第七十八話:上皇の火、切れない防衛陣
上皇の控え室は、火環起動壇の上段に置かれていた。
部屋というより、黒鋼の壁で仕切られた短い回廊に近い。正面には儀礼用の幕が下がり、その向こうから炉区の熱と人の気配が押し寄せる。
ヴォルフラムは椅子に腰を下ろしていなかった。
車椅子は壁際へ退けられている。
彼は杖を使わずに立ち、火環起動壇の中心を見下ろしていた。白い髪の下、首筋の赤い古傷が朝の光で乾いた血のように見える。
傷は、若い頃に魔界の裂け目で受けたものだと伝えられている。軍学校の教材にも残る戦いだった。彼が先頭に立ち、崩れかけた防壁を三日保たせた。兵たちはその話を知っている。貴族も、平民も、上皇派でない者でさえ、あの戦功だけは軽く扱えない。
だから、この老人が火を語ると、人は黙る。
その沈黙の中に、敬意も、恐れも、利用できる熱も混じっていた。
「閉じたか」
問いは短い。
バルドゥールが礼を取る。
「内側通路は軍務局の安全切替で封じました。グランツベルク、ヴァルトシュタイン、第一皇子殿下は分けております」
「ユリウスは」
「皇室確認席へ」
ヴォルフラムの口元に、笑みではない線が出た。
「あれは、よく待つ」
ライオネルはその横に立っていた。
自分の名が出ないことへ、反応しないようにしている。だが、肩の飾りが一度だけ揺れた。
ヴォルフラムは振り返らずに言う。
「ライオネル」
「はい」
「お前は、若い者たちの前へ出る。門を守る顔は必要だ」
ライオネルの拳が胸元へ上がる。
「承知しております」
「顔だけで終わるな」
その言葉で、部屋の空気が硬くなった。
バルドゥールも、側近たちも、エルガーも動かない。
エルガーは壁際で静かに手を組んでいる。赤炉会会長の礼装は、軍装の黒と違い、深い赤を含んだ灰色だった。派手ではない。遺族の家を訪ねても、病室に立っても、不自然ではない服。
「殿下は十分に務めておられます」
エルガーが柔らかく言った。
ヴォルフラムは初めて彼を見る。
「慰めるな。若い火は、慰めで形を持たぬ」
エルガーは少し頭を下げる。
「では、場を与えましょう」
その言い方は、あまりに自然だった。
ライオネルは彼を見た。
エルガーは敵ではない顔で微笑む。傷病騎士の名を覚え、遺族に椅子を勧め、男の子の木の火皿を両手で受け取る男の顔だ。
「殿下の言葉で退避路を開けば、若い兵は従います。殿下の沈黙で式が進めば、同じく従います」
ライオネルの手袋の縫い目が、指の下で小さく歪んだ。
ライオネルの唇が動いた。
しかし、言葉になる前に、ヴォルフラムが火環起動壇へ視線を戻した。
「防衛陣は切らせるな」
バルドゥールが即座に答える。
「切らせません」
「名簿も札も布も、支援の器だ。だが、防衛陣そのものは本物だ。そこを崩せば、外縁は今日から弱くなる」
ヴォルフラムの声に、嘘はなかった。
魔淵の外縁を知る者なら、その言葉を笑えない。壁が弱くなれば死ぬ者がいる。防衛陣が働けば救われる区域がある。火環起動壇は、見せかけの飾りではなく、帝国が築いた本物の防衛設備でもあった。
だからこそ、誰も簡単には壊せない。
「赤い線の行き先を突こうとするでしょう」
エルガーが言った。
「あの子たちは、良い目をしています。箱と名簿と火皿を、別々のものとして見ません」
「褒めるのか」
バルドゥールの声が低くなる。
「危険なものを危険と見られる目は、貴重です」
エルガーは穏やかなままだった。
「ただ、今日の場では遅い」
その言葉だけ、少し温度が落ちた。
ライオネルの指先に汗が滲む。
彼はエルガーを完全に知らない。けれど、この男がただ善意だけで動いていないことは、ようやく分かり始めている。
