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鳥籠の令嬢は、神と悪魔を連れて世界の嘘を旅する ~政略結婚の前夜、地下牢で始まった神授物と邪教の巡礼譚~  作者: 0くるみ0
聖都編

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第二話:地下の大司教

 翌朝、ユイはいつもより早めに目を覚ました。


 侍女が来る前に身を起こし、机の引き出しを開けた。昨夜用意した紙と羽ペンは、そのまま入っていた。机の端には、小さな水筒と布袋も置いてあった。あとは食べ物だけだった。


 朝食の席で、ユイは小さく切ったパンを一つ残した。


 父の前には、帝国から届いた書類が広げられていた。母の視線も、食卓ではなく封蝋の印に向いていた。


 ユイは皿の端に置かれていた薄い布で、パンを包んだ。食欲がない日に、あとで部屋へ下げることは許されていた。今日は、誰もその理由を尋ねなかった。


 母は一度だけ、ユイの手元へ目を向けた。だが、叱責されることはなかった。


「ユイ」


 母が言った。


「はい、お母様」


「今日は午後から礼法の講義です。帝国の宮廷礼法も始めます」


「承知しました、お母様」


 母は扇を閉じ、家庭教師へ視線を送った。


 ユイは包みを膝の上で押さえた。パンは柔らかく、まだ少し温かい。


 講義は長かった。


 午前の講義では、ガイア帝国の宮廷席次について教えられた。皇室、四大公爵、古い軍家、新興貴族、鉱山を持つ家。名前はいくつも出たが、ユイが本当に知りたい名前は出てこなかった。


