足音が聞こえた。
一人ではない。
重い足音がいくつも重なり、こちらへ近づいている。
ルセリアの顔が引き締まる。
「増援ね」
「だろうね」
アキは魔導書を閉じた。
「ここを出よう。ユイ君、歩ける?」
「はい」
「ルセリアは?」
「歩けるわ」
「嘘だね」
「歩くのよ」
「了解」
アキはそれ以上言わなかった。
ユイは一度だけ、倒れた父と母の方を見た。
家族だった人たち。
食堂で書類を読んでいた父。
食事の席で、姿勢を確かめていた母。
その二人と、床に倒れている二人が、うまく重ならなかった。
悲しいのか、まだ分からない。
ただ、朝と同じ食卓へ戻る道は、もう城のどこにもなかった。
胸元の小さな棺に手を添えると、石の冷たさが指先に残った。
「行きましょう」
ルセリアが言った。
ユイは頷く。
「はい」
アキが地下の出口へ向かう。
「じゃあ、鳥籠を出ようか」
軽い声だった。
今度は違って聞こえた。
その先へ進む。
扉の向こうから、冷たい夜気が流れ込んだ。
ユイは棺を押さえたまま、一歩を踏み出した。




