第八十話:近くには立たない
式典前の合図が、火環起動壇の外周へ広がった。
神官たちが炉の前へ並び、軍務局の整備兵は最後の調整へ入る。赤炉会の職員は支援品置き場の周りに低い柵を立てた。柵は粗末ではない。黒い木に赤銅の留め具を打ち、式典の一部に見えるよう整えられている。
近づけないための柵なのに、祈りを守る柵に見える。
セリナは階段の途中で止まっていた。
降りれば、マルタのそばへ行ける。
だが、そこで軍務局に止められれば、グランツベルク家が式典進行を乱した記録が残る。上段に戻れば、マルタの手は空のままだ。
エアリスが隣へ来た。
「セリナさん」
「分かってる」
セリナは言ってから、一瞬だけ唇を噛んだ。
きつく聞こえたかもしれない。
エアリスは傷ついた顔をしなかった。代わりに、階段下の警備配置を見た。
「降りるなら、何を取り戻すかを先に決めた方がいいです」
説明ではなく、手順だった。
セリナは目を閉じない。
その言い方に、セリナの胸の奥がかすかに落ち着いた。慰められたわけではない。助けられたわけでもない。怒る前に何を取るかを決めろと、友人が横で道具を渡してくれただけだ。
聖都で苺の蜜包みを渡した時とは、何もかも違う。
それでも、隣にいるのは同じ人だった。
マルタの包み。男の子の木の火皿。支援品窓口で見た番号。トマスの名。起動式の記録。ライオネルの近くに立つこと。
全部を一度に取ろうとすれば、何も取れなくなる。
上段でレナートがバルドゥールへ近づいた。
「起動前に支援品と名簿を分けて確認する時間を求める」
バルドゥールは即答した。
「認められない」
「理由は」
「起動式の延期は、防衛陣の安定に影響する」
「支援品を本人へ渡すだけで、防衛陣が不安定になるのですか」
レナートの問いに、周りの者がわずかに動いた。
バルドゥールはその動きを見逃さない。
「外から見て分かるものではない」
「だから内側を見た」
レナートの声は淡々としている。
「そして、見たものについて止める時間を求めている」
バルドゥールの黒鋼の手袋が、欄干を一度だけ叩いた。
小さな音だった。
だが、近くの兵が姿勢を正す。
「ヴァルトシュタイン公。あなたが求めているのは監察ではなく、起動式への介入だ」
「まだ監察です。拒むなら、拒否理由を臨時議会へ送る」
「送る通信路は、式典中制限される」
その言葉で、レナートの手袋の縫い目が小さく軋んだ。
ユリウスが皇室確認席から一歩前へ出る。
「制限の範囲を文書で示せ」
バルドゥールは視線だけを向けた。
「第一皇子殿下。皇室確認席からの御発言は、正式な異議申し立てとして扱います」
「扱え」
ユリウスの返答は短かった。
若い貴族席がざわめく。
ヘルムートが何かを言いかけ、隣のクラリッサが袖を軽く引いた。マティアスは顔色を変えずに笑おうとして、失敗した。ディーナはすでに伝令書を握っている。
そこへ、ライオネルが降りてきた。
側近たちは止めようとしたが、今度は間に合わない。彼は上皇席へ戻る途中で、セリナの階段下へ立った。
「セリナ嬢」
呼び方は公的だった。
だから、セリナも公的に返す。
「ライオネル殿下」
「今なら、まだ私の横へ立てる。支援品の件は、私から確認させる」
その場にいた者が、ほとんど一斉にこちらを見た。
若い貴族。軍務局兵。赤炉会職員。マルタ。エルガー。ユリウス。レナート。オスカー。
セリナは、その全員に見られていることを感じた。
ライオネルの横へ立てば、確認は進むかもしれない。だが、それはライオネルの慈悲として記録される。グランツベルク家の娘が第二皇子の横に立ち、支援品の不安が皇子の庇護で解けたという絵になる。
彼自身が悪意で言っているわけではない。
それが余計に厄介だった。
