第七十五話:火環起動壇の前夜
第九外縁炉区は、都市の内側にありながら、別の門を持っていた。
黒鋼門より小さい。
だが、近づくほど足音が吸われる。石畳の下で大きな炉が低く鳴り、その熱が靴底へ伝わってきた。
火環起動壇。
案内役は、その名を口にした。
赤い布で半分隠されていた塔は、近くで見ると塔ではなかった。幾重にも重なった環状の魔導柱が、中心の低い壇を囲んでいる。柱の外側には防衛陣の式が刻まれ、内側には火皿を収める低い石座がいくつも並んでいた。
柱の外側では、魔力を溜め、外縁へ流し、壁を補強する式が脈を打っていた。整備兵が継ぎ目を調べ、工房の者が魔導具を運び、軍務局の係が起動順を確認している。
同時に、壇の脇には、支援品と名簿を扱う一画があった。
名簿照合区画。
赤い激励布。
家族からの支援品。
献火札の箱。
それらが、きれいに分けられて置かれている。
分けられているのに、同じ床の赤い線の内側にあった。
セリナは足を止めた。
オスカーも見ている。
レナートは何も言わず、名簿照合区画の配置を目で追っていた。彼の後ろにはイザークが控えている。若い中立派の青年は、今度は記録具を持っていなかった。手ぶらのまま、ただ配置を覚えている。
外側回廊のさらに向こう、皇室側確認席にユリウスがいた。
ライオネルの列とは別の紋章旗が、彼の後ろに低く掲げられている。ユリウスはセリナたちを一度だけ見て、すぐに名簿照合区画へ視線を落とした。近づいては来ない。
バルドゥールは炉区の入口に立った。
「外側監察回廊だ。これ以上は安全識別をつけた者だけが入る」
軍務局兵が、赤い紐を載せた盆を持ってくる。
手首に結ぶための識別紐だった。細いが、表面に小さな術式が走っている。
オスカーは見ただけで言った。
「不要だ」
兵の手が止まる。
バルドゥールが眉を動かす。
「起動壇の近くでは、識別が必要だ」
「視察者の手首へ、受け入れ側の術式を結ぶ筋はない」
「ならば外側までだ」
「外側から、家族便と献火札が同じ床の赤い線の内側へ入る理由を聞く」
バルドゥールは答えなかった。
代わりに、別の声がした。
「その説明は、私からでもよろしいでしょうか」
エルガー・ヴァイスマンが、名簿照合区画の近くに立っていた。
赤炉会会長。
今日も礼装は穏やかだった。赤い外套ではない。灰を帯びた深い衣に、炉の小さな印だけをつけている。彼が近くにいると、赤炉会職員の動きが少し整う。
周囲の職員の姿勢だけで、彼が並の支援者ではないと分かる。
第七階位に届くとも噂される男が近くへ来るだけで、列のざわめきは自然に低くなった。赤炉会職員だけでなく、支援者たちまで背筋を伸ばす。
エルガーはオスカーへ礼をし、セリナにも礼をした。
「支援品は、起動式前に受け取り手を名簿で照合します。外縁では部隊の移動が速く、療養棟、予備扱いの荷、復帰準備者の名簿に入った兵が同じ朝に入れ替わることもございます。誤って届けば、ご家族の心も、兵の心も傷つきます」
「トマス・ベルンの包みは」
セリナはすぐに聞いた。
エルガーの目元に、浅い皺が寄った。
「ベルン家からのお包みは、確認済みです。手袋、干した果物、娘さんの絵。絵は折れないよう、薄板に挟んでおります」
セリナの手が外套の端を掴んだ。
彼は覚えていた。
マルタの名も、包みの中身も、娘の絵も。
セリナの口は、礼を言う形に開きかけて止まった。
「本人へは、いつ」
「名簿照合の後、必ず」
エルガーは同じ温度で答える。
