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鳥籠の令嬢は、神と悪魔を連れて世界の嘘を旅する ~政略結婚の前夜、地下牢で始まった神授物と邪教の巡礼譚~  作者: 0くるみ0
聖都編

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第一話:鳥籠の城

 ローゼンベルク子爵家の城は、いつも静かだった。


 その日だけ、地下から小さな金属音が聞こえた。


 身支度の間も、その響きは消えなかった。


 侍女たちはそれを口にしなかった。聞こえないふりをして、いつも通り手を動かしていた。


 いつもの時刻になると、侍女がカーテンを開ける。白い光が部屋に入り、磨かれた床に細く伸びる。銀の水差し、淡い花、整えられた衣装。毎日、同じ順番で一日が始まる。


 ユイ・オデット・ローゼンベルクは、鏡の前に座っていた。


 肩よりやや長い白い髪を、侍女が丁寧に梳いていく。髪は光を受けると、淡く透けるように見えた。鏡の中の瞳は、白に近い淡い銀色だった。色がないのではない。雪明かりのような、薄い光を宿していた。


「お嬢様、本日は午後、旦那様がお茶の席へお呼びです」


「分かったわ」


 ユイの返事は短かった。


 侍女は慣れた手つきで髪をまとめる。鏡の中で、白いリボンが結ばれていく。


「少し痛いわ」


「申し訳ございません」


「毛先から、少しずつ梳いて」


 侍女が慌てて手を緩める。ユイはそれ以上何も言わなかった。


 朝食は、いつも通り食堂で取った。


 長い卓の端に、ユイの席がある。父と母の席は遠い。食器の音は小さく、会話も少ない。父は書類を読みながら食事をし、母の目はユイの姿勢と服装に向いていた。


「ユイ」


 父が書類から目を上げずに言った。


「はい、お父様」


「帝国から正式な返答が来た。半年後、お前はガイア帝国へ向かう」


 ユイの手元で、ナイフの刃が止まった。


「ガイア帝国、ですか」


「ああ。皇室だ。悪い話ではない」


 父はそう言った。


 母も柔らかく言った。


「あなたはもう十六歳です。子爵家の娘として、きちんと役目を果たしなさい」


「はい」


 ユイはナイフを置いた。


 持ち手に、指先が触れたままだった。


 ガイア帝国。


 その名は地図で見たことがある。南にある大国。鉱山と軍で知られ、帝都には赤銅色の石で造られた皇宮がある。書庫の地誌には、そう書かれていた。


 けれど、ユイは行ったことがない。


 城の外にある街にさえ、ほとんど出たことがなかった。


「何か言いたいことはあるか」


 父が聞いた。


「いいえ」


 帝国はどんな場所なのか。皇室にいる相手とは、誰なのか。そこへ行けば、自分は何をするのか。


 父は書類を閉じなかった。母の指は、まだ茶器の縁に添えられていた。


 ユイは言葉を飲み込み、スープを口に運んだ。


 スープは、いつものように味が薄かった。温かいはずなのに、食卓の空気は変わらない。


 午前の授業は礼法と歴史だった。


 年配の家庭教師は、少しかすれた声で、貴族の系譜と帝国との古い条約について話した。ユイは椅子に座り、要点を紙に書き留める。


「ローゼンベルク家が現在の領地を得たのは、三代前の――」


「エルハルト・ローゼンベルクの時代です」


 ユイが言うと、家庭教師は一度言葉を止めた。


「……その通りです。よくお覚えで……」


 家庭教師は、言葉を探すように手元の資料へ目を落とした。


「前回、そう教わりました」


