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神と悪魔と契約したら、世界が壊れかけました  作者: 0くるみ0


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第三話:願いに応じる魔導書

 床に落ちた魔導書には、文字がなかった。


 金具もない。古いのに、傷んでいない。黒い革は、月明かりの中でも光らなかった。


 ユイは本を拾った。


 重い。


 嫌な重さではない。手の中に収まると、かすかに温かかった。


「……あなたは?」


 表紙が、ひとりでに開いた。


 風はない。


 それでも頁がめくれる。


 暗室の埃が、ふわりと浮いた。


「やあ」


 声がした。


 ユイは本を落とさなかった。


 頁の上に、黒い髪の青年が座っていた。深い色の瞳。年は、十九ほどに見える。服装は、このあたりのものではない。


 青年は片手を上げ、気楽に笑った。


「こんばんは。ずいぶん遅かったね」


 ユイは本を見つめた。


「私を待っていたんですか?」


「そうとも言えるし、君が来たとも言える」


「分かりません」


「正直でよろしい」


 青年は頁の上で足を組んだ。


「僕はアキ。願いに応じる魔導書の精霊。今はそう名乗っておこうかな」


「今は」


「そこを拾うんだ」


「気になりました」


「いいね」


 アキは楽しそうに笑った。


「地下の大主教を助けたいんだろう?」


 ユイは黙った。


 まだ、その言葉を口にしていない。


 否定もできなかった。


「助けられるんですか?」


「できるよ」


 軽い返事だったが、迷いはなかった。


「本当に?」


「本当に」


「ルセリアさんは、普通の人間には無理だと言いました」


「うん。普通の人間には無理だね」


「鍵もありませんでした」


「ないだろうね。あれは鍵で開けるものじゃない」


 ユイは本を握る手に力を入れた。


「では、どうやって」


「壊す」


 アキはあっさり言った。


「封印は、開けるものばかりじゃない。裂くものもある。消すものもある。上書きするものもある」


「あなたには、それができますか?」


「できる」


 アキは頁の上から、ユイを見上げた。


「君が望むならね」


 ユイはアキの顔を見た。


 笑っている。軽い。


 なのに、できると言った声だけは揺れなかった。


「代わりに、何が必要ですか?」


「取引だ」


 アキは言った。


「条件は二つ」


「二つ」


「一つ。僕を手放さないこと。君が生きている限り、この本を持っていく」


「この本を、ですか」


「そう」


「もう一つは?」


「地下で分かる」


 ユイは眉を動かした。


「分からないまま、頷けということですか?」


「嫌なら、ここで本を閉じればいい」


 アキの声は変わらなかった。


「その場合、僕は何もしない。地下の大主教がどうなるかも、君が明日どうなるかも、僕は知らない」


「……」


「でも、君は助けたい」


 アキは首を傾げた。


「違う?」


 ユイは答えなかった。


 ユイは本を閉じなかった。


「ルセリアさんを助けられますか?」


「助けられる」


「なら、お願いします」


「決まり」


 アキが指を鳴らした。


 音は小さい。


 魔導書の頁に、黒い文字が浮かぶ。読めない文字だった。ユイの胸元に細い糸が結ばれたような感覚があった。


 痛みはない。


 その糸が、魔導書の奥へ沈んだ。


「これで、取引は始まった」


「今ので?」


「うん。簡単でしょ」


「簡単すぎます」


「時間がないからね。簡単な方がいいでしょ」


 アキはそう言い、魔導書の中へ半分ほど沈んだ。


「行こうか。時間がない」


「地下へ?」


「もちろん」


 ユイは魔導書を抱えた。


 ユイは暗室を見回した。ほかに持てるものはなかった。


 魔導書はある。


 それが何なのか、まだ分からない。


 礼拝室へ戻り、壁を閉じる。廊下に出ると、遠くで兵の声がした。


 地下への扉の前には、兵が二人いた。


 今夜は眠そうではない。片方は扉の前に立ち、もう片方は廊下の奥を見ている。


 ユイは柱の陰で足を止めた。


「どうしますか?」


「正面から行こうか」


 魔導書の中から、アキが言った。


「目立ちます」


「もうすぐ、もっと目立つよ」


「……それは困ります」


「困るのは向こうだと思う」


 次の瞬間、廊下の灯りが一つ消えた。


 続いて、反対側で何かが倒れる音がした。


 兵たちが振り向く。


「何だ?」


「見てくる」


 二人の視線が扉から外れた。


 ユイは動いた。


 扉へ近づき、身を滑り込ませる。


 背後で兵の声がした。


