第六十八話:若い火の席
壇上に上がった名代は、ライオネル本人ではなかった。
若い文官だ。整った軍礼をし、赤炉会への謝意、外縁防衛の重さ、帝国の若い世代に期待する言葉を述べる。
話し方は穏やかだった。
けれど、言葉の置き方はよく整っていた。
外縁を支える。
火を継ぐ。
家族の誇り。
帝国の未来。
会場の赤い布に書かれている言葉と、よく似ている。
セリナは黙って聞いていた。
拍手が起きる。傷病騎士も、遺族も、若い貴族も拍手をした。そこには本物の感謝もある。名代の言葉に励まされた者もいるだろう。
セリナの視線は、拍手する傷病騎士の手と、赤い布の文字の間で一度止まった。
拍手の後、赤炉会の職員が赤い布を中央へ移した。
布は長い。
すでに多くの言葉が並んでいる。筆跡は違う。だが、同じ語があちこちで繰り返されていた。
クラリッサが、筆を持ってセリナの前へ来る。
「セリナ様。ぜひ、こちらへ」
周囲の視線が集まった。
マティアスもそばにいる。ヘルムート・ヴァルデックは、腕を組んで少し離れた位置から見ていた。見学場でも見た青年だ。外縁防衛を口にする時だけ、声が少し強くなる。
反対側には、ディーナ・ファルケンラートが立っている。彼女は声を上げない。ただ、布の文字を見て、眉を寄せていた。
セリナは筆を受け取らなかった。
「書く前に、確認してもよろしいですか」
クラリッサは筆を持つ手を胸元で止めた。
「もちろんです」
「この布は、どこへ送られますか」
「外縁へ向かう方々へ届けられます」
「原本が?」
クラリッサの笑みが、一瞬だけ薄くなる。
「原本は会場側で保管し、写しを各隊へ送る予定です。多くの方へ届けるためですわ」
セリナは布を見る。
エアリスも、その言葉を聞いていた。
写し。
各隊。
誰が、どの言葉を、どこへ送るのか。
赤炉会の職員が控えめに説明を添えた。
「外縁では、隊ごとに励ましの言葉を掲げます。兵の心を支えるためです」
「献火礼と同じ場で使われますか」
セリナが尋ねると、職員は掲示欄へ視線を落とした。
「儀礼そのものではなく、支援の掲示です」
セリナは筆記板の欄を見た。
職員の筆記板には、掲示、支援、隊名の欄が並んでいる。儀礼という文字だけは、そこにない。
マティアスが軽く笑った。
「セリナ嬢、そこまで難しく考えずとも。外縁へ向かう兵を励ますだけの席ですよ」
セリナは彼を見る。
「難しく考えずに置いた言葉が、遠くへ行くこともあります」
周囲が静かになった。
ヘルムートが腕を組み直した。
クラリッサは、筆を持つ手を下げない。
「では、セリナ様のお言葉で整えていただければ」
断れば、冷たい。
書けば、使われる。
セリナは筆を受け取った。
エアリスは、彼女の横顔を見た。震えてはいない。だが、楽しんで書く顔でもない。
セリナは布の端に立った。
既に書かれた言葉の隣を避け、まだ空いている場所を選ぶ。
筆を下ろす。
その文字は、他の誰よりも短かった。
――帰る人を、失わぬように。
会場が静まった。
帝国のために。
火を絶やさず。
家族の誇りを胸に。
そうした言葉の中で、セリナの一文だけが、帰ることを先に置いていた。
マティアスは笑みを保とうとしたが、うまくいかなかった。
「セリナ嬢らしい、慎重なお言葉ですね」
「外縁へ向かう方々は、帰るためにも行くのだと思います」
セリナは筆を返した。
クラリッサは布の端を整えてから、礼をした。
「大切に写させていただきます」
「写す時は、このままお願いします」
クラリッサの指が止まる。
「もちろんですわ」
セリナは布から離れた。
そのままなら終わったはずだった。
だが、マティアスの視線がエアリスへ向いた。