「明日の朝です」
エアリスは名簿照合区画を見た。
絵が挟まれているらしい薄板は、布の下にある。見えない。だが、床の赤い線は、そこから火環起動壇の小さな火皿へ伸びていた。
近くで、若い復帰兵が一人、支援品置き場へ近づこうとして止められた。
「すぐ返されるなら、今受け取りたい」
兵はそう言った。
赤炉会職員は困った顔で首を横に振る。
「明日の名簿照合後に、必ずお渡しします」
「俺のだ」
「分かっています」
「なら」
軍務局兵が間に入った。
「起動前の支援品へ触れるな」
復帰兵は歯を食いしばった。
すぐに謝った。
怒鳴りはしない。暴れもしない。ただ、支援品置き場の方を見たまま、補助具を握り直した。
セリナは彼の顔を覚えた。
名前はまだ知らない。
その時、炉区の反対側が大きく開いた。
皇室旗が入ってくる。
ライオネルが先に姿を見せた。今日の広場とは違い、表情を固くしている。その後ろに上皇側近、帝国青年協賛会の役員、軍務局の儀礼官が続く。
さらに奥、護衛に囲まれた車椅子が止まった。
ヴォルフラム・レグナルト・アルディオン上皇は、車椅子から立ち上がった。
誰かが手を貸そうとする。
彼はそれを退けた。
立ち上がるまでに、息一つ分の間があった。
だが、立ってからの姿は崩れない。白くなった髪を後ろへ流し、古い火傷のような赤い筋が首元に残っている。老いは隠せていない。隠す気もないのかもしれない。
炉区の者たちが、一斉に膝をついた。
オスカーは礼を取る。
バルドゥールも深く頭を下げた。
ライオネルは上皇の少し後ろに立ち、拳を胸元へ置く。
ヴォルフラムは火環起動壇を見た。
「魔淵は、祝辞では止まらぬ」
声は低い。
それでも、炉区全体へ届いた。
「名を刻むだけでも、涙を拭うだけでも止まらぬ。壁を立て、火を継ぎ、戻る者を戻し、進む者を進ませる。それを怠れば、帝国の子は門の内側でも眠れなくなる」
誰も言葉を挟まない。
その言葉には、嘘だけではないものがあった。
セリナはそれを聞いた。
父の横顔も見た。
オスカーは上皇から目を逸らしていない。
ヴォルフラムはライオネルへ視線を移す。
「若い火を掲げよ。だが、火は飾りではない。手を焼かれる覚悟のない者に、炉は任せられぬ」
ライオネルの拳が、わずかに強くなる。
その後ろで、エルガーが静かに礼をした。
ヴォルフラムの目が、名簿照合区画へ向く。
「家族の名も、兵の名も、明日の火で乱すな」
エルガーは頭を下げる。
「心得ております」
赤炉会の職員たちは、同じ角度で頭を下げた。
ヴォルフラムが退いても、誰もすぐには動かなかった。最初に鳴ったのは、整備兵が受け止めた工具の小さな金属音だった。
レナートが、赤い識別紐の盆を見た。
「私は結びません」
バルドゥールが彼を見る。
「ヴァルトシュタイン公」
「中立監察の手首へ、どちらの術式も結ばない」
レナートは名簿照合区画へ視線を移す。
「明日の朝、起動前に内側を見ます。許可されない場合、私は臨時議会へ、見ないままでは判断しないと伝える」
バルドゥールの口元が硬くなった。
エルガーは何も言わない。
セリナは火環起動壇の床に走る赤い線を見ていた。
支援品置き場。
献火札の箱。
赤い激励布。
小さな火皿。
整備兵が試験起動を告げる。魔導柱の根元に、薄い火が灯った。
炎は高く上がらない。
床の赤い線だけが、ゆっくり明るくなる。
布の端からのぞいていた薄板が赤く染まり、紙の端にある線だけが一瞬浮いた。