「それはそうですが、そこまで細かなところを覚えておいでになる方は、そう多くはございません」


「そうですか」


 ユイは自分の手元を見た。


 家庭教師は苦笑し、授業を続けた。


 午後になると、ユイは父の書斎へ呼ばれた。


 書斎には重い匂いがあった。紙、革、古い木、火の入っていない暖炉の灰。窓はあるが、厚いカーテンが半分ほど閉じられているため、部屋の中は昼でも薄暗い。


 父は机の向こうに座っていた。母も横にいる。


「帝国へ行く前に、お前にはもう少し社交を学ばせる」


「はい」


「帝国の宮廷では、この城の中のようにはいかない。発言、沈黙、視線、席順。すべてに意味がある」


「覚えます」


「覚えるだけでは足りない」


 父の声は硬かった。


「不手際は許されん」


 ユイは父を見た。


 父はユイを見ていなかった。机の上の書類へ目を落としていた。その書類には、赤い封蝋が押されていた。翼を広げた獅子に似た紋章。おそらく、ガイア帝国のものだ。


「承知いたしました、お父様」


 ユイは答えた。


 不手際を起こさずに振る舞うことなら、ユイにもできる。決められた形式を覚え、相手の言葉を聞き、場に合わせて動けばいい。


 教えられていない場所では、何を見ればいいのだろう。


 書斎を出ると、廊下は冷えていた。


 城は石でできている。夏の初めでも、奥まった廊下には冷気が残る。壁には先祖の肖像画が並び、どの顔も似たような目でこちらを見ていた。


 ユイは歩きながら、ふと足を止めた。


 廊下の奥。


 普段は使われない扉の前に、見慣れない兵が立っていた。


 鎧はローゼンベルク家のものではない。上から家の外套を羽織っているが、立ち方が違う。城の兵より、周囲へ油断なく視線を配っていた。


 ユイが見ていることに気づくと、兵は軽く頭を下げた。


「お嬢様」


 ユイは浅くうなずき、そのまま通り過ぎた。


 扉の向こうで、かすかな金属音がした。ユイは足を止めず、その音を頭の隅に留めた。


 その日の夕方、ユイは書庫へ行った。


 ローゼンベルク家の書庫は広くはない。子爵家として必要な本は揃っている。家系記録、領地台帳、周辺国の地誌、礼法書、古い神学書。窓が小さく、昼でも机の上に灯りが置かれていた。


 ユイは地誌の棚から、ガイア帝国に関する本を取った。


 帝都グランディア。赤銅の皇宮。乾いた風。鉱脈。帝国騎士団。南方交易路。


 頁をめくるたび、知らない言葉が増えていく。


 知らない言葉を一つずつ拾っていく時間だけは、息がしやすかった。


 ユイは本を読みながら、昼に見た兵のことを思い出した。


 城の外の兵。


 普段使われない扉。


 金属音。


 あの先に何があるのか。


 ローゼンベルク家の地下には、古い貯蔵庫と、使われなくなった礼拝室があると聞いている。城の見取り図にもそう記されていた。その一部には、不自然な空白があった。


 ユイは本を閉じた。


 その先を見てみたい。


 夜。


 夕食の後、ユイは部屋へ戻った。


 侍女が寝支度を整え、灯りを落とす。いつもの時間に、いつものように扉が閉まる。


 ユイはベッドに入った。


 そのまま、しばらく待った。


 廊下の足音が遠ざかった。夜番の兵が角を曲がった。窓の外で風が鳴っていた。城の夜には音が少ない。だから、一つひとつの音がよく分かった。


 十分ほど経ってから、ユイは身を起こした。


 薄い上着を羽織り、灯りは持たなかった。月明かりだけで十分だった。扉を、蝶番が鳴らない角度で、ゆっくりと細く開けた。以前、夜中に侍女を呼ばずに廊下へ出た時に覚えた。


