第七十一話:黒鋼門の下で
最後の軍用中継陣を抜けた時、帝都の赤い灯りはもうどこにも残っていなかった。
足元の石は黒い。表面には古い焼け跡のような筋が走り、魔導陣の縁だけが鈍く赤く光っている。空気は乾いていた。遠くで、鉄を叩く音が聞こえる。
セリナは外套の前を押さえた。
寒いわけではない。
匂いが違った。
煤、薬草、油、乾いた土、魔力を帯びた金属。それらが一度に混ざり、息を吸うたびに喉の奥へ残る。
係官が軍礼を取った。
「アイゼンロート外縁防衛都市、第三中継陣です。ここから黒鋼門までは魔導馬車で移動していただきます」
オスカーは返礼だけをした。
グランツベルク家の馬車は、すでに用意されていた。帝都から乗ってきたものとは違う。窓は細く、車体の外側に薄い装甲板が重ねられている。紋章はあるが、飾りではなく識別のための大きさだった。
エアリスは乗り込む前に、中継陣の外を見た。
遠くに壁がある。
城壁というより、山の側面を切り取って立てたような黒い線だった。上には監視塔が並び、塔と塔の間を赤い光が走っている。そのさらに向こうに、空が暗く沈んでいた。
「あそこが」
「黒鋼門よ」
セリナが答えた。
声に、いつもの案内の明るさはない。けれど、説明のために無理に整えた声でもなかった。
「アイゼンロートの外側の門。魔淵に一番近い門ではないけれど、ここを抜ければ、外縁防衛線の空気になる」
馬車が動き出した。
道は広い。左右を装甲魔導車が行き交っている。荷車も多かった。薬箱、補修用の鉄材、折り畳まれた担架、浄化水の樽。どの荷にも軍務局の札があり、いくつかには赤炉会の小さな印もついていた。
途中、退避路の横を通った。
小さな子どもを抱いた女性が、門の方ではなく内側へ歩いている。反対側では、若い兵が笑いながら荷を押していた。笑い声は明るいが、道の端には、足を失った兵を乗せた担架もあった。
同じ道を、どちらも通る。
セリナは窓から目を離さなかった。
道の途中に、小さな受付小屋があった。
木の柱に白い布が巻かれ、赤炉会の印と軍務局の番号札が並んでいる。扉の前では、年配の女が布包みを両手で抱えていた。包みは大きくない。片手で持てるほどだ。だが、彼女は両腕で押さえ、兵に何度も頭を下げている。
「白煙療養棟へ届けたいんです。孫が、明日戻るって」
兵は困った顔をした。
「本日の家族便は、炉区側でまとめて受けます。ここでは預かれません」
女の後ろにいた赤炉会の若い職員が、すぐに一歩出た。声は柔らかかった。
「こちらで番号を控えます。お名前と、届け先の隊をもう一度お願いします」
女は包みを離さないまま、言われた通り名を告げた。職員は丁寧に書き取り、最後に赤い縁の小札を包みへ結ぶ。女は礼を言った。兵も、職員も、雑ではない。
だから余計に、どこへ運ばれるのかが見えなかった。
エアリスは、その結び目の形を目で追った。支援相談会の窓口で見た札と、端の折り方が同じだった。
馬車の前方で、護衛長が低く告げる。
「黒鋼門、間もなくです」
門前には列ができていた。
入城待ちの軍用車両、赤炉会の支援馬車、工房の荷車、貴族用の小型魔導馬車。それぞれの列に係官がつき、札と印を確認している。
グランツベルク家の馬車が近づくと、係官たちの動きが変わった。
列の先で、一人の軍務局士官が待っていた。
黒い軍服。襟元に銀線。年は三十代半ばほどだろう。痩せているが、姿勢は固い。腰の剣よりも、手に持った通行板の方へ自然に意識が向く人物に見えた。
「ローレンツ・ギード少佐です。黒鋼門の入城確認を担当しております」
オスカーが馬車を降りると、少佐は深く礼をした。
「グランツベルク公爵閣下。お待ちしておりました。貴賓監察用の東回廊をご用意しております。宿舎へ入られた後、午後に起動式説明を」
「白煙療養棟へ向かう」
オスカーの言葉で、少佐の口が止まった。
「閣下」
「その後、黒鋼整備廠を見る」
「本日の監察経路には含まれておりません」
「含めよ」
声は荒くない。
だが、門前の係官たちがそろって動きを止めた。
少佐は通行板を胸の前で持ち直した。
「白煙療養棟は現在、外縁復帰準備者の移送調整中です。黒鋼整備廠は起動式前の安全区域に入っております。貴賓監察の方々には、東回廊より式場外側の説明席へ」