ヴォルフラムが幕の向こうへ歩き出した。
足取りは遅い。
一歩ごとに、老いが見える。
しかし、立つ意思は強い。歩けない体を無理に飾っているのではない。歩ける限り、帝国の前で立つつもりなのだ。
「火は奪われるものではない」
上皇は呟いた。
「継がせるものだ。継がせる者が弱ければ、火は先に消える」
ヴォルフラムの視線はライオネルを越え、若い席の列へ流れた。
その目は、後ろへ続く者を見ているようで、まだ誰にも背を預けていなかった。
ライオネルはその背中を見た。
父ではない。皇帝でもない。けれど、帝国の火を語る時のヴォルフラムは、誰よりも古い帝国そのもののように見えた。
それが怖い。
間違っているだけの老人なら、まだよかった。
下段では、ユリウスが皇室確認席へ入っていた。紺の外套の内側に、小さな通信札を隠す。ファルケンラート家の伝令式は、起動壇の干渉に押され、薄く震えている。
ディーナから届いた短文は、三行しかなかった。
内側通路閉鎖。
グランツベルク家とレナート分離。
ライオネル、退避路未決。
ユリウスは札を袖へ戻した。
問うべきものは、防衛陣ではない。
赤い線が、何をどこへ運ぶのかだ。
だが、赤い線は防衛陣の床下を通っている。名簿照合区画を通り、支援品置き場を通り、補助炉へ入る。そこを公の場で問題にすれば、上皇派は即座に叫ぶだろう。
防衛妨害。
魔淵外縁への反逆。
グランツベルク家の私情。
第一皇子の継承工作。
どの言葉も、用意されている。
ユリウスは上段のレナートを見た。
中立公爵は、席に着かないまま立っている。昨日から記録板を持たない男が、今は何も持たない両手を黒鋼の欄干へ置いていた。
彼が動かなければ、ユリウスの一手は政治工作になる。
彼が動けば、帝国の判断になる。
火環起動壇の中心で、試験起動の鐘が鳴った。
誰もが息を止める音が、広い壇の上で重なった。
最初の火は美しかった。
魔導柱の刻印が外側へ向かって光り、遠い外縁壁の模型に薄い火の輪が生まれる。軍務局の整備兵から、小さな歓声が漏れた。神官が祈りを唱え、若い貴族たちが背筋を伸ばす。
整備兵の一人は、胸元に入れた小さな記録絵へ一瞬だけ触れた。家族か、部隊か、誰かの形見か。隣の兵がそれを見て、何も言わずに計器へ目を戻す。
この火で救われる人間もいる。
ユリウスは、その事実を切り捨てられない。切り捨てれば、バルドゥールの言葉に負ける。防衛そのものを否定する者として読まれる。彼が止めたいのは防衛ではない。防衛の名で、名札と包みを本人から遠ざけていく手順だ。
皇室確認席の下では、火神殿の老神官が膝をつき、試験火の色を見ていた。彼は赤炉会の者ではない。軍務局でもない。外縁防衛の祈りを何十年も捧げてきた神官だ。その老人が、火の輪を見て目を潤ませている。
ユリウスはそれも見た。
その火を一つの悪として切れば、あの老神官の膝まで踏みにじることになる。
壇の端では、整備主任が部下へ小声で指示を飛ばしている。圧力値、補助炉、外縁模型の同期。どれも昨日までなら誇るべき言葉だった。彼らの手は、失敗させてはならない設備を預かる硬さで動いていた。
バルドゥールの黒鋼兵は、その硬さを背に立っている。
だからユリウスは、怒鳴れば済む場所に立っていなかった。怒鳴った瞬間、防衛陣を壊す皇子になる。黙れば、名札は赤い線の内側へ沈む。
その違いを、今この場で公の言葉にできるか。
彼はレナートを見た。
防衛陣は、本物だった。
だから、誰もすぐには止められない。
その火の下で、床の赤い線だけが、別の脈を刻み始めた。