 廊下に出た。


 白い髪が目立たないよう、頭から薄布をかぶった。


 昼より足音が響いた。人の気配が消えると、石の冷たさが目立つ。ユイは足音を抑え、昼に見た扉の方へ向かった。


 兵は一人ではなかった。


 二人。


 昼の男と、もう一人。話し声は小さい。


「……明日の夜番で、預かり物を移す」


「地下の件は?」


「まだ口を割らない。命じた連中からは、生かしておけとのことだ」


「厄介な預かり物だな」


「箱の件さえ片づけばいい。あとは命じた連中が決める」


 ユイは柱の陰で止まった。


 地下の件。


 箱。


 帝国から届いた婚約話。


 直接の名は出ていない。それでも、ユイは三つの言葉だけを順に胸の奥へしまった。


 どれも、ユイにとっては書庫の本や食卓の向こうにある言葉だった。


 兵の一人が短く息を吐いた。


「交代までまだある。奥の封印灯を確認してくる」


「扉は俺が見る。長くは外すな」


「内側だけ見て戻る」


 一人が廊下の奥へ歩いていく。


 残った兵は扉の脇に立った。さっきまで警戒していた目の焦点が、わずかに鈍った。兜の下で、何度も目を瞬かせていた。


 ユイは待った。


 焦りはなかった。


 どうすれば通れるかだけを考えた。


 廊下の先に、古い燭台があった。ユイの足元には、古い布切れと、石片のようなものが一つ落ちていた。


 磨かれた廊下にそんなものがあるのは、不自然だった。石片の端には、扉の縁を走る紋と同じ青い粉がついていた。


 けれど、今は考える時間がない。


 ユイはそれを拾い、燭台の方へ投げた。


 かつん、と音がした。


 兵が顔を上げた。


「誰だ」


 兵は扉から大きく離れなかった。剣に手をかけたまま、音の方へ半身を向けた。


 音がした瞬間、扉脇の封印灯の青い光まで一瞬だけ弱まった。石片の音だけで起きることではない、とユイにも分かった。けれど、兵は先に舌打ちし、腰の封印符を抜いて、封印盤の方へ向き直った。目は扉そのものではなく、弱まった灯と符号に落ちていた。


 ユイは壁際の影に寄り、足元に残った布切れを避けて、磨かれた床の端へ静かに足を置いた。足音は、封印灯の低い唸りに紛れた。


 その間に、ユイは扉へ近づいた。外側には、錠前も鍵穴も見当たらなかった。扉の縁には細い青い紋が走っていたが、今は火が落ちた後の線のように暗かった。取っ手は周囲の石よりわずかに温かかった。人の手の温度ではなかった。青い紋の熱が、金具の奥に残っているようだった。


 ユイが取っ手に手をかけると、青い紋がさらに暗くなった。押し返される感触はなかった。封印灯の低い唸りが、扉のかすかな軋みを呑んだ。ユイは扉を細く開け、静かに中へ入った。


 中は階段だった。


 下へ続く石段。空気が冷たい。


 ユイは扉を引き戻した。外からは閉じて見える位置まで戻し、戻る時に音が出ないよう、内側の留め金だけは落とさなかった。


 階段を下りた。


 湿った石の匂い。古い水の匂い。火を使った後の焦げた匂いも混じっている。


 下りきった先に、細い通路があった。


 壁には灯りがある。青白い火。普通の蝋燭ではない。魔法の灯りかもしれない。ユイは神学書で似た絵を見たことがあった。


 通路の奥から、鎖の音がした。


 小さく、重い音。


 ユイは歩いた。


 自分で選んだのか、何かに呼ばれたのか。


 ユイには、どちらとも言えなかった。


 隠されているなら、理由がある。

 何も知らないまま帝国へ行くことだけは、受け入れられなかった。


 通路の突き当たりに、鉄格子があった。


 その向こうに、人がいた。


 女性だった。


 床に座り、手足を鎖で繋がれている。衣服は汚れているが、姿勢は崩れていなかった。金の髪が肩に落ち、薄暗い灯りの中でもかすかに光を帯びていた。顔を上げた瞬間、銀色の瞳がユイを見た。


