第七十六話:床の赤い線の内側
朝のアイゼンロートは、夜よりも静かだった。
街が眠っているのではない。炉区へ向かう通りには、軍務局の馬車、赤炉会の荷車、工房の人夫、火神殿の祭服を着た神官が絶えず行き来している。声もある。車輪も鳴る。
それでも、広い通りの端に立つ兵たちは、誰も余計な話をしなかった。
黒い石畳の上に、白い息が落ちる。
セリナは外套の留め具を直した。昨夜、エアリスがごくわずかに位置を直してくれた留め具だ。指先へ触れる金具の冷たさで、眠れていないことに気づく。
炉区の奥で、細い鐘が一度鳴った。
近くの整備兵が懐中時計を開き、すぐに閉じる。声には出さなかったが、周囲の足運びが半歩だけ速くなった。起動までの時間が、紙の上ではなく床の上を動き始めている。
「眠れたか」
父の声が横から来た。
「少しは」
セリナが答えると、オスカーはそれ以上を聞かなかった。
火環起動壇へ続く内門の前では、すでにレナート・ヴァルトシュタインが待っていた。護衛は少ない。彼自身も記録板を持っていない。昨日と同じように、見たものを自分の立場で覚えるつもりなのだろう。
門の脇では、整備兵が二人、朝食代わりの黒麦パンを立ったままかじっていた。一人はまだ若く、もう一人は片耳の上に古い火傷を持っている。若い方がパンを包んだ紙を畳み、腰の袋へ入れた。捨てない。外縁では紙も布もすぐ役に立つのだと、セリナは子どもの頃に父から聞いたことがある。
その兵たちは、グランツベルク家や皇子たちを見ると姿勢を正した。けれど目だけは、何度も火環起動壇の奥へ戻る。あそこにある防衛陣が働けば、自分の持ち場が一つ残る。隣の療養棟へ送られる仲間が一人減る。その期待まで嘘にはできなかった。
その横へ、ユリウスが皇室側の紺の外套で現れた。
セリナとエアリスへ目礼だけを置く。近づきすぎない。グランツベルク家の視察名目と第一皇子の確認名目が、最初から一つに見えないようにしている。
内門の前に立つバルドゥールは、黒鋼の手袋をはめていた。
「本日の起動前内側確認は、軍務局、赤炉会、火神殿、皇室代表の許可を受けた者に限る」
声は低い。朝の冷えた空気にも、よく通った。
レナートが一歩進んだ。
「私は昨夜、見ないままでは判断しないと告げた」
「告げられたことは覚えている」
「なら、通していただきたい」
バルドゥールの手袋が、腰の留め具へ一瞬触れた。
「火環起動壇の内側は、今日だけ軍務上の安全区域になる。中立監察であっても、術式運用の妨げになる位置までは入れられない」
レナートはすぐに返さなかった。
門の横で、赤炉会の職員が小さな名札の束を揃えている。紙の角が一枚だけ曲がり、職員はそれを爪で押し戻した。何気ない動きなのに、セリナの目はそこへ止まった。
「妨げになる位置とは、どこですか」
エアリスが静かに尋ねた。
バルドゥールの視線が、初めて彼女へ移る。
「ヴァレン嬢」
「見せられない場所を先に決めてから、妨げと呼んでいるように聞こえました」
声は荒くない。責める響きもない。
それで、門の前にいた若い兵の肩がわずかに動いた。
セリナは横で息を止めかけた。だが、エアリスはそれ以上を重ねない。問いを置いただけで、場を奪わない。
バルドゥールは表情を崩さなかった。
「安全の範囲は、現場が決める」
「現場にいる者が、すべてを見られるとは限らない」
今度はオスカーだった。
短い言葉が、門の黒鋼に当たって戻る。
その時、皇室旗の下からライオネルが歩いてきた。昨日よりも装飾を抑えた軍装で、肩の赤金の飾りだけが朝日を受ける。
「グライフェンベルク公」
ライオネルはバルドゥールへ呼びかけた。
「昨夜、私は名簿照合の内側を見ると約束した」
バルドゥールの眉がかすかに寄る。
「殿下」
「約束を、ただの言葉にはしない」
後ろの側近が何か言いかけた。ライオネルは振り向かないまま、手を横へ出した。止める手つきは、儀礼ほど整っていない。焦りが少し混じっている。
レナートが、その手元を見た。
「では、範囲を決めましょう」
ライオネルは門の内側へ目を向ける。
「名簿照合区画、支援品置き場、献火札箱、補助炉の手前まで。中枢式には触れない。術式板へ手を出さない。護衛は各家二名まで。記録は公爵家記録官と皇室記録官が同時に取る」