 皇室。


 父はそう言った。


 けれど、ユイが嫁ぐ相手の名前は、まだ聞かされていない。


「お嬢様?」


 家庭教師が声をかけた。


「はい」


「ただいまの箇所は、お分かりでしたか」


「帝国宮廷では、階位や軍功による席次と家格による席次が、別に扱われることがある、というお話でした」


「……その通りです」


 家庭教師は困ったように笑った。


「よくお聞きでしたね」


「はい、伺っております」


 昼の鐘が鳴った。


 午前の講義が終わると、ユイは部屋へ戻った。侍女が来る前に、紙と羽ペン、水筒、包んだパンを小さな布袋に入れた。外套の下に隠せる厚みだった。


 布袋は引き出しの奥へ戻した。持ち出すのは、夜になってからでいい。


 昼間に地下へ行くのは危ない。


 昨夜の兵たちは夜番だった。昼の交代がどうなっているのかを見なければ、夜にも動けない。


 ユイは廊下へ出た。


 昼の城では、いつも通りの務めが続いていた。侍女が洗濯物を運び、兵が窓の外を見回り、遠くの厨房から鍋の音が聞こえた。


 その中で、地下へ続く扉の前だけが浮いて見えた。


 見慣れない兵が二人いた。


 昨夜とは別の男たちだった。鎧の上からローゼンベルク家の外套を羽織っていた。襟元からのぞく革紐の結び方が家の兵とは違う。


 ユイは立ち止まらなかった。


 通り過ぎる時、目を向けた。


「お嬢様」


 兵の一人が頭を下げた。


 ユイは浅くうなずくだけで通り過ぎた。


 扉の隙間から、冷たい空気が流れていた。閉じ切っていない。誰かが出入りしたのだろう。


 昼間は無理だ。


 ユイはそのまま廊下を曲がった。


 午後の礼法は、いつもより細かかった。


 母は教師の横に座り、ユイの手の角度や視線の置き方を見ていた。茶器を持つ。置く。礼をする。沈黙する。言葉を選ぶ。


「帝国では、ただ黙るだけでは足りません」


 母が言った。


「黙っている理由も見られます」


「はい」


「分かっていますか?」


「承知しております」


「言葉だけでは足りません」


「心得ます」


 母はユイを見たが、それ以上は言わなかった。


 夕方。


 ユイは書庫へ行った。


 地下へ向かうには早い。兵もまだ起きていた。だから、時間まで本を読むことにした。


 今日はルミナリアの地誌を取った。


 神聖法王領ルミナリア。聖都セラフィア。白き巨塔ゼニスクライム。大聖堂。鐘楼。巡礼者の通り。香油を売る市。水路。


 地図の上の文字は、今までと同じだった。


 昨日、ルセリアが言った。


 外の世界は広い。


 綺麗な場所も、ひどい場所もある。


 ユイは本の頁をなぞった。


 セラフィアの欄には、白亜の都市と書かれていた。石と祈りの都。神の秩序に最も近い場所。


 秩序。


 その言葉だけが、ユイの指を止めた。母の口から何度も聞いた言葉と同じなのに、本の中では、見たことのない街を指している。


 ユイは、その一語を紙の端に写した。


 地誌を棚へ戻す時、奥の段に挟まっていた城の古い図面が目に入った。


 地下へ続く扉と、使われていない区画だけを急いで写した。使うかどうかは分からなかったが、何も知らないよりはよかった。


 夜になるまで、ユイは待った。


 夕食後、いつも通り部屋へ戻り、侍女が扉を閉めた。廊下の足音が遠ざかった。表の灯りが落とされ、夜番の灯りだけが廊下に残った。


 ユイは外套を羽織り、白い髪を隠す薄布をかぶってから、布袋を手に取った。


 昨夜と同じ道を歩いた。


 違っていたのは、扉の前に立つ兵が一人だけに見えたことだった。通路の奥の角には、もう一つ影があった。昨夜の印が引き継がれたのだろう。封印灯の横には、警戒を示す小さな青い印が一つ増えていた。


