第四話:悪魔の取引
「じゃあ、もらおうか。二つ目の代価を」
アキの声が、地下に響いた。
兵が動く。
剣を抜く音がした。鉄が鞘を擦る、乾いた音。青白い灯りの下で、刃だけが冷たく光る。
ユイは魔導書を抱えたまま、動かなかった。
父はそれを見て、眉をわずかに動かした。
「その本を渡せ」
「できません」
「ユイ」
父の声が低くなる。
「今なら、まだ戻れる」
「戻れば、ルセリアさんはどうなりますか」
「お前には関係ない」
「あります」
「ないと言っている」
父は短く言い、兵へ視線を向けた。
「捕らえろ。抵抗するなら、多少傷つけても構わん。ただし、その娘を大主教の封印陣には近づけるな。鎖には触れるな」
ルセリアの鎖が鳴った。
「やめなさい」
父はすぐには返さなかった。
青い鎖と、床の魔法陣へ視線を走らせる。光はまだ乱れていない。
それを確かめてから、父は口を開いた。
「大主教閣下。あなたには、まだ聞かねばならないことがある」
父はルセリアへ歩み寄らなかった。
父は封印の光から目を離さないまま、兵へ次の位置を指で示した。ルセリアとの間合いは崩さない。
兵の一人が踏み込んだ。
速い。
ユイに届く前に、その腕が止まった。
アキが指を一本立てていた。
指先は、兵の腕に触れてさえいなかった。
兵の身体が、膝から崩れる。
音もなく倒れた。
血は出ていない。傷も見えない。ただ、糸を切られた人形のように床へ落ちた。
「な……」
もう一人の兵が後ずさる。
アキはそちらを見もしない。
「邪魔」
兵が壁へ叩きつけられた。
鎧が石にぶつかり、鈍い音を立てる。そのまま動かなくなった。
母が息を呑んだ。
父の顔から、表情が消えた。
「何者だ」
「さっき名乗ったよ。アキ」
「ふざけるな」
「ふざけてないって」
アキは肩をすくめた。
「君たちが遅いから、先に始めただけ」
「始める?」
「約束を果たすだけ」
アキはユイの方を一度見た。
「二つ目の代価。君の同族の血」
ユイの手が止まった。
地下の青い光が、鎖の上を走る。
「同族……」
「言い方が悪かったかな。血の近い者、と言えばいい?」
アキの声は軽かった。
けれど、目は笑っていなかった。
「ちょうど目の前にいる」
ユイは父と母を見た。
父はユイを見ていなかった。
母は顔を伏せている。
沈黙は短かった。
父が右手を上げる。
その指に、黒い指輪があった。
今まで見たことのないものだった。黒い石の中に、赤い筋が走っている。血のような色だった。
「やはり、もう使えんな」
父が言った。
母が目を閉じる。
「あなた」
「仕方あるまい」
父はユイへ視線を向けた。
「娘としては惜しい出来だった。秘密を見た以上、商品にもならん」
ユイは何も言わなかった。
母が小さく言った。
「ユイ。あなたは、何も知らないままでいればよかったの」
「お母様も、そう思いますか」
「ええ」
母は顔を上げた。
目は濡れていなかった。
「その方が、あなたも楽だったわ」
父の指輪から、黒い煙のようなものが漏れた。
煙は床を這い、血の匂いを連れて広がっていく。地下の湿った石の匂いが、別のものに塗り替えられていく。
母も首元の飾りを引きちぎった。
細い鎖の先に、小さな赤い石がついている。それが脈打つように光った。
ルセリアの目が鋭くなる。
「九柱のどれにも当てはまらない……邪教の術ね」
「大主教閣下なら、名を知っておられるかもしれませんな」
父が言った。
その声はもう、食堂で書類を読んでいた父の声ではなかった。
「ですが、その鎖がある限り、あなたは動けない」
床に広がった黒い煙が、湿った息のように持ち上がり、先に腕の形を作った。爪が石床を掻く音だけが、地下の空気に引っかかる。
次に、牙が覗いた。
獣に似ていて、獣ではない。輪郭は煙のまま崩れ続け、目だけが赤く光っている。
ユイはそれを見た。