 疲れも傷も見える。


 それでも、その銀の目は強い光を失っていなかった。


「……誰?」


 女性の声はかすれていた。


 それでも、言葉の端は乱れない。


 ユイは鉄格子の前で止まった。


「ユイ・オデット・ローゼンベルクです」


 銀の瞳が、わずかに細くなった。


「ローゼンベルク……子爵家の娘ね」


「はい」


「ここへ来るよう命じられたの?」


「いいえ」


「では、どうして」


 ユイは考えた。


 嘘をつく理由はない。


「隠されている理由を、確かめたかったのです」


 女性は、ほんの一瞬だけ言葉を失った。


 それから、かすかに笑う。


「それだけで、地下牢まで来たの?」


「はい」


「危ういことをするのね」


「ただの通路ではないとは思いました」


「なら、戻りなさい」


 女性はすぐに言った。


「ここは、あなたが来ていい場所ではないわ」


「あなたは、ここにいていい人ですか?」


 ユイが尋ねると、女性は言葉を止めた。


「……いいえ」


「では、戻る前に教えてください。あなたは誰ですか?」


 女性はユイを見つめた。


 白い髪。


 白に近い瞳。


 夜の地下に立つ、子爵家の娘。


 鉄格子の向こうで、鎖に刻まれた青い文字が一つだけ淡く明滅した。女性は息を詰めた。


 淡い光が、格子の隙間を抜けてユイの指先に触れた。


 床の魔法陣の青い文字が鋭く光り、女性の肩がかすかに揺れる。光はすぐに消えた。


「今のは?」


「悪意や偽りを抱えて来た者かどうか、少しだけ確かめたの」


「ありましたか?」


「少なくとも、探りに来た者の気配ではなかったわ」


 やがて、女性は名乗った。


「ルセリア・ソルヴィエル・オーレクロフト。神聖法王領ルミナリアの大司教よ」


 大司教。


 兵たちが伏せていた地下の件は、やはり彼女のことだった。


 ユイはその名を頭の中で繰り返した。ルセリア・ソルヴィエル・オーレクロフト。ルミナリアの大司教。金の髪。銀の瞳。鎖。地下。


「大司教様が、なぜここに?」


「それを知れば、あなたも危なくなる」


「聞かなければ、何を避ければよいのか分かりません」


「そういう意味ではないわ」


 ルセリアは眉を寄せた。


 その目は、ユイを鉄格子から一歩離れさせようとしていた。


「あなたの家は、一介の子爵家が立ち入るべきではない領域に手を染めている。あなたが何も知らないなら、そのまま知らない方がいい」


「知らないまま、半年後に帝国へ行くことになっています」


 ユイが言うと、ルセリアの鎖を握る指が止まった。


「政略結婚?」


「たぶん、そうです」


「たぶん?」


「悪い話ではない、と言われました」


「……そう」


 ルセリアは鎖へ視線を落とした。


 銀の瞳が、床の鎖の上でしばらく止まる。次の言葉は、すぐには出てこなかった。


「帝国へ送られる話が、この地下と無関係とは限らないわね」


 低い声だった。


「あなたは、それを知って来たの?」


「分かりません。ただ、何も知らないまま行くことだけは、受け入れられませんでした」


 ユイは、帝国の名も、兵たちが伏せた言葉も、いったん胸の奥へ置いた。


 知らないまま送られるなら、まず、城の外がどんな場所なのかを聞かなければならない。


「外の世界は、どんなところですか?」


 ユイは尋ねた。


 ルセリアは目を上げる。


「外?」


「はい。城の外です。ルミナリアも、ガイア帝国も、地図では見ました。でも、実際に見たことがありません」


「……広いわ」


 ルセリアは短く言った。


「広い、ですか」


「ええ。あなたが思っているより、ずっと。綺麗な場所もある。ひどい場所もある。祈りが届く場所も、届かない場所もある。人は優しくもなるし、残酷にもなる」


「残酷」


「怖い?」


「いいえ」


 ユイは首を横に振った。


「ただ、知りたいです」


 ルセリアは、今度こそはっきりとユイを見た。


「あなたは、不思議な子ね」


「よく言われます」


「誰に?」


「家庭教師に」


 ルセリアは笑った。


 その笑みは、思ったより柔らかかった。


「外の世界を知りたいなら、まずは生きてここを出なさい。今夜は戻って。見つかれば、あなたはただでは済まない」


「あなたは?」


「この鎖がある限り、動けないわ」


 鎖に刻まれた文字が、青白く光っていた。ただ手足だけを縛るものではなさそうだった。


「外へ知らせることはできますか?」


「できるなら、もうしているわ。遠話の術も、光で知らせる術も、この鎖に弾かれて外へ出ない」


「それは、壊せますか?」


「普通の人間には無理ね」


「普通ではない人なら?」


 ルセリアの視線が鋭くなった。


「あなた、自分が何を聞いているか分かっている?」


「分かっていません」


「正直ね」


「分からないことを、分かるとは言えません」


 ユイは一度、上の通路を思い出した。


「上の兵が言っていました。明日の夜番で、預かり物を移す、と」


 ルセリアはユイを見ていた。


 ルセリアは、鎖を鳴らしかけた手をわずかに引いた。


「今夜は戻りなさい。もし本当にまた来るつもりなら、食べ物と水を少し。あと、できれば紙と羽ペンを持ってきて」


「紙と羽ペン?」


「外で生き残るためのことを、全部は教えられない。長い文は無理でも、名と道だけなら短く残せる。どの名を避け、どの道なら助けを呼べるか。次に会えたら、それだけを書いて渡す。聞くだけでは足りないでしょう?」


