第七十二話:白煙療養棟の名
白煙療養棟は、名の通り白い煙を上げていた。
治療用の蒸気だと、案内役の軍医は言った。薬草を混ぜた浄化水を魔導炉で温め、義肢の接合部や魔力傷を洗う。だから、棟の外壁には煤よりも白い湿り気が残る。
軍医の名は、イレーネ・ハイゼ。
黒髪を後ろで短くまとめ、白い外衣の袖を肘まで上げている。貴族相手の礼より、包帯を替える手順の方が先に来る人物だった。
「視察は構いません」
彼女はオスカーへ礼をした後、すぐに言った。
「ですが、治療を止める指示は受けません。患者に質問する場合、私が止めたらそこで終わりです」
オスカーは顎を引いた。
「それでよい」
セリナは、軍医の顔を見直した。
帝国の療養棟で、公爵に対してここまで言い切る者は多くない。だが、周囲の看護兵たちは驚いていなかった。包帯台の上で、誰かが淡々と鋏を置いた。
棟の中は、外より静かだった。
静かにしろと言われているからではない。痛みを抱えた者が多い場所の、自然な声の低さだった。寝台の間を、看護兵が歩く。奥では義肢魔導具の調整台が並び、金属の小さな音が時折響く。
赤炉会の職員もいた。
水を運び、義肢の革紐を交換し、手紙を自分で読むのが難しい兵へ家族からの手紙を読んでいる。読む声は低く、丁寧だった。聞いている兵は目を閉じ、途中で何度か紙を胸元へ寄せた。
セリナは足を止めた。
職員は手紙を読み終えると、兵へ紙を返した。兵は片手で受け取り、胸の上へ置く。
「ここでは、本当に助けているのですね」
セリナの声は、誰に向けたものでもない。
イレーネは振り返らないまま答えた。
「助けなければ死にます」
短い言葉だった。
セリナは口を閉じた。
療養棟の奥へ進むと、外縁復帰準備者の訓練区画に出た。
広い床に白い線が引かれ、歩行補助具を使う兵たちがゆっくり進んでいる。腕を失った者、足を片方だけ魔導義肢に替えた者、背中に補助板を付けた者。全員が同じ速さではない。途中で立ち止まる者もいる。
だが、指導官の声は荒くなかった。
「そこまで。戻れ。次は半歩狭く」
セリナは、その列の中に見知った顔を見つけた。
「トマスさん」
声は抑えたつもりだった。
それでも、近くの兵がこちらを見た。
トマス・ベルンは、補助具から手を離して礼を取ろうとした。イレーネがすぐに止める。
「礼は要らない。腰を崩す」
トマスは苦笑した。
口元は上がったが、頬までは動かなかった。
「セリナ様。こちらへ」
「無理に話さなくていいです」
「いえ。外縁へ戻る者として、ご挨拶を」
語尾まで崩れず、訓練場の号令に合わせたように収まった。
セリナは、彼の足元を見た。義肢の接合部に新しい布が巻かれている。まだ皮膚に合っていないのか、布の端が赤く湿っていた。
イレーネがそれを見て、指導官へ合図する。
「ベルン、今日の歩行は終わり。座りなさい」
「まだ」
「座りなさい」
トマスは従った。
椅子に腰を下ろした瞬間、肩が落ちた。式場で見たような力強さが、そこで一度切れた。
セリナは膝を曲げ、彼と目線を合わせる。
「マルタさんが、支援品を預けていました」
トマスの顔が動いた。
「マルタが?」
「手袋と、干した果物と、娘さんの絵だそうです」
トマスの指が膝の上で曲がった。
「娘の」
その声は、さっきの整った挨拶とは違っていた。
イレーネも聞いていた。彼女は近くの看護兵へ二語三語尋ねる。看護兵は記録棚ではなく、入口側の荷置き場を見た。
「まだ届いていません」
看護兵が答える。
「本日の家族便は、療養棟へ来ていません」
セリナは立ち上がった。
「支援相談会では、外縁予備品枠の箱に入れられていました」
イレーネの眉がわずかに動いた。
「家族からの個人物は、通常ならここで確認します。復帰予定の兵ならなおさら」
「最近、変わったのですか」
エアリスが尋ねる。
イレーネはすぐには答えなかった。
治療台の向こうで、赤炉会の職員が薬瓶を並べている。その手は変わらず丁寧だった。
「起動式に関わる復帰予定者については、一部の荷が第九外縁炉区で名簿照合を受けるようになりました」
「名簿照合」
セリナが繰り返す。
イレーネは棚から包帯を取る。
「荷物の持ち主と受け取り手を間違えないため、と聞いています」
トマスは黙っていた。
娘の絵という言葉だけが、まだ彼の手の中に残っているようだった。
エアリスは彼の顔を見た。
「手紙には、何と書きましたか」
トマスは少し迷った。
「帝国のため、家族のため、火を絶やさず……」
そこで、彼の声が止まった。
イレーネが彼を見る。
トマスは額に手を当てた。
「いや。違う。マルタには、あまり心配するなと書いた。娘には、絵を待っていると……書いた、はずです」
セリナは彼の手元へ視線を落とした。
指が震えている。
訓練の疲れだけではない。
入口側が少し騒がしくなった。
看護兵が扉を開け、荷車を通す。細い赤線入りの札が結ばれた箱が二つ、療養棟の横廊下を通っていく。
白煙療養棟へ入る荷ではない。
中庭を抜けて、第九外縁炉区へ向かう廊下だった。
セリナは歩き出した。
護衛長がすぐに並ぶ。エアリスも続いた。
横廊下の入口で、軍務局兵が手を上げる。
「この先は安全区域です」
「その箱は、家族からの支援品ですか」
セリナが問う。
兵は答えを探すように、箱ではなく自分の横にいる赤炉会職員を見た。
職員が礼をする。
「外縁復帰準備者の方々へ届ける品です。名簿照合の後、必ずご本人へ」
「トマス・ベルンの家族からの包みも、この先ですか」
「個別名はここでは」
「答えられないのですか」
職員の笑みが薄くなる。
「扱いに誤りがないよう、炉区でまとめて確認いたします」
セリナの後ろで、イレーネが足を止めた。
「炉区で確認した後、療養棟へ戻りますか」
職員は医者の方へ視線を移した。
「起動式支援品として、所定の順に」
「戻るとは言わないのね」
イレーネの声は低かった。
軍務局兵が前へ出る。
「ハイゼ軍医。安全区域です」
「患者の家族便よ」
「命令です」
箱の一つが、横廊下の向こうへ進む。
セリナは追わなかった。
追えば、ここで止められる。止められたという記録だけが残る。
彼女は箱の角に結ばれた札を見た。
細い赤線。
小さな番号。
支援相談会で書き留めたものと同じだった。
エアリスはカバンの上へ手を置いた。
アキは何も言わない。
箱は角を曲がり、見えなくなった。
療養棟の奥から、トマスの咳が聞こえた。




