第七十九話:支援品置き場の会長
赤炉会の職員は、支援品置き場の前で列を作った。
起動式の準備に入れば、外部の者は近づけない。そう告げられていたはずなのに、広い壇の端には、最後の手続きに呼ばれた家族や代表者が何組か残されていた。
マルタも、その一人だった。
彼女は昨日より古い上着を着ている。袖口は何度も繕われ、布の色が少しずつ違う。手には小さな確認控えを握っていた。支援相談会で受け取ったものではない。アイゼンロートの窓口で渡された、朝の確認用の紙だ。
「トマス・ベルンの家族便です」
職員が読み上げる。
マルタは急いで前へ出た。
「はい。妻です。昨日、まだ受け取っていないと聞いて」
「確認いたします」
マルタの後ろにいた幼い少女が、誰かの袖を握っていた。トマスの娘ではない。別の家の子だ。父親らしい男は片腕を吊り、首から赤炉会の支援札を下げている。少女は火環起動壇を見上げ、魔導柱の高さに首を反らした。
ここに集められているのは、陰謀を暴くための証人ではない。
今日を無事に終えたい人たちだった。
職員は丁寧だった。乱暴なところはない。札を見て、箱の番号を見て、名簿の横へ指を置く。
そして、指が止まった。
「……こちらは、起動式支援品として一括保管されています」
マルタの顔から血の気が引く。
「一括、ですか」
「起動後に、対象者へ」
「起動前に、渡していただく約束でした」
声は大きくない。
けれど、周りの家族が少しずつこちらを見た。杖をついた老人、幼い子を抱いた母親、軍帽を胸に抱えた若い女。誰も騒がない。ただ、同じ言葉を自分の確認控えへ重ねている。
職員は困ったように息を詰める。
「手順上」
「手順は、誰のためにありますか」
マルタの言葉が震えた。
その時、後ろから柔らかな声が来る。
「マルタさん」
エルガー・ヴァイスマンだった。
彼は職員を責めない。マルタへ近づく時も、周囲の家族を押しのけない。足を止める位置さえ、病室で相手を驚かせない距離を知っている人間のそれだった。
「昨日は、トマスさんの脚の調整記録を見直しました。痛みは抑えられているはずですが、朝の冷えはまだ堪えるでしょう」
マルタの唇が揺れた。
「会長さん」
「包みは覚えています。手袋と、干した果物と、娘さんの絵でしたね」
「はい」
その一言で、マルタの目に涙が出かけた。
セリナは上段の通路からその場を見ていた。エルガーの声は、遠くても届く。彼が覚えていることは、本物だ。昨日の台本を読んでいるだけではない。
だから恐ろしい。
彼は人を見ている。
見たうえで、使っている。
セリナは、もしエルガーが最初から冷たい男なら楽だったと思った。声を荒げ、家族を押しのけ、兵を番号で呼ぶような男なら、怒れば済む。父に訴え、ユリウスに渡し、レナートにも見せられる。
けれど、彼は包みの中身まで覚えている。
人が救われた日の細部を、大切なもののように扱える。その同じ手で、包みを赤い線の内側へ戻す。
エルガーは職員へ視線を向けた。
「確認を」
職員が慌てて木箱を開ける。中に包みはあった。マルタが持ってきた布包み。娘さんの絵を挟んだ薄板は、折れないよう別の箱に移されていた。
マルタは手を伸ばしかけた。
だが、エルガーは包みを両手で受け取り、すぐには渡さなかった。
「式の前に、本人へ届けるには時間が足りません」
マルタの手が空中で止まる。
「ですが、起動式の祈りへ添えれば、彼の名と一緒に火へ届きます」
エルガーの声は優しい。
優しいまま、逃げ場を狭める。
「トマスさんは、戻る火に自分の名を預けています。ご家族の包みを、そこへ添えましょう」
マルタは答えられない。
幼い子が母親の袖を引いた。母親はすぐに抱き寄せる。軍務局兵が視線だけで周囲を押さえ、誰も大きな声を出さない。