 ユイは柱の陰で待った。


 兵は眠そうではなかった。腰の剣に手を置き、廊下の奥を見ていた。昨日より通りにくい。


 その時、階段の上から声がした。


「交代だ」


 兵が顔を上げた。


「遅いぞ」


「上で呼び止められた。中の様子は?」


「変わらん。例の囚人は黙ったままだ」


「封印符の照合は?」


「夜番に替わる前だ。子爵様の印が入った封符で照合する」


 夜番に替わる前。


 その言葉だけが、耳に残った。


 二人の兵が短く言葉を交わした。互いの封印符を照合する間だけ、扉の前から視線が外れた。


 二人の影が扉の縁を横切った。青い紋が一瞬弱まったのは、その同じ時だった。封印灯が低く鳴り、ユイはその音に足音を重ねた。


 ユイは動いた。


 扉を細く開け、静かに中へ入った。昨夜より早く閉めた。かすかな軋みは、封印灯の低い鳴りに紛れた。


 地下は昨夜と同じ匂いがした。湿った石と古い水の匂いに、焦げた匂いが混じっていた。壁には青白い灯りが揺れていた。


 通路の奥で、鎖がかすかに鳴った。


 鉄格子の向こうで、ルセリアが顔を上げた。


「……来たのね」


「はい」


「来ない方がいいと言ったはずよ」


「紙と羽ペンを持ってくる約束でした」


「約束はしていないわ」


「必要だと言われました」


 ユイがそう答えると、ルセリアの眉がわずかに下がった。


「芯が強いのね」


「強いわけではありません」


「そう」


 ルセリアは鉄格子の奥から、ユイを見た。


 昨日より顔色が悪く、唇も乾いていた。それでも姿勢は崩れていなかった。鎖は両手首と両足首に繋がれ、床の魔法陣へ伸びていた。青い文字が時折光った。


 ユイは布袋を開けた。


「水です。あと、パンを少し」


「……持ってきたのね」


「はい」


「見つかれば、言い訳できないわよ」


「そうですね」


「人ごとのように言うものではないわ」


 ルセリアの声はかすれていたが、叱る調子ははっきりしていた。


 ユイは鉄格子の隙間から水筒を差し入れようとした。ルセリアの手は鎖で届かない。


 鎖は手足を床へ留めていたが、上体を少し前へ傾ける余地はあった。


 ユイは水筒の栓を外して、布を細く丸めた。水を含ませ、鉄格子の間から伸ばした。


「これなら」


 ルセリアは一瞬だけユイを見た。


 それから、布に口をつけた。


 水は少しずつしか飲めない。それでも、ルセリアは短く息をついた。


「ありがとう」


「パンもあります」


「それは無理ね」


 ルセリアは自分の手首を見た。


「手が使えないわ」


「では、ちぎります」


 ユイはパンをちぎった。指先ほどの大きさにして、鉄格子の隙間から差し入れた。


 ルセリアは困った顔をした。


「……無茶をするわね」


「危ないことは、しないようにします」


「あなたはもう、危ない場所にいるわ」


 そう言いながら、ルセリアはパンを口にした。


 急げば、布が格子に擦れる。


 ユイは音を立てない速さで動いた。パンを数口分だけ渡し、水を含ませた布をまた差し出した。長く続ける余裕はない。ルセリアは何度か断ろうとしたが、最後にはいくらか口にした。