「ユイ、下がりなさい」
ルセリアが言った。
ユイは一歩下がった。
アキは前に出た。
「分かりやすくて助かる」
「何がですか」
「こっちの話」
アキは右手を軽く振った。
黒い獣の一体が消えた。
燃えたのではない。
斬られたのでもない。
最初からいなかったように、その場から消えた。
父の顔が初めて歪んだ。
「なぜ消える」
「消したから」
「術式の干渉か」
「違う」
アキはもう一度、指を鳴らした。
二体目がほどけた。
三体目は、赤い目だけを残して潰れた。
黒い煙がほどけ、床に残った血の匂いだけが遅れて消えていく。
「君たちの術式に付き合うつもりはないよ」
アキは父を見た。
「時間がないから」
父が舌打ちした。
指輪の赤い筋が強く光る。父の腕に黒い模様が走った。皮膚の下を虫が這うように、闇が動く。
母の赤い石も光る。
父の背後に、父と同じ輪郭が半歩ずれて立った。
黒い影だった。顔も、右手の指輪も、父と同じ形をしている。
母の肩越しにも、薄紅の影が重なった。母の唇と、その影の唇が、別々の速さで動く。
ユイには、それが何なのか分からなかった。
ただ、父も母も、二人いるように見えた。
母の足元に、血で描かれたような円が広がった。
ユイはその円を見た。
いつ描かれたものなのか、分からない。そこには古い染みがあった。何度も使われた跡だ。
「お母様」
ユイは言った。
「その血は、誰のものですか」
母は答えなかった。
かわりに、血の円から細い腕が伸びた。
人の腕に似ている。
しかし、指が多い。
その腕がユイへ向かう。
アキが一歩前へ出た。
「触るな」
腕が止まる。
次の瞬間、全部砕けた。
赤い石が割れる。
母が小さく悲鳴を上げ、膝をついた。
「ありえない……」
「そう?」
アキは母を見下ろした。
「君たちの常識が狭いだけだよ」
父がアキへ飛びかかった。
人の動きではなかった。
床を蹴った瞬間、身体が黒く膨らみ、腕が長く伸びる。背後の影も遅れて動き、黒い爪を別の角度から伸ばした。
爪が鉄格子をかすめ、火花が散った。
アキは避けなかった。
父の爪は、アキの胸の前で止まった。
見えない壁があるわけではない。
爪そのものが、前へ進むことを忘れたように止まっていた。
「君、本当に父親?」
アキが聞いた。
父の喉が低く鳴る。
「余計な口を利くな」
「娘を殺そうとしてる割には、ずいぶん普通の顔をしていたからさ」
「娘など、家のために使うものだ」
「なるほど」
アキは父の赤く濁った目を見た。
「じゃあ、もういらないね」
父の腕が消えた。
肩から先が、何もなかった。
背後の黒い影も、同じ場所から崩れた。
血は出ない。
切断面もない。
そこだけ石室の景色から抜け落ちたように、空白になっている。
父が叫んだ。
アキが指を鳴らす。
叫びが途中で切れた。
黒い影が、父の背後で内側からほどけた。
父の身体が床へ落ちた。
胸だけが浅く上下している。生きてはいる。けれど、床に広がる黒い影はもう戻らず、指先も動かない。
母が震えながら後ずさった。
「待って」
母は言った。
「ユイ。お願い。お母様よ」
ユイは母を見た。
その言葉は、知っているはずだった。
お母様。
何度も呼んだ。
けれど今は、遠い。
「お母様は、私をどうするつもりでしたか」
「それは……」
「私は、商品ですか」
母の唇が動いた。
母は何も言わなかった。
ユイはそれ以上聞かなかった。
母の足元で、また赤い光が揺れる。
隠していた石の欠片が、まだ残っていたのだろう。母はそれを握りしめていた。
アキがため息をつく。
「そういうところだよ」
母の手から、赤い光が消えた。
石の欠片が砂のように崩れる。
母に重なっていた薄紅の影も、音もなくひび割れた。
母は呆然と手のひらを見た。
「ユイ君」
アキが言った。
「見なくてもいいよ」
「見ます」
ユイは答えた。
「そう」