セリナの隣で、エアリスが手すりへ指を置いた。
白い指先が、黒鋼の欄干に沈むように見えた。
「渡すための包みが、祈るためのものに変わっています」
エアリスの声は、セリナにだけ届くほど小さい。
セリナは喉の奥が痛くなる。
怒鳴りたいわけではない。
ただ、マルタの手がまだ空中に残っていることが、目に刺さった。
エルガーは包みを赤い線の内側へ戻した。
それは丁寧な動作だった。まるで大切なものを粗末に扱わないように。
包みが置かれると、床の赤い線が一度だけ明るくなる。
マルタはそれを見た。
自分の包みが、誰かの手へ渡るのではなく、線の内側へ置かれたことを。
レナートも見ていた。
中立公爵は、椅子に座らない。
上段の欄干から、視線だけで下の区画を測っている。記録官は後ろにいるが、彼自身は何も書かない。書けば、まだただの証言になる。彼が見て、覚えることに意味がある。
その時、皇室旗の下で動きがあった。
ライオネルが若い貴族たちの前へ出る。
帝国青年協賛会の役員が、予定より少し早く席を整え始めた。クラリッサ、ヘルムート、マティアス、イザーク、ディーナ。それぞれの家の位置を映すように、若い顔が並ぶ。
ライオネルは壇の下を見た。
マルタの姿も、支援品置き場も、見えているはずだった。
見なかったことにはできない。
エルガーは振り返り、皇子へ礼をした。
「殿下。家族の火は、支える者の手でここへ届いております」
ライオネルは返礼した。
言葉は出ない。
その沈黙を、若い貴族たちがどう読むか。上皇派の側近がどう拾うか。グランツベルク家がどう記録するか。
全部、今の場に積まれている。
セリナは階段を下りかけた。
オスカーが腕で止める。
強くはない。
止めるというより、今どこで動くかを問う手だった。
セリナは父を見た。
父は言わない。
自分で決めろ、と目だけで告げている。
セリナは階段の一段目に足を置いたまま、下のマルタを見た。
マルタは泣いていなかった。
ただ、空になった手を胸の前で握っている。
エルガーはその姿を、悲しみとして扱う。
赤い線は、その姿を、材料として扱う。
どちらも同じ場所にある。
マルタの後ろで、別の家族が自分の確認控えを握り直した。
「うちのも、起動後なのか」
誰に聞いたのでもない声だった。
その声は、列の中をゆっくり移った。誰かが自分の札を見る。誰かが箱を見る。赤炉会の職員を責める者はいない。責めれば、明日の薬が遅れるかもしれない。義肢の調整を断られるかもしれない。そんな恐れまで、支援の列には混じっている。
薬や義肢を待つ者ほど、声を上げる前に窓口を見てしまう。
赤炉会の職員は、その視線に慣れている顔をしていた。
赤炉会の若い職員が振り向く。答えようとして、口を閉じる。支援品置き場の番号札へ目を落とし、指で札を一度裏返して、また戻した。
セリナはその職員の顔も覚えた。
その職員の袖口には、薬品の小さな染みが残っていた。式典だけの係ではない。昨日までどこかの病室で包帯を替え、歩行器具の貸し出し表を書き、帰還兵の家族に頭を下げていた人間だ。
だからこそ、彼が黙った一瞬は重い。
薬品の染みが残る袖が、返しかけた言葉ごと下がる。その沈黙は誰かを責めているわけではないのに、列の足を止め、番号札を見ないふりにさせた。セリナの胃の奥が重くなる。
悪人の顔ではない。
だから、逃がしてはいけない。悪意のない手が、手順の中で何を運んだのか。セリナはそれを見たまま、階段へ足を置いた。
セリナは階段から足を戻さなかった。
父の腕は、もう彼女を止めていない。
下りるなら、今だった。
一段下へ足を移すだけで、観客席からの視線が変わる。公爵令嬢が式典を見る側から、式典へ手を出す側へ変わる。セリナはその境目を、靴底で踏んだ。