 それだけでも、ルセリアの顔に血の気がほんの少し戻った。


「紙と羽ペンは?」


「あります」


 ユイは紙と羽ペンを取り出した。紙は格子の下から内側の床へ滑らせ、羽ペンだけを隙間から入れた。


 ルセリアは内側の床に滑り込んだ紙を見た。


「手は動かせないわ。でも、この鎖の内側で、床の紙の上の羽ペンを少し滑らせるくらいなら、まだできる。あなたがあとで読み返せるように、名だけ残すわ」


「どうやって?」


「遠くへは届かない。鎖の留め具にも、格子の外にも触れられない。長くは続かないけれど」


 次の瞬間、床の魔法陣の青い文字がかすかに強まり、ルセリアは浅く息を吐いた。


 羽ペンがわずかに動いた。


 誰も触れていない。


 ペン先が紙の上を滑り、短い線を引いた。速くはない。途中で止まり、そのたびに鎖が細く鳴った。


 セラフィア。


 ユイはその文字を読んだ。


「聖都ですか?」


「そう。あなたが本で読んだルミナリアの首都」


「白い街だと書いてありました」


「本当よ。白い石でできた建物が多いわ。朝は眩しいくらい。雨の後は、街全体が洗われたみたいに光る」


 羽ペンがまた動いた。


 塔。


 鐘。


 水路。


 短い言葉が並んでいった。


「鐘は、どんな音ですか?」


「場所によるわ。大聖堂の鐘は低く、遠くまで響く。市場の鐘は軽い音がする。朝の鐘で店が開き、夕方の鐘で祈りが始まる」


「祈りは、皆がするんですか?」


「する人もいる。しない人もいる。祈りのふりだけ上手な人もいるわ」


「ふり」


「ええ。世界には、そういう人もいる」


「けれど、人を支えて生きる者も多いわ。夜明け前からパンを焼く者、巡礼者に水を分ける子、迷った旅人を神殿まで送る老人。聖都は、祈りだけでできているわけではないの」


 ユイは紙の文字を見た。


「人の暮らしがあるんですね」


「そう」


 ルセリアは笑った。


「あなたは、そういうことの方を聞きたがるのね」


「はい」


「この地下のことや、大司教がなぜ捕まったかではなく?」


 ユイはルセリアを見た。


「聞いても、教えてくださらないでしょうから」


「賢いのね」


「それに、今は街の話が聞きたいです」


「どうして?」


「ここを出る前に、行き先があると知っておきたいからです」


 ルセリアは黙った。


 青白い灯りが、彼女の銀の瞳に映った。


「……あなた、本当に何も知らないのね」


「はい」


「それなのに、怖がらない」


「怖がる理由を、まだよく知りません」


「知れば、怖くなるわ」


「そうかもしれません」


「それでも知りたい?」


「はい」


 ルセリアのまなざしが、やわらいだ。


「昨夜、あなたに悪意も偽りもないことは見たわ」


 ユイは自分の手を見た。


「ありましたか?」


「なかったわ」


「そうですか」


「人は、多かれ少なかれ、隠したいものを持つわ」


「誰でも、ですか?」


「ええ。濁りのない心ほど、危ういこともある」


 ルセリアはそこで言葉を切った。


「だから、あなたはここにいない方がいい」


「それは、悪意も偽りもなかったからですか?」


「そうよ」


 ユイには分からなかった。


 悪意も偽りもないなら、危なくないのではないか。


「私にできることはありませんか?」


 ユイは尋ねた。


 ルセリアはすぐには答えなかった。


 鎖が小さく鳴った。


「今のあなたには、できることは少ないわ」


「はい」


「それでも、あなたが持ってきた水は助かった」


「それは、できることですか?」


「ええ」


 ルセリアは、鎖をわずかに鳴らして指先を持ち上げた。


「でも、私を助けようと考えてはいけない」


「なぜですか?」


「あなたが弱いから」


 厳しい言い方だったが、冷たさはなかった。


「あなたが、よく分からないまま、私たち大人が招いた罪に関わる必要はないわ。巻き込まれているだけなのだから。離れられるなら、離れなさい」


「半年後には、帝国へ行きます」


「それは離れるとは言わない」


「そうですか」


「そうよ」


 ルセリアは息を整えた。


「あなたの父母が何をしているのか、私はまだ全部は知らない。でも、危険なものに関わっている。知らない方がいいこともあるわ」


「知らない方がいいこと」


「あるわ」


「でも、知らないまま行けば、選べません」


 ルセリアは言葉を止めた。


 ユイは続けた。


「お父様とお母様は、私の行く場所を決めました。私は、それが悪いことかどうかも分かりません。分からないままなら、はい、としか言えません」


「……」


「だから、知りたいです。全部ではなくても」


 鎖の音だけが残った。


 ルセリアはすぐには答えなかった。


「では、今話せることだけ」


 やがて、ルセリアは言った。


「では、街の話をしましょう」


 ルセリアは扉の方へ一度だけ目を向け、声を落とした。


「長くは話せないわ。名だけは残す。あなたは、必要なことだけ聞き留めなさい」


「はい」


「聖都には、大きな図書館があるわ」


 ユイは顔を上げた。


「図書館」


「好き?」


「はい」


「その返事だけで分かるわ」


「そうですか?」


「ええ」


 ルセリアは笑った。


 遠くで水の落ちる音がした。ルセリアは一拍だけ黙り、また羽ペンへ目を戻した。


 羽ペンがまた動いた。


 図書館。


 回廊。


 書架の並び。


 ルセリアは長く語らなかった。短い言葉だけを選ぶように続けた。


「高い書架の上段は、書架用の梯子を掛けないと届かない。古い神学書の棚は少し埃っぽくて、地誌の棚は学び手がよく使うから綺麗よ。窓際の席は、昼になる頃には塞がっていることが多いわ」


