第七十四話:第二皇子の火
帝国青年協賛会の臨時宿舎前には、広場があった。
宿舎と呼ばれているが、実際には臨時の集会所に近い。外縁へ向かう若い兵、貴族の子弟、補助隊候補、軍務局の伝令が行き来し、壁には各方面隊の小旗が並んでいる。
その中央に、ライオネル・ヴァルター・アルディオンが立っていた。
本人を見るのは、セリナにとって初めてではない。
けれど、今日の彼は食卓や支援相談会の書面で触れていた第二皇子ではなかった。赤金の髪を短く整え、琥珀色の瞳で広場を見渡している。礼装は皇族らしいが、腰の剣と肩の軽甲は飾りだけではない。
彼の声は、思ったより通った。
「外縁へ向かう者を、帝国は忘れない」
若い兵たちが顔を上げる。
「戻る者にも、戻らぬ者にも、名がある。だが、名を守るには火が要る。壁が要る。今日ここに集まった者は、その火をつなぐためにいる」
セリナは広場の端で聞いていた。
隣にエアリスがいる。
オスカーは少し離れ、軍務局の士官と話している。バルドゥールの姿はないが、彼の兵は広場の周囲にいた。
ライオネルの言葉に、若い兵たちは素直に反応した。
拍手も大きい。
壇を降りる直前まで、若い兵たちの目は彼を追っていた。
人前で立つ訓練を受け、兵の欲しい言葉を知り、若い者たちに自分を見上げさせる温度を持っている。
拍手の後、ライオネルは壇を降りた。
軍務局の者たちが周囲を整える。若い貴族が次々と挨拶に近づく。マティアスは少し大げさに礼をし、クラリッサは距離を読みながら控えめに言葉を置く。ヘルムートは短く軍礼をしただけだった。
ライオネルはそれぞれに返した。
笑顔はある。
だが、全員に同じ笑顔ではなかった。
ヘルムートには、外縁訓練の具体的な区画を尋ねた。クラリッサには、支援相談会の手伝いで混乱がなかったかを聞いた。マティアスには、少し長めの励ましを渡した。
セリナの番が来る。
彼は先に礼をした。
「セリナ嬢。アイゼンロートまで来ていただけたこと、嬉しく思います」
「グランツベルク家として参りました」
ライオネルはその返しを受け、すぐには笑わなかった。
「その言い方をされると、僕が少し困る」
「困らせるつもりはありません」
「分かっている。だから、余計に困る」
周囲にいた若い貴族たちが、靴一足分ずつ距離を取った。
完全に私的な場ではない。だが、近すぎる者は会話を聞ける。そういう距離だった。
ライオネルはエアリスにも礼をする。
「ヴァレン嬢。聖都からの旅路、お疲れではありませんか」
「大丈夫です」
「帝国の外縁は、聖都とはずいぶん違うでしょう」
「はい」
エアリスは広場の端へ目を向けた。
義肢の兵が、若い補助隊候補へ歩き方を教えている。遠くでは、赤炉会の職員が水袋を配っていた。
「違います。けれど、ここで働く人は多いです」
ライオネルは一瞬、エアリスを見直した。
「そう見てくださるなら、ありがたい」
セリナは彼の顔を見た。
上皇派の旗。
縁談候補。
名代の祝辞。
そういう肩書きや意味が、彼の周りにいくつも置かれていた。だが、本人は紙の上の名だけではない。
だから、言葉を選ばなければいけなかった。
「殿下は、支援品の名簿照合をご覧になりましたか」
セリナが尋ねると、ライオネルの笑みがそこで止まった。
「支援相談会の窓口は見た。炉区の名簿照合は、明日の起動前に確認する予定だ」
「家族からの包みが、療養棟を通らず炉区へ入っています」
ライオネルの視線が、広場の奥へ流れた。
「軍務局と赤炉会からは、誤配送を防ぐためと聞いている」
「それを信じていますか」
ライオネルは返事の前に、手袋の指先を揃えた。
「信じたい」
マティアスが遠くで顔を上げた。
ライオネルは続ける。
「信じたい、と言うべきだろう。外縁は信じるものが多すぎる。軍務局を、赤炉会を、上皇陛下を、兵の覚悟を。疑いだけでは壁は立たない」
「疑わないままでも、壁は歪むと思います」
セリナの声は低い。
ライオネルは彼女を見た。
「君は、支援相談会で書いたそうだね。帰る人を、失わぬように」
セリナの手が外套の縁に触れる。
「はい」
「良い言葉だ。だが、上手く使われる言葉でもある」
セリナは黙った。
ライオネルは口元だけをわずかに歪めた。
「僕の言葉も、そうだ」
クラリッサが目を伏せる。マティアスは口を開きかけたが、飲み込んだ。
「殿下は、ご自分が使われているとお思いですか」
エアリスが尋ねた。
ライオネルは、彼女を見た。
怒らなかった。
「旗は、掲げられるものだ」
彼は言った。
「だが、風を受けるだけの布で終わるつもりはない」
エアリスはライオネルの後ろに並ぶ旗を見た。
「では、明日、旗の下に置かれる物も見てください」
ライオネルの手が、剣の柄ではなく、手袋の縫い目に触れた。
「見る」
セリナはその返事を聞いた。
信じたわけではない。
だが、覚えた。
ライオネルは少し声を落とす。
「セリナ嬢。明日の起動式で、僕の近くに立ってほしい」
周囲の視線が集まる。
「婚約や誓約の話ではない。だが、グランツベルク家の若い世代が外縁防衛を支える姿を見せられれば、余計な疑いを抑えられる」
「どちらの余計な疑いですか」
セリナは聞いた。
ライオネルは返事に詰まらなかった。
「僕が帝国を背負えないという疑いと、君たちが防衛を妨げるという疑いだ」
「その二つは、同じ場所に置けません」
セリナははっきり言った。
「私は明日、グランツベルク家として見ます。殿下の近くに立つことで、見えるものが減るなら、立てません」
マティアスが半歩動いた。
ライオネルが手で止める。
「君らしい答えだ」
「そうでしょうか」
「たぶん、兄上なら、もっと早く予想していた」
ユリウスの名は出さなかった。
それでも、誰のことかは分かった。
ライオネルの言葉は硬くなっている。
セリナはその硬さを聞いた。
「私は、殿下方を比べるために来たのではありません」
ライオネルの視線が一度、広場に引かれた歩行訓練用の線へ落ちた。
「そうか」
彼は広場を見た。
若い兵が、義肢の兵へ水袋を渡している。渡された兵は礼を言い、すぐにまた歩行訓練の列へ戻った。
「それでも、帝国は比べる。誰が先に立つか、誰が遅れたか、誰の名で火が灯るか」
呼び声がかかった。
上皇側近の紋章をつけた文官が、広場の入口で待っている。
「ライオネル殿下。前夜確認のお時間です」
ライオネルはセリナへ礼をした。
「明日、火環起動壇で」
「はい」
彼は去っていく。
背中はまっすぐだった。
その背に、まだ誰の影を背負っているのか、広場の赤い灯りだけでは分からなかった。




