第七十三話:黒鋼公の境界
黒鋼整備廠は、白煙療養棟より音が多かった。
鉄を叩く音。魔導炉の低い唸り。装甲板を動かす鎖の響き。遠くでは、補助義肢の調整に使う細い工具が、硬い金属を軽く叩いている。
ここにも赤炉会の印はあった。
だが、療養棟ほど前には出ていない。工房の壁際、支援用義肢の交換部品の棚、負傷兵用の補助具置き場。赤い炉の印は、そうした場所に控えめに貼られている。
入口脇では、工房兵が木箱の札を付け替えていた。
白い札には、白煙療養棟戻し、と書かれている。その上から、赤い縁のある薄札が重ねられた。第九外縁炉区、起動前照合。筆跡は違う。工房兵は一瞬だけ手を止め、横に立つ赤炉会職員を見た。
職員は笑っていなかった。
「手順どおりです」
工房兵は小さく頷き、釘を打った。音は一度だけ高く響き、すぐに炉の唸りへ混ざった。
セリナの指が、外套の留め具に触れた。箱が閉じられる音は、療養棟の扉が閉まる音より乾いていた。
整備廠の入口で、また止められた。
今度は少佐ではない。門の士官より上の階級らしい男が、黒い手袋をはめたまま通路の中央に立っていた。
「この先は起動式準備資材の管理区域です」
オスカーは歩みを止めない。
「見れば分かる」
「閣下にもお通しできません」
「通せ」
士官の背後で、工房兵が動きを止める。
その時、奥の扉が開いた。
重い靴音が近づく。
バルドゥール・グライフェンベルクは、護衛を前に出さなかった。
本人が先に歩いてきた。
黒鋼を思わせる礼装軍服。肩に重い外套。髪は短く、灰を噛んだ鉄色に近い。顔には古い傷が一筋あり、それを隠すつもりはないらしい。
四大公爵の一人。
立っているだけで、周囲の声が小さくなる。
「グランツベルク公」
バルドゥールは低く言った。
「療養棟の次は整備廠か。ずいぶん熱心だ」
「熱心にさせたのは、そちらの門だ」
オスカーも同じ低さで返す。
バルドゥールの視線が、セリナへ移った。
「若い者が現場を見たがるのは悪くない。だが、ここはサロンでも学術院の演習場でもない」
セリナは礼をした。
「承知しております」
「承知している者は、安全区域の手前で止まる」
「安全区域の外からでは、支援品がどこへ行くか見えませんでした」
近くの工具音が途切れた。
バルドゥールはセリナを見たまま、笑わなかった。
「支援品か」
「はい」
「靴下、手袋、菓子、手紙、子どもの絵。外縁の兵は、そういうもので立ち直ることもある。赤炉会はそれを知っている。軍務局も知っている」
「なら、本人へ届くところまで見せてください」
セリナの声は震えなかった。
バルドゥールの手袋が、外套の端を押さえた。
「君が見たいものだけを見せるために、外縁は動いていない」
オスカーが一歩前へ出た。
「娘を責めるなら、私に言え」
「責めてはいない。外縁の重さを教えている」
バルドゥールは工房の奥へ手を向けた。
装甲板が吊られ、魔導車の腹部が開かれ、兵たちが汗を流している。壁には、壊れた義肢、曲がった剣、焦げた盾が並んでいた。飾りではない。修理待ちの品だ。
「この都市は、毎日誰かを戻し、毎日誰かを送り出す。手順が乱れれば、死ぬのは兵だ。貴族の不安ではない」
彼は外縁第三列の欠員、今朝戻った装甲車の台数、義肢調整待ちの兵の数を、紙も見ずに言った。
迷いはない。数字はすぐに出る。
だが、焦げた盾の下に付いている名札へは、目を落とさなかった。
セリナはその壁を見た。
焦げた盾の一つに、持ち主の名札がついている。灰で半分読めない。
その下に、交換待ちの義肢が三本並んでいた。一本には、まだ包帯の切れ端が絡んでいる。別の一本には、子どもの字で書かれた小さな紙が挟まっていた。
おとうさんへ。
そこまでしか読めなかった。工房兵が慌てて紙を外し、近くの箱へ戻す。責められたわけでもないのに、彼は唇を噛んだ。
「不安だけで来たのではありません」