アキの目から、軽さが消えた。
「じゃあ、終わらせる」
父が何かを言おうとした。
母も口を開いた。
言葉にはならなかった。
地下の灯りが一度だけ揺れた。
次の瞬間、父と母は動かなくなった。
床には、血の匂いと、崩れた赤い石の欠片が残った。
ユイは目を逸らさなかった。
けれど、息をするのを忘れていた。
気づくと、魔導書の角を強く握っていた。
指先が、少し痛かった。
朝、母が直していた袖口の感触が、場違いに戻ってきた。
その感触と、床に倒れた母の姿が、同じ人のものだとうまく結びつかない。
「……ユイ」
ルセリアが呼んだ。
痛みの混じった声だった。
ユイは振り返る。
「大丈夫です」
「大丈夫なわけがないわ」
「はい」
ユイは頷いた。
「でも、今は立っています」
ルセリアは一瞬、何も言えなかった。
アキは父母の倒れた場所を一度だけ見て、それから鉄格子へ向き直った。
「……封印を裂くよ」
「あなた……」
ルセリアの声は低い。
「何をしたの」
「取引の二つ目をもらった」
「あなたは、あの子に何を背負わせるつもりなの」
「背負わせたのは、あの二人だよ」
アキは淡々と言った。
「僕は終わらせただけ」
「違うわ」
ルセリアの銀の瞳が、アキを射抜く。
「この子がここへ来たのは、偶然ではないのね」
アキは答えなかった。
ルセリアの目が細くなる。
「……やはり、精霊ではないわね」
「今さら?」
「あなたは危険よ」
「知ってる」
アキは鉄格子へ手を伸ばした。
「でも、君を助けるにはちょうどいい」
青い拘束の光が、再び強くなった。
ルセリアの手足を縛る鎖。床に刻まれた魔法陣。壁にまで伸びる青い文字。
それらが一斉に光る。
まるで、アキを拒むように。
ルセリアが息を詰めた。
「無理に触れれば、反動が来る」
「来るだろうね」
「分かっているの?」
「もちろん」
アキは指先を青い光に差し入れた。
音がした。
ガラスが軋むような音。
青い文字が震え、鎖が鳴る。床の魔法陣から冷たい風が吹き上がった。
ユイの白い髪が揺れる。
アキは平然と封印に触れていた。
「この封印、出来がいいね」
「触るなと言ったでしょう」
「褒めてるんだよ」
アキは青い光の奥を見ていた。
「でも、持ち主が違う。君たちのものじゃない」
その言葉に、ルセリアの表情が変わった。
「あなた、何を見ているの」
「見えるものだけ」
「嘘ね」
「うん」
アキはあっさり言った。
そして、指先を横へ引いた。
青い光に、線が入る。
細い線だった。
その線から封印全体が裂け始めた。
鎖が軋む。
床の文字が一つずつ消えていく。
青い光が暴れ、壁を走り、鉄格子を震わせる。外へ広がる前に、アキの手元へ吸い込まれていった。
ルセリアの手首から、鎖が外れる。
足首の鎖も落ちる。
重い音が、地下に響いた。
ルセリアの身体が傾く。
ユイは鉄格子へ駆け寄った。
「ルセリアさん」
「来てはだめ」
ルセリアはそう言ったが、声に力はなかった。
アキが鉄格子に触れる。
格子が溶けるように消えた。
「はい、開いた」
軽い声だった。
ユイは中へ入った。
ルセリアのそばに膝をつく。彼女の身体は冷えていた。金の髪が頬にかかり、銀の瞳はまだアキを見ている。
「……あなたは、本当に何者なの」
「だから、アキだって」
「答えになっていないわ」
「よく言われる」
アキは指先に残った青い光を払った。
それから、ルセリアの胸元へ視線を落とす。
「さて。次は君の番だ、大主教さん」
ルセリアの表情が硬くなる。
「何をするつもり」
「君が守っているものを出してもらう」
地下の青い残光が、ゆっくり消えていく。
父と母は動かない。
兵も倒れたまま。
その中で、アキだけがいつもの調子で立っていた。
アキはルセリアへ手を伸ばす。
「大丈夫。壊しはしないよ」
その言葉が、なぜか一番信用できなかった。