「座る場所にも、好みがあるのですね」


「日当たりがいいの。冬は特に」


「本は、自由に読めますか?」


「学び手ならね。もちろん、閲覧に許しが要る書もあるけれど」


「許しが要るのですか」


「危険な書は、誰にでも開かせるわけにはいかないわ」


 ルセリアはそこまで言って、肩をすくめた。


「今のあなたには、まず地誌からで十分」


「ルミナリアの地誌は読みました」


「全部?」


「城の書庫にある分は」


「……そう」


 ルセリアは目を見開き、すぐに表情を戻した。


「なら、次は人の暮らしを書いた本ね。地誌は場所を教えてくれる。旅行記や日誌なら、そこで暮らす人のことも分かる」


「人の暮らしが分かる本があるんですか?」


「旅行記、日誌、商人の記録、巡礼者の手紙。形式はいろいろよ」


「読みたいです」


「あなた、本が好きなのね」


「見たことのない場所へ、少しだけ近づける気がします」


「本だけでは、足りないわ」


「はい。だから、見たいです」


 ルセリアは格子の向こうで口元を和らげた。


「いつか見られるといいわね」


「はい」


 ユイはそう答えた。


 その時、上の方で扉が開く音がした。


 ルセリアの目が上の扉へ跳ねた。


「誰か来る」


 ユイは紙と羽ペンを取った。水筒をしまい、残ったパンの包みを布袋に戻した。


「待って」


 ルセリアが言った。


 羽ペンが急いで動いた。


 紙の端に、短い言葉が残った。


 逃げなさい。


「私を助けることより、自分が逃げられる道を考えなさい」


「逃げ道、ですか」


「私はこの城を知らない。隠れる場所も、外へ出る道も、あなたの方が分かるはずよ」


「それを調べれば、助けられますか?」


「助けようとしてはいけないと言ったでしょう」


「では、何のために?」


「あなたが生きるためよ」


 足音が近づいていた。


 ユイは紙を胸元へしまった。


「また来ます」


「夜番に替わる前、私は運び出されるかもしれない」


 ユイの手が止まった。


「夜番に替わる前、ですか」


「兵が封印符を照合する時刻を話していたのでしょう?」


「聞こえていましたか?」


「少しだけ」


 ルセリアは疲れた顔で笑った。


「この鎖で、耳まで塞がれているわけではないわ」


「……はい」


「だから、来ない方がいい」


「でも」


「ユイ」


 初めて、ルセリアが名前を呼んだ。


 強い声ではなかった。


 ユイは口を閉じた。


「あなたは生きなさい。何も知らないまま、ここで消える必要はない」


「私は、何も知らないままでいたくありません」


「知りたいのなら、まず生き延びなさい」


「はい」


「分かっていないわね」


「まだ、分かっていません」


 ルセリアは鎖の音が出ないよう、指を止めた。


「本当に正直ね」


 足音はもう、牢へ続く曲がり角の手前まで迫っていた。


 ユイは鉄格子から離れた。


「行きます」


「ええ」


「水筒は、また持ってきます」


「来ない方がいい」


「でも、水は必要です」


 ルセリアは何か言いかけ、結局、言わなかった。


 ユイは通路を戻った。


 途中で、壁の青白い灯りが揺れた。誰かが近づいてきた。足音は二人分。片方は重く、片方は軽い。


 ユイは古い水路管の裏、石組みが内側へ崩れてできた低い窪みに身を押し込んだ。立ったまま隠れる場所ではない。膝を折り、頭の薄布を管の影へ寄せ、布袋が石に当たりかけたところで息を止めた。


