第七十七話:閉ざされる内部通路
内側確認は、長く続かなかった。
最初に閉じられたのは、名簿照合区画の奥へ続く細い通路だった。黒鋼の格子が床から上がり、赤炉会の職員が抱えていた箱を向こう側へ残したまま、低い音を立てて噛み合う。
「安全切替です」
軍務局の儀礼官が言った。
昨日と同じ言葉ではない。
けれど、聞いた者を外へ押し返す響きは似ていた。
レナートは格子の前に立った。触れない。ただ、向こう側へ残された箱と、こちら側に残された照合用の机を見比べる。
「起動前確認の途中で切り替える理由は」
「試験起動の順序が繰り上がりました」
儀礼官の答えは早い。
早すぎて、セリナは彼の口元を見た。さきに覚えた文を、間違えずに言っている顔だった。
オスカーの記録官が板へ書く音がした。
カリ、と硬い音が一度だけ走る。
バルドゥールはそれを止めない。止めれば、それ自体が記録になる。
「グランツベルク公爵家の視察経路は、こちらへ」
別の兵が指し示した先は、火環起動壇の外周に近い通路だった。名簿照合区画は見える。支援品置き場も見える。だが、赤い線が補助炉へ吸い込まれる部分は、柱の影で見えなくなる。
その柱には、古い戦勝年が刻まれていた。百年以上前、魔淵外縁で最初の大きな防壁が築かれた時のものだ。刻まれた名の一部は摩耗し、黒鋼の補修板で隠れている。新しい板の縁だけが、古い石より黒く光っていた。
見えなくなるのは、たった数歩分だった。
だが、その数歩分が、今この場で一番必要な場所だった。
「ヴァルトシュタイン公は」
レナートが尋ねる。
「中立監察席は上段です」
兵の声は硬い。
「第一皇子殿下は皇室確認席へ」
今度はユリウスの名が呼ばれた。
分けられる。
同じものを見ないように。
エアリスは、床の格子と残された箱を見比べた。これまでの資料や箱と違い、今は目の前の空間そのものが証拠になっている。人を分けるたび、その証拠を見る目もばらけていく。
ユリウスは短く返礼した。
「皇室確認席へ行く」
セリナの方を見ない。
だが、通り過ぎる時、彼は手袋の指先で外套の縁を一度だけ押さえた。昨日、銀箱を見た時と同じ癖だ。言葉の代わりに、気をつけろと置いていくような小さな動きだった。
セリナは返事をしなかった。
返事をすれば、誰かに読まれる。
ライオネルは内側通路の分岐に残っていた。側近が二人、ほとんど体で道を塞ぐように立つ。
「殿下、上皇陛下の御前準備へお戻りください」
「まだ内側確認は」
「殿下の許可は十分に示されました。これ以上は現場実務です」
ライオネルの顎が動いた。
言い返す直前、奥の補助炉から二度目の音がした。低く、深い。床の赤い線が弱く明滅し、支援品置き場の木箱の影が揺れる。
側近はその音を待っていたように続ける。
「式典の遅延は、殿下のお名前で扱われます」
ライオネルの指が剣の柄へ触れ、すぐに離れた。
彼の後ろで、若い近衛の喉が動いた。近衛はライオネルより少し年上に見える。忠誠はある。だが、上皇側近の指示書も見ている。どちらへ体を向ければよいのか、一瞬だけ分からなくなった顔だった。
ライオネルはその迷いを見たが、言葉にはしなかった。
セリナはそれを見た。剣は鞘にある。近衛の足は半歩だけ横へずれた。選ばないための姿勢が、そのまま一つの答えになっていた。
その時、エアリスが足を止めた。
場所は、グランツベルク家の視察通路へ移される手前だった。赤い線はすぐ横を通り、壁の低い窓から名簿照合区画の端が見える。
「ライオネル殿下」
声は小さい。
けれど、側近が止まるには十分だった。
ライオネルが振り返る。
「旗の下にいる人は、旗の外側を見られますか」
セリナは思わずエアリスを見た。
声は静かだった。ライオネルの視線が、旗の外へ逃げかけて止まる。
ライオネルの喉が動いた。