「今のは、あなたですか?」


「たまたまじゃない?」


「違うと思います」


「賢いね」


 アキはまるで悪びれていなかった。


 地下へ下りる。


 湿った石の匂い。焦げた匂い。青白い灯り。


 腕の中にある魔導書が、かすかに温かい。


 通路の奥で、鎖が鳴った。


 鉄格子の向こうに、ルセリアがいた。


 彼女は顔を上げ、すぐにユイの腕の中を見た。


「……それは何?」


「暗室で見つけました」


「ユイ」


 ルセリアの声が変わった。


「こちらへ近づけないで」


 ユイは足を止めた。


「危ないものですか?」


「分からない。けれど、近づけていいものではないわ」


 魔導書が開いた。


 頁の上から、アキが顔を出す。


「こんばんは、大主教さん。助けに来ました」


 ルセリアの鎖が、強く鳴った。


「ユイ、離れなさい」


「ルセリアさん?」


「それは精霊ではないわ」


 ルセリアはアキを見ていた。


 銀の瞳が、青白い灯りを受けて細く光る。


「嫌な気配がする。精霊のものではないわ」


「ひどいなあ」


 アキは肩をすくめた。


「でも、だいたい合ってる」


「ふざけないで」


「ふざけてはいないよ。時間がないからね」


 アキは頁の上から降りた。


 床に足が触れる。


 薄い影が、人の形を取っていく。黒い髪。深い色の瞳。平然とした顔。


 青白い灯りが、細く揺れた。


 ルセリアの表情がさらに厳しくなる。


「ユイ。その男のそばにいてはいけない」


「彼は、ルセリアさんを助けられると言いました」


「だから危ないのよ」


 ルセリアははっきり言った。


「私を封じているものは、普通の魔法ではない。それを簡単に解くと言うなら、なおさら近づいてはいけない」


「警戒は正しい。でも今回は、僕が必要だ」


 アキは頷いた。


「彼女が近づいたから、君は助かる」


「あなたは何者?」


「精霊」


「違うわ」


「じゃあ、悪魔」


「それも違う」


「注文が多いなあ」


「名前はアキ。それで十分」


 そう言って、鉄格子の前に立つ。


 ルセリアを縛る鎖が、青く光った。


 床の魔法陣が震える。


「触れないで」


 ルセリアが言った。


「下手に壊せば、あなたもユイも巻き込まれる」


「下手には壊さない」


 アキは鉄格子へ手を伸ばした。


「鍵はない。鍵穴もない。だから、これは開けるんじゃない」


 指先が、青い光に触れる。


「僕が裂く」


 その時、上の方で扉が開く音がした。


 足音が重なる。


 兵の声が聞こえた。


「地下に誰か入った」


「子爵様を呼べ」


 ルセリアが息を呑む。


「見つかったわね」


「遅いくらいだよ」


 アキは手を止めない。


 青い光が、指先の周りで歪んでいた。


 通路の奥に灯りが増える。


 兵が二人、走ってきた。


 続いて、父の声がした。


「ユイ」


 昼間の食堂と同じ声だった。だから、かえって遠く聞こえた。


 父が姿を現す。


 母もいた。


 母はユイを見ると、ほんの一瞬だけ目を見開いた。すぐに表情を戻す。


「こんなところで、何をしているの」


「ルセリアさんを助けに来ました」


「戻りなさい」


 父が言った。


「話は後だ」


「戻れば、ルセリアさんはどうなりますか」


「お前には関係ない」


「あります」


「ない」


 父の声が硬くなる。


「ユイ。お前は何も知らない。知らないまま、言われた通りにしていればいい」


「それは、嫌です」


 短い返事だった。


 母の顔が硬くなる。


「誰に何を吹き込まれたの」


「何も」


「では、なぜそこに立っているの」


「私が決めました」


 父はユイを見ていた。


 初めて、書類ではなく、はっきりとユイを見ていた。


「そうか」


 父が言った。


「なら、仕方ない」


 兵が剣に手をかける。


 ルセリアが鎖を鳴らした。


「やめなさい。その子は何も知らない」


「知った」


 父は短く答えた。


「見た。聞いた。ここまで来た。それで十分だ」


 母が顔を伏せる。


 止めはしなかった。


 ユイは父と母を見た。


 家族という言葉の置き場所が、分からなくなる。


「アキさん」


 ユイは魔導書を抱え直した。


「はい」


「取引の、もう一つの条件は何ですか」


 アキの口元が、わずかに緩んだ。


 先ほどまでの軽さとは違った。


「いい質問だ」


 通路の灯りが揺れる。


 父が手を上げた。


「捕らえろ」


 兵が動く。


 アキは青い光から手を離し、ユイの前へ出た。


「じゃあ、もう一つの条件をもらおうか」


 その声だけが、地下に響いた。

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