 床の中央を流れる青い封印光は、窪みの奥までは届いていない。足を止めて屈み込まれれば終わりだが、奥の牢へ急ぐ者が歩きながら見る高さでは、古い管の影にしか見えない。


 靴底が石床をかすめた。


 かすかな擦れ音は、通路の向こうで跳ねた水音に呑まれた。壁の灯りも一段暗くなり、通路の奥でだけ青白く揺れた。


 兵たちは地下へ急ぐ足を止めなかった。侵入者を探している目ではなく、揺れた灯りの先、奥の牢へ向かう目だった。


「まだ黙っているなら、子爵様が来る前に一度口を割らせるか」


「命令は生かしておけ、だ。余計なことはするな」


「分かっている」


 声が遠ざかった。


 ユイは待ってから、階段を上がった。


 扉の外、封印盤の前には人影がなかった。奥へ下りた兵たちの声だけが、まだ石壁に残っていた。今なら戻れる。


 ユイは廊下へ出た。


 何事もなかったように歩いた。


 部屋へ戻るまで、誰にも呼び止められなかった。


 扉を閉めると、手の中の紙が湿っていた。強く握りすぎていたらしい。


 ユイは机に紙を広げた。


 ルセリアの字は細く、ところどころ乱れていた。それでも読めた。


 セラフィア。


 塔。


 鐘。


 水路。


 図書館。


 逃げなさい。


 最後の文字は、少し乱れていた。


 逃げ道。


 ユイは引き出しから、城の古い図面を取り出した。


 書庫から写したものだ。ローゼンベルク家の城は何度も増築されてきた。新しい図では、地下の一部がただの壁になっていた。古い図には、そこに細い通路があった。


 昨夜の階段。


 今日の通路。


 鉄格子。


 ユイは紙の上に指を置いた。


 助けようとしてはいけない。


 ルセリアはそう言った。


 けれど、夜番に替わる前に運び出されるかもしれない。


 運び出されたら、もう会えない。


 何か、あの鎖に触れる方法が必要だ。


 普通の人間には無理だと、ルセリアは言った。


 なら、普通の鎖ではないものに届く手段を探すしかない。


 城には使われていない部屋があった。古い礼拝室。閉ざされた倉庫。父の書斎の奥。図面の空白。


 ユイは紙を折り、外套の内側にしまった。


 窓の外は暗い。城壁の向こうには、夜の空が広がっていた。


 ユイは灯りを消した。


 眠るためではなかった。


 廊下の見回りが一巡し、次の足音が戻るまでの短い隙を待つためだった。


 足音が角を曲がるとすぐ、ユイは図面を持って部屋を出た。


 まず向かったのは、古い礼拝室だった。


 書庫で写した図面では、礼拝室の奥に小さな部屋がある。今の城の図では、そこはただの壁になっていた。


 父が何かを隠すなら、そこかもしれない。


 礼拝室の扉は閉まっていた。


 錠前には、古い封鎖符が重ねて貼られていた。父の書斎や地下の扉で見たものほど強くはない。宝物庫を守る符ではなく、家人を近づけないための、長く放置された封鎖に見えた。


 ユイが手を伸ばす前に、封鎖符の青い線が一瞬だけ暗くなった。


 錠前の奥で、かちり、と小さな音がした。


 ユイは息を止めた。鍵は持っていない。けれど扉は、押す前から内側へ引かれたように、わずかに開いた。


 開いた、というより、通されたようだった。そう感じるほど、手応えがなかった。


 古い木が、かすかに鳴った。


 中は暗かった。


 長椅子には白い布がかけられ、祭壇には埃が積もっていた。壁には古い聖印が残っていた。細い窓から月明かりが入り、床に斜めの線を作っていた。


 ユイは祭壇へ近づいた。


 棚を開け、祭壇の下を覗き、壁のくぼみを探した。古い燭台。破れた祈祷書。使われていない香炉。どれも違った。


 図面では、奥に部屋がある。


 なら、仕掛けがあるはずだった。


 ユイは壁に手を当てた。


 石は冷たい。


 一つだけ、古い聖印の欠けた先で月明かりが止まっていた。そこだけ、石の継ぎ目がわずかに浮いていた。


 ユイが指を当てると、奥で乾いた音がした。


 力を込める前に、石がかすかに沈んだ。


 祭壇の横で、壁が開いた。


 細い通路が現れた。


 ユイは短く息を吸い、通路へ入った。


 中は狭い。足元には古い埃が積もっていた。壁を手でたどりながら進むと、小さな部屋に出た。


 窓のない隠し部屋だった。


 棚がいくつも並び、布をかけられた箱が置かれていた。古い剣、割れた聖具、黒ずんだ燭台。宝をしまう場所ではない。役目を終え、捨てることもできないものが押し込められていた。


 ユイは箱を開けた。


 あの鎖に触れられそうなものはない。


 ユイは次の箱へ手を伸ばした。


 その時、背後で、古い封鎖符が裂けるような音がした。


 棚の奥で、布の下に隠れていた封印環が一つ割れ、何かが落ちた。


 ぱさり、と乾いた音がした。


 ユイは振り返った。


 床に、一冊の本が落ちていた。


 箱の中には入っていなかったはずの本だった。


 探し当てた、という感じではない。暗い棚の方が先に、ユイへ差し出したように見えた。


 黒い表紙の魔導書だった。

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