「ヴァレン嬢も、一言いかがですか。聖都の学術院から見た帝国の外縁防衛を、ぜひ」
周囲がまた、エアリスを見る。
セリナがすぐ口を開きかけた。
エアリスは先に一歩出た。
「書く前に、私も確認してよろしいですか」
マティアスは少し驚いた顔をした。
「ええ、もちろん」
「私は帝国の人間ではありません。私の言葉も、同じように各隊へ写されますか」
「友人としてのお言葉ですから、励ましとして扱われるでしょう」
「どの名義で扱われますか」
マティアスは答えに詰まった。
クラリッサが代わりに言う。
「聖都からの友人として、でしょうか」
「それは、セリナさんの友人という意味ですか。それとも、聖都学術院の学生としてですか」
静かだった。
エアリスの声は大きくない。
けれど、近くにいる者には十分聞こえた。
クラリッサはすぐには答えない。
赤炉会の職員も、筆記板を持ったまま止まっていた。
「後ほど、書式に合わせて整えていただくことになります」
「では、今は書かない方がよいと思います」
エアリスはそう言って、一礼した。
誰かが小さく息を呑む。
マティアスは笑おうとした。
「慎重ですね、聖都の方は」
「はい」
エアリスは視線を布へ戻した。
「知らない場所へ届く言葉は、慎重にしたいです」
マティアスの笑みが、ほんのわずかに遅れた。近くの若者たちも、互いの顔を見た。
ディーナ・ファルケンラートは、遠くで組んでいた腕をほどいた。笑ったわけではない。けれど、目元の硬さがわずかに解けていた。
ヘルムートは腕を組み直す。
「外縁に行く兵は、言葉より補給を喜ぶ」
低い声だった。
マティアスが彼を見た。
「ヴァルデック卿、それは」
「事実だ。激励布も悪くはない。だが、靴底と薬袋の数を間違えるな」
会場の端で、年配の傷病騎士が小さく笑った。
赤炉会の職員が、すぐに頭を下げる。
「補給品の集計も進めております」
「ならいい」
ヘルムートはそれだけ言って黙った。
場が別の方向へ流れた。
セリナはエアリスの横へ戻り、小さく言った。
「助かった」
「私は、確認しただけです」
「それで助かる時があるの」
セリナの声はまだ硬い。けれど、さっきより息が通っていた。
赤い布はその後、職員の手で丁寧に巻かれた。
セリナの一文が書かれた端だけ、別の保護紙が挟まれた。
その扱いは丁寧だった。
けれど、他の言葉とは分けられている。
エアリスはそれを見た。
セリナも見た。
赤炉会の職員は、にこやかに言った。
「セリナ様のお言葉は、文字が擦れないようにいたします」
セリナは礼を返した。
「お願いします」
それ以上は言わない。
会場の別の場所では、支援品の窓口が開いていた。
家族から預かった包み、薬、手紙、替えの手袋。赤炉会の職員がそれらを受け取り、札を付けていく。
マティアスたちは、壇上の近くへ戻っていった。
クラリッサだけが、去る前にエアリスへ目を向けた。
「ヴァレン様は、本当に何も書かれないのですね」
「はい」
「残念ですわ。きっと、きれいな言葉を書かれると思いました」
「届く先が分からない言葉は、きれいでも困ります」
クラリッサは筆を持つ指を止めた。
それから、礼をして離れていった。
セリナは小さく笑った。
「今の、少し刺さったと思う」
「刺すつもりはありませんでした」
「知ってる」
エアリスは赤い布の置かれた卓を見た。
その横で、支援品の包みに次々と小さな札が結ばれていく。
同じ部屋の中で、言葉と荷物が仕分けられている。
どちらも、外縁へ向かう。
セリナはその窓口へ視線を移した。
「あっちも見る」
「はい」
二人は、人の列ができている支援品の窓口へ向かった。