彼女は言った。
「戻るはずの人の名が、別の場所で使われるのを見たから来ました」
バルドゥールの外套の端が、炉の風でわずかに揺れた。
「言葉が強くなったな、グランツベルクの娘」
セリナは返さない。
エアリスは、バルドゥールの横顔を見た。
声は荒れない。
彼の視線はセリナに止まり、次にオスカーへ移り、最後に扉の外へ立つ護衛の数を数えた。
工房の入口がまた騒がしくなる。
別の一行が入ってきた。
先頭の男は、派手な礼装を着ていなかった。濃い鳶色の髪を後ろへ流し、灰緑の瞳で周囲を見ている。年齢はオスカーやバルドゥールより若くも見えるが、立ち方に軽さはない。
レナート・ヴァルトシュタイン。
中立の公爵。
彼が姿を見せると、バルドゥールの周囲の兵が一斉に姿勢を正した。
「遅れましたかな」
レナートは淡々と言った。
「いや。ちょうどいいところだ」
バルドゥールの声には、歓迎の色がなかった。
レナートはそれを気にした様子もなく、整備廠の奥を見た。
「白煙療養棟の家族便が、第九外縁炉区へ直接入ったと聞きました」
セリナは、彼を見た。
誰が伝えたのか。
レナートの後ろに、イザーク・ヴァルトシュタインの姿があった。若い中立派の青年は、小さな伝令書を手にしたまま、目を伏せずにこちらへ礼をする。
伝令書の端には、白煙療養棟の印があった。急いで渡されたものなのか、封蝋の片側が少し欠けている。イザークの手袋には、赤い粉ではなく、白い治療蒸気の湿りが残っていた。
セリナは伝令書から目を離さなかった。
炉区の紙ではない。療養棟から出た紙だ。誰かが、あの場でレナートへ言葉を渡している。
バルドゥールは腕を組む。
「起動式前の名簿照合だ」
「名簿照合に、赤炉会の献火札と家族便が同じ炉区へ入る理由を確認したい」
レナートの声は平らだった。
「私は、どちらの陣営にも立っておりません。だからこそ、明日の式が始まる前に見る必要があります」
バルドゥールの側近が、安全識別用の赤い紐を盆に載せて進み出た。
「ヴァルトシュタイン公爵閣下。炉区外側へ入られる場合は、こちらを」
レナートは紐を見た。
「いらない」
側近の手が止まる。
「識別がない者は、起動式手順の外へ置かれます」
「なら、外の者として見る」
レナートは赤い紐を受け取らなかった。
「中へ入る資格を借りてしまえば、見えなくなるものがある」
盆を持つ側近が、一度だけバルドゥールを見た。許可を求める目だった。工房兵の釘打ちも止まる。
「中立を名乗る者ほど、火がつく前に水を差したがる」
「火が正しく炉に入っているなら、水はかけません」
バルドゥールの視線が鋭くなる。
レナートは表情を変えない。
「第九外縁炉区の外側ではなく、名簿照合区画と支援品の置き場を見ます」
「今は準備中だ」
「準備中だから見ます」
工房の中で、魔導炉が低く鳴った。
ユリウスの旗はない。
ファルケンラート公爵家の伝令もいない。
セリナは父と二人の公爵の間に立っていた。学術院の学生証は胸元の内側にあり、グランツベルク家の紋章は外套の留め具に出ている。
オスカーが言った。
「我々も同行する」
バルドゥールは彼を見た。
「グランツベルク公。これ以上、娘を前に出す必要があるのか」
「前に出したのではない」
オスカーの声は、低く、硬く落ちた。
「向こうが、娘の名を先に置いた」
バルドゥールはしばらく黙った。
それから、背後の士官へ命じる。
「外側監察回廊を開けろ。内側へは入れない」
士官が動く。
鎖が外される音がした。
重い扉は、全部は開かなかった。
一人ずつ通れる幅だけ、黒い隙間ができる。
レナートはそこを見た。
「記録に残しましょう。今日は外側。明日の朝、起動前に内側を見る」
バルドゥールは答えなかった。
扉の向こうから、赤い光が漏れている。
白煙療養棟で消えた箱が、その先にあるのだと、誰も言わなかった。