言い切ったあと、彼は一度だけ息を整えた。手勢へ向けるはずの指が、途中で止まる。
側近の片方が袖の内側で小さな札へ触れた。おそらく上皇席へ知らせるための合図だ。ライオネルは見ていないふりをした。見てしまえば、止めるか、許すかをその場で選ばなければならない。
側近が今度こそ声を落とした。
「殿下、それでは」
「それ以上なら、私が旗でいる意味がない」
ライオネルの語尾が硬かった。
セリナは、初めて彼の若さを見た気がした。堂々とした皇子ではなく、背負わされた旗を、まだ手で押さえようとしている少年に近いもの。
バルドゥールは長い沈黙のあと、門の兵へ顎を動かした。
黒鋼門が開く。
中から熱が流れた。
火環起動壇の内側は、昨夜外から見た時よりも広かった。環状の魔導柱の間には、人が歩ける通路があり、通路の床には赤い線が走っている。太い線ではない。足を置けば踏めるほど細い。だが、床石の下から赤い光が呼吸のように明滅していた。
天井は高い。見上げると、黒鋼の梁が幾重にも渡され、その間を細い管が走っている。管の一部は外縁壁の方向へ伸び、別の一部は火神殿の祭壇へ向かっていた。防衛、祈り、軍務、支援。言葉にすれば分かれているものが、ここでは同じ熱で動かされている。
整備兵の作業台には、焦げた手袋、予備の術式釘、火除けの布が並ぶ。赤炉会の箱の隣に、軍務局の工具が置かれている。誰かが悪意を持って混ぜたというより、何年も同じ現場を支えた人々の手で、自然に近づきすぎてしまったようにも見えた。
線は、名簿照合区画の机の下を通る。
支援品置き場の木箱の下を通る。
献火札の箱を囲む。
赤い激励布の端へ触れる。
そして、中央の火皿を越えずに、奥の補助炉へ吸い込まれていた。
「防衛陣の補助導線です」
赤炉会の職員が、用意していたように言った。
セリナはその顔を見た。若くはない。手の甲に古い火傷があり、声は緊張している。
「補助導線なら、支援品置き場を通る必要がありますか」
セリナが聞くと、職員の目が一度だけエルガーのいる方へ流れた。
エルガーは少し離れた場所で、別の職員と話している。視線が合う前に、職員は戻した。
「支援品は、起動式に参加する兵と復帰者の士気を支えるものです。届け先の確認を」
「いつ、本人に届きますか」
セリナの声が、そこで鋭くなった。
職員の指が、名札の束を押さえる。
「起動後、整理して」
「起動前ではなく?」
木箱の一つに、薄い布包みがあった。見覚えのある縫い方だ。マルタの包みほど大きくはないが、同じ支援品窓口で見た家族便の形に似ている。
職員は答えなかった。
代わりに、奥の補助炉が低く鳴った。
床の赤い線が、名簿照合区画の机の脚を照らす。
オスカーの記録官が筆を止め、もう一度だけ机の脚を見た。記録すべきものが、言葉ではなく配置にあると気づいた顔だった。
「机を少し動かしてもよろしいか」
オスカーが言う。
職員の喉が動いた。
「机は照合位置として固定されております」
「防衛陣の補助導線なら、机の脚の位置は関係ないはずだ」
誰もすぐには答えない。
ライオネルがその沈黙へ目を向けた。自分が出した狭い許可の内側に、さらに狭い穴があることを、ようやく見たような顔だった。
エアリスは机の端に触れないまま、脚の下の赤い光を見ていた。机の脚を囲む光だけが床石の継ぎ目を越え、補助炉の方へ細く伸びている。
レナートが、初めて眉間に浅い皺を刻んだ。
「これは、置き場所の目印ではない」
バルドゥールが彼を見た。
「防衛陣の一部だ」
「だから、聞いている」
レナートの声は大きくない。
だが、内側にいた職員の手が一斉に止まった。
エアリスは赤い線の先を目で追った。火皿、献火札、木箱、名簿、補助炉。単独なら、どれも式典に必要なものに見える。
並べ方だけが、違っていた。
その違いを口にするには、まだ早い。赤炉会の職員は救われた兵の名を覚えている。軍務局の兵は外縁の寒さを知っている。火神殿の神官は、本当に無事を祈っているように見えた。ひとつずつ見れば、誰も自分の仕事をしているだけに見えた。
セリナは、机の脚、木箱の影、補助炉へ消える赤い線を順に目で追った。
善い手が、どこへ運ばれているのか。
カバンの中で、アキは黙っている。
ノクティラも、何も言わない。
今は人間が見なければならない場所だった。