「見る」
「今、内側通路が閉じました」
エアリスはそれだけを言った。
側近の片方が、袖の内側の札を押さえた。
ライオネルは答えなかった。
代わりに、セリナへ視線を移した。
「セリナ嬢。式典では、私の近くに立てば安全に見られる」
昨日よりも、弱い誘いだった。
自分でも分かっているのだろう。近くに立てば安全かもしれない。だが、近くに立つことは、見える範囲を決められることでもある。
セリナは手袋の縁を直した。爪が少し引っかかり、布の糸が一本浮く。
「私は、見えない場所の証明には立てません」
側近の顔色が変わった。
ライオネルの目も、ごくわずかに暗くなる。
それでもセリナは続けた。
「私が近くに立った記録絵や記録が、全部見た証拠として使われるなら、立ちません。父の後ろで見ます」
オスカーは娘へ口を出さなかった。
ただ、記録官へ視線を投げる。記録官の筆先が、今の言葉を拾った。
若い兵の一人が、目だけでセリナを見た。
すぐに前を向く。
その小さな遅れを、ディーナ・ファルケンラートが上段の通路から見ていた。彼女は何も言わないが、手の中の伝令書を少し深く握る。
内側通路の三つ目の格子が上がった。
金属音が重なる。
支援品置き場と補助炉の間が、完全に遮られた。
バルドゥールの命令が飛ぶ。
「各家を所定席へ。試験起動を前倒しする。人員配置を崩すな」
赤炉会の職員たちが動き出す。
その中で、一人の職員が木箱へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。箱の上には、男の子の木の火皿を包んだ布が乗っている。
エアリスはその手を見た。
職員は何かを言おうとしたのか、唇を開いた。
すぐ隣の軍務局兵が、彼の肩へ軽く触れる。
職員の口は閉じた。
その沈黙が、通路を曲がるまで追ってきた。
グランツベルク家の視察通路へ入ると、外側から見える火環起動壇は美しかった。環状の魔導柱が朝の光を受け、火神殿の神官が祈りの言葉を整える。上段の席には、若い貴族たちがすでに並び始めていた。
外側席へ出た途端、さきほどの格子音が嘘のように遠くなる。火神殿の少年見習いが香炉を運び、整備兵が白い布で柱の刻印を拭き、帝国青年協賛会の係が席札を直している。そこだけ見れば、式典は整っていた。
セリナは喉の奥に、冷えたものが残るのを感じた。
内側で口を閉じられた職員も、支援品の箱へ伸ばしかけた手も、ここからは見えない。外側の人々は、整った火だけを見る。
「見えない場所を作ってから、きれいに見せるんですね」
声に出してから、セリナは一瞬だけ後悔した。強すぎたかもしれない。
エアリスは前を見たまま答える。
「きれいに見えるものほど、誰が見えなくしたかを覚えておきます」
クラリッサが遠くからセリナを見つけ、礼を送る。
セリナは返礼した。
笑わなかった。
クラリッサも笑わなかった。扇は閉じたまま、膝の上に置かれている。社交の場なら、それは無作法に近い。だが彼女は、あえて手を遊ばせていた。どちらの拍手にもすぐ乗らないための、若い令嬢なりの小さな保留だった。
マティアスは周囲へ何か冗談を投げようとして、途中でやめる。ヘルムートは壇の下の兵を見ている。ディーナはファルケンラートの伝令書を袖の中へ隠した。若い席も、ひとつの色ではなかった。
後列にいた下級貴族の少年が、父親らしき男へ身を寄せた。何かを尋ねる口の形を作る。父親は答えず、少年の膝へ置かれた式次第を押さえた。紙の端が折れる。
ここで何を見たかは、後で家の食卓へ持ち帰られる。笑い話になる家もあれば、黙って封じる家もある。だが、見なかったことにするには、内側の格子音はあまりに硬かった。
閉じられた格子の向こうで、補助炉が三度鳴る。
音だけが、全員に同じものを聞かせていた。