セリナはライオネルの顔を見る。彼は助けようとしている。少なくとも、今この瞬間は。けれど彼の手は、自分で思っているより多くの紐を引いていた。皇位候補の紐、上皇派の紐、若い貴族の期待、母方から皇室の血を引くセリナ自身へ向けられた縁談の影。
その紐の先で助けられれば、助けられた人間も一緒に結ばれる。
「殿下」
セリナは階段を一段下りた。
近づくためではない。
同じ高さで断るためだ。
「私は、あなたの横に立てば見えなくなるものを、今見ています」
ライオネルの顔から余裕が消えた。
「私を疑うのか」
「疑わずに立つことを、証拠にされたくありません」
側近が息を吸う。
セリナは先に続けた。
「確認をしてくださるなら、殿下の名でなさってください。私を隣に置かずに」
マルタの確認控えが、彼女の手の中で折れかけた。小さな紙音がした。
ライオネルはそれを聞いた。
聞いてしまった。
彼の視線がマルタへ行く。包みは赤い線の内側に置かれている。マルタの手は空だ。
しばらく、誰も動かなかった。
それからライオネルが、赤炉会の柵へ向かう。
「その包みを、一度外へ」
エルガーが礼をした。
「殿下。起動式の祈りへ組み込まれた支援品は、個別に外すと祈りの並びが崩れます」
「崩れるなら、組み直せ」
ライオネルの声が強くなる。
初めて、若い貴族席から小さな息が漏れた。
エルガーは怒らない。
「直せるものと、直すことで失われるものがあります」
「何が失われる」
「戻る火の一体性です」
若い貴族席で、何人かが意味を追うように口を閉じた。
火神官の列だけが、その言葉を当然のものとして受け止めている。
バルドゥールが割って入った。
「殿下。支援品の扱いは赤炉会と軍務局で確認済みです。皇室の場で手順を覆せば、式典そのものが揺らぎます」
ライオネルは、バルドゥールを見る。
バルドゥールの背後には、上皇の名と軍政の重さがあった。
自分の足元を支えるはずの軍政が、今は言葉の幅を狭めている。
「なら、式典後すぐ渡すと、ここで言え」
言い終えたあと、ライオネルは奥歯を噛んだ。側近の一人がわずかに息をのむ。
エルガーはマルタへ向き直る。
「式典後、最初に確認いたします」
マルタは答えなかった。
セリナも、勝ったとは思わなかった。
若い貴族席では、クラリッサが今のやり取りを見ていた。扇の陰で、唇がごくわずかに硬い。
「殿下は譲られたのかしら」
隣の令嬢が囁く。
「譲らされたのよ」
クラリッサは囁き返した。
それから、セリナを見る。
「でも、あの方も譲っていない」
その声に、令嬢は黙った。
ヘルムートは腕を組んでいた。彼は外縁防衛を疑う言葉が嫌いだった。だが、包み一つを戻せない場が本当に強いのかと問われれば、すぐに答えられない顔をしている。
イザークはレナートの席と支援品置き場を交互に見た。中立派の若い目が、初めて数字ではなく人の手元へ移っている。マティアスは、今この場で軽口を言えば誰に笑われ、誰に記録されるかを測り損ねて黙っていた。
若い席の沈黙は、従順ではない。
まだ形を持たない疑いだった。
その疑いは、すぐに正義へ変わらない。クラリッサの家は赤炉会の支援式典に寄付を出している。ヘルムートの従兄は外縁砦で腕を失い、赤炉会の義肢で剣を握り直した。マティアスの家にも、上皇派との商談がある。
誰も、簡単に立ち上がれない。
それでも、膝の上の扇が開かれないこと、軽口が飲み込まれたこと、兵を見る目が一度だけ揺れたこと。その程度の変化が、今の彼らにできる最初の反抗だった。
包みは戻っていない。
ただ、ライオネルが何も見なかったことにはならなかった。
火環起動壇の鐘が、二度鳴る。
試験起動から本起動準備へ移る合図だった。
誰かが椅子を引きかけ、すぐに戻す。
動きたいのに、まだ理由が足りない。若い席の苛立ちは、その小さな音にだけ出た。
赤い線の光が、木箱の下でごくわずかに濃くなる。
その濃さを見た瞬間、セリナの指先から余裕が抜けた。政治の一手を待つには、火は早すぎる。