 ユイは目を見開いた。


「本当に、そこまでしてくださるのですか」


「よくはないわ。でも、あなたは聞きに来るのでしょう」


「はい」


「なら、せめて無駄に踏み込みすぎないように、私が教える」


「ありがとうございます」


「感謝は、ここを出てからにしなさい」


 ルセリアは顔を上げ、通路の方へ視線を向けた。


「足音が近づいている。行きなさい」


 ユイも耳を澄ませた。


 遠く、天井の向こうを渡るようなかすかな音がした。扉の外ではない。上の通路を巡る兵の足音だった。まだ距離はあったが、地下扉の方へ近づいていた。


「明日の夜番が始まる前に、もう一度来ます」


「来ない方がいい」


「でも、紙と羽ペンが必要です」


 ルセリアは一瞬だけ言葉に詰まった。


 それから、笑った。


「……本当に、危うい子ね」


 ユイは一礼し、鉄格子から離れた。


 青白い灯りを背に、通路を戻った。階段を上る頃には、上の通路を回る兵の足音が、地下扉の外側へ近づきつつあった。


 扉の前で止まり、外の様子をうかがう。


 見える兵は一人だった。


 扉のすぐ近くではない。封印盤から少し離れた位置にいた。


 ユイは隙間から廊下を見た。兵は背を向けていた。奥へ行った兵は、まだ戻っていなかった。


 扉を開け、外へ出た。


 そのまま、何事もなかったように廊下を歩いた。


「お嬢様?」


 背後から声がした。


 ユイは振り返った。


 兵がこちらを見ていた。


 兵の視線が、ユイの背後の扉へ走った。剣の柄に触れかけた指が止まった。封印灯が、そこで低く鳴った。兵は目を瞬かせ、息を吸い直した。


 扉の縁の青い紋は、眠ったように暗かった。


「このような夜更けに、どちらへ」


「眠れず、少し歩いておりました」


「この辺りは冷えます。お部屋へお戻りください」


「そうします」


 ユイは外套の前を合わせた。


 それ以上、言葉は返ってこなかった。ただ、目は扉の縁から離れない。


 喉元の呼び笛へ、指が上がりかけた。呼び笛は、城内の詰所まで届く合図だった。封印灯がもう一度、低く鳴った。


 指は笛から離れ、封印盤の脇に吊られた小さな銀片を二度だけ弾いた。奥の通路で、別の兵の足音が止まる。地下の夜番だけに届く合図だった。


 その視線は、ユイと扉の縁を交互に追った。追いかけるためではない。扉を監視するための目だった。


 今は、部屋へ戻れればいい。


 ユイが角を曲がる直前、男は腰の木札を引き寄せ、夜番の引き継ぎへ残す小さな符号を刻んだ。封印灯の光が弱まったことと、扉の前を人が通ったことを示す記しだった。声は上がらなかった。けれど、刻み目はそのまま残った。交代の時、封印を預かる術師へ引き継がれるものだった。


 部屋へ戻ると、月明かりが床に落ちていた。


 ユイは薄布を外し、机の引き出しを開けた。紙と羽ペンがあった。小さな水筒も、上着の下へ隠せる大きさだった。食べ物は、明日の朝食から少し取ればいい。


 そこまで考えてから、ユイは明日の準備をしている自分に気づいた。


 ユイは窓辺へ行き、外を見た。


 城壁の向こうは暗い。遠くに森があり、そのさらに向こうには、地図でしか知らない道が続いているはずだった。


 外の世界は広い。ルセリアは、そう言った。


 ユイは机に戻り、白い紙を一枚取り出した。


 最初に書くことは、決まっていた。


 誰に知らせれば届くのか。


 ルセリアに聞くべき名。


 避けるべき道。


 助けを呼べる道。


 その端に、もう一行を足した。


 昼までに整理する。


 そう書いて、羽ペンを置いた。


 白い紙には、明日の昼までに聞くことと、確かめることだけが残った。


 明日の夜番で、預かり物を移す。


 兵の声を思い出しながら、ユイは羽ペンをしまった。


 明日の夜番が始まる前に、もう一度地下へ行くと決め、机の端には水筒と布袋も置いておいた。

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