「誰の命令だ」
「軍務局です」
「軍務局の誰だ」
少佐の指が通行板の端を押さえた。
「グライフェンベルク公爵閣下の調整を受けた、黒鋼門管制部の経路です」
バルドゥールの名は出なかった。
それでも、門前の空気は一段重くなる。
少し離れた列から、マティアス・エーレンフェルトの声が聞こえた。
「安全のためなら、まず説明席でもよろしいのでは?」
彼は帝国青年協賛会の車両のそばにいた。隣にはクラリッサもいる。ヘルムートは馬車に寄りかかり、何も言わずに門を見ていた。
セリナはそちらを見た。
「門で止められるほどなら、説明席より先に見る場所があります」
マティアスの笑みが半分だけ残った。
少佐がセリナへ視線を移す。
「セリナ様。白煙療養棟は見学に適した場所では」
「見学ではありません」
セリナは父の半歩後ろに立った。
「家としての視察です」
少佐は答えなかった。
その時、門の別列が開いた。
赤炉会の支援馬車が三台、先に通される。車体には丁寧な布がかけられ、側面には細い赤線入りの札が並んでいた。
外縁予備品枠。
セリナの目が、その札を追った。
馬車の一台が、門を抜ける直前に小さく揺れた。後部の布の隙間から、薄板に挟まれた紙が見えた。子どもの絵か、文字か、そこまでは分からない。
エアリスはセリナの横顔を見た。
声をかけなかった。
少佐はすぐに布の隙間へ手を伸ばし、支援馬車の係へ短く注意した。係は礼をして、布を直す。
手際はよかった。
慣れていた。
オスカーは少佐へ視線を戻す。
「この場で記録を取れ」
少佐の表情が動く。
「閣下」
「グランツベルク公爵家の視察対象から白煙療養棟と黒鋼整備廠を外す。理由は起動式前の安全区域。調整元はグライフェンベルク公爵家。実施は黒鋼門管制部。そう記録せよ」
門前の筆記係が、手を止めた。
少佐は通行板の角を押さえ、筆記係へ顎を引いた。
「記録しろ」
羽ペンが板を擦る。
その音が、妙にはっきり聞こえた。
オスカーは待った。
最後の字が書かれるまで、何も言わなかった。
少佐は通行板を閉じる。
「白煙療養棟は、軍医立ち会いの外側区画までであれば許可できます。黒鋼整備廠は、午後に再確認を取ります」
「今の記録も持って行け」
「承知しました」
筆記係は板を閉じる前に、門柱へ取り付けられた細い鐘へ目をやった。
黒い鐘だった。火災用でも、来客用でもない。門前の車列を一度に止めるための合図なのだろう。鐘の下には、赤い塗料で短い文が書かれている。
起動式前、無断通行を禁ず。
その文の下を、先ほどの支援馬車が通っていく。荷台の布は、今度は乱れていなかった。
門が開いた。
黒い鋼の門扉は、音を立てなかった。ただ、内側の赤い魔導灯が順に灯り、石畳の上へ細い線を引いた。
馬車は門を抜ける。
アイゼンロートの内側は、広かった。
門の内側は、外より一段高い通路になっていた。馬車は速度を落とし、黒い城壁に沿って短く回り込む。
その一瞬だけ、城壁の外が見えた。
赤い土の平原が、視界の端まで続いている。そこへ軍道が何本も伸び、補給車列が細い黒い点になって動いていた。遠くには低い砦の列があり、砦と砦の間では、赤い信号灯の光が糸のように続いている。さらに向こう、空と地面の境目だけが、煤を混ぜたように暗かった。
魔淵そのものは見えない。
けれど、そちらへ向かって帝国の道が何本も消えていく。地図で見れば一本の外縁防衛線でも、ここから見ると、砦、炉区、補給駅、療養棟、工房、兵の家族が住む小さな集落が、果てまで並んでいるのだと分かる。
「これでも、外縁の一部よ」
セリナが小さく言った。
案内ではなく、確認に近い声だった。
左に療養棟へ続く白い煙突の列。
右に工房街の黒い屋根。
正面奥には、赤い布で覆われた高い塔が見えた。塔の根元へ向かう道には、軍務局兵が二重に立っている。
道標には三つの文字が刻まれていた。
白煙療養棟。
黒鋼整備廠。
第九外縁炉区。
最後の一つだけ、赤い布で半分隠されていた。
セリナはその布を見た。
門の外で見た支援馬車は、白煙療養棟ではなく、赤い布のある道へ曲がっていった。




