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鳥籠の令嬢は、神と悪魔を連れて世界の嘘を旅する ~政略結婚の前夜、地下牢で始まった神授物と邪教の巡礼譚~  作者: 0くるみ0
ガイア帝国編

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第六十六話:銀箱の前で

 小会議室の窓は、昼でも厚い幕で半分ほど閉じられていた。


 外から見れば、ただの客間に見える。だが、扉の内側には二重の封印があり、壁際にはグランツベルク家の護衛が二人立っている。机の上には黒い布が敷かれ、その中央に銀箱が置かれていた。


 箱は昨夜のままだ。


 封印布の上には、グランツベルク家の印が押されている。赤い蝋ではない。薄い銀色を帯びた封印材で、灯りを受けると硬く光った。


 セリナは、その箱から目を離せずにいた。


 エアリスは隣に座っている。口は開かない。昨日、自分が代わりに話さなかったのと同じように、今もセリナの言葉を待っていた。


 オスカーは上座にいない。


 彼は机の横に立ち、箱と扉の両方が見える位置にいた。公爵家の当主として客を迎える席ではなく、何かあれば自分が先に動くための立ち位置だった。


 扉の外で、護衛が名を告げる。


「ユリウス・オルフェン・アルディオン殿下」


 短い沈黙の後、扉が開いた。


 ユリウスは一人ではなかった。後ろに二人、皇室側の護衛がついている。だが、彼らは部屋の中へ深く入らず、扉のそばで止まった。


 ユリウスは机の前で礼を取る。


「招いていただき、感謝します。グランツベルク公」


「こちらが呼んだ。礼は不要です」


 オスカーの声は低かった。


 ユリウスは席に座る前に、銀箱を見た。


 すぐに手を伸ばさない。


 それを見て、セリナの肩から力がわずかに抜けた。


「箱はこの部屋から出さない」


 オスカーが言った。


「中身を見ることは許す。ただし、持ち出しは認めない。写しも、私の前で取る」


「承知しました」


 ユリウスはすぐ答えた。


 その返事が早すぎたため、セリナは彼を見た。


「最初から、持ち帰れるとは思っていなかったのですね」


「思っていない。君の父上は、そこまで甘くない」


「殿下も、そこまで甘くないでしょう」


「だから、この席に来た」


 ユリウスは椅子へ腰を下ろした。


 記録係が結晶板を置く。護衛長も壁際に立った。アキはカバンの中にいる。いつもの軽口はなかった。


 ユリウスは、そこでエアリスへ視線を向けた。


「ヴァレン嬢も、このまま同席でよろしいのですか」


「私が認めた」


 オスカーが答えた。


「娘の同行者で、昨夜の目撃者だ。大主教閣下の保護下にある学生でもある。グランツベルク家が同席を保証する」


 ユリウスはうなずいた。


「なら、皇室側も異議はありません。むしろ外せば、昨夜見たものの半分が欠ける」


 セリナは、膝の上で手を握った。


 エアリスは頭を下げる。


「見たものは、必要な範囲で話します」


「それでいい」


 ユリウスは銀箱へ視線を戻した。


 オスカーは封印布の端へ指を置いた。


「開ける」


 誰も返事をしなかった。


 布が外される。


 銀箱の蓋が、細く鳴った。


 中には、白い保護紙が敷かれている。その上に、赤黒い欠片が一つだけ載っていた。指先ほどの大きさの、壊れた献火札。


 焼け残りの木片にも見える。


 だが、近くで見ると、断面に細い赤い線が残っていた。木目ではない。札の表面に引かれていた線が、折れた内側まで染み込んでいる。


 ユリウスは身を乗り出した。


 それでも、触れない。


「この大きさで残ったのか」


「灰落としの溝に落ちていました」


 セリナが答える。


「職員は気づいていません」


「落ちたものを拾えたのは偶然か」


「偶然です」


 セリナは言い切った。


 ユリウスの視線が一瞬だけエアリスのカバンへ向く。


 エアリスはその視線を受けて、静かに言った。


「拾う時だけ、アキさんに手伝ってもらいました」


「直接触れていない?」


「はい」


「賢明だ」


 ユリウスはそこで言葉を止めた。


 彼の前に、オスカーが細い銀の棒を置いた。鑑定具だろう。先端に小さな石がついている。


「殿下の道具ではない。こちらの道具を使っていただく」


「構いません」


 ユリウスは銀の棒を受け取り、欠片の上にかざした。


 石の色が変わる。


 最初は赤。


 次に、灰色。


 最後に、ほんの一瞬だけ青黒く沈んだ。


 セリナが息を止める。


「今のは」


「火神儀礼だけでは出にくい」


 ユリウスは棒を戻した。


「ただし、これだけでは何も言えない。外縁用の防護材、精神安定の補助術式、あるいは別の神殿由来の混合儀式だと言われれば、否定し切れない」


「そんな言い逃れが通るのですか」


 セリナの声が低くなる。


 ユリウスは彼女を見た。


「通るように作っている」


 セリナは言葉を失った。


 オスカーが箱の脇へ、昨夜の記録結晶を置く。


「記録もある。赤炉会職員、軍務局兵、同意書、札処理、赤い粉、無記名の箱」


「見せてください」


 ユリウスは記録を見た。


 結晶板の中に、暗い地下室が映る。格子越しのため、文字は粗い。人影、箱、火皿、赤い札、軍務局の印。見えるものは多いが、決定的な文字は少ない。


 ユリウスは最後まで見てから、結晶板を戻した。


「公の場では足りない」


 セリナは机を叩かなかった。


 ただ、膝の上の手が強く握られた。


「これでも?」


「これでもだ」


 ユリウスの声は揺れない。


「旧補給倉庫へ、許可された範囲を越えて近づいた。旧炉区下の通路に入った。相手はそう言う。記録に映っている箱は、軍務局と赤炉会が共同で扱う外縁慰霊用品だと言い張るだろう。同意書は本人の筆跡だと言う。札は防衛陣に必要な精神安定具だと言う」


「殿下は、それを信じるのですか」


「信じていない」


「なら」


「信じていないことと、議会で折れる証拠は別だ」


 セリナは唇を噛んだ。


 エアリスは、ユリウスの手元を見た。彼の指は紙を探していない。持ってきたものをすぐ出そうとしていない。まだ、出すかどうかを選んでいる。


「殿下は、他にも何か持っていますね」


 エアリスが言うと、ユリウスは彼女を見た。


「ある」


 否定しなかった。


「出せますか」


「一部だけ」


 ユリウスは懐から薄い紙束を出した。


 封筒ではない。折り目のついた紙を、黒い紐でまとめただけだった。彼はその中から一枚を抜き、机に置く。


 そこには、名前の欄が並んでいた。


 だが、いくつかの欄は墨で塗られている。


 塗りつぶしではない。後から写しを取る時、そこだけ写らないようにされたような抜け方だった。


 セリナはその紙を見た。


「これは」


「火環起動式の準備名簿の写しだ。正本ではない」


「起動式……」


 セリナの声がさらに低くなる。


 エアリスも、その言葉を覚えた。


 起動式。


 魔淵外縁安定化計画は、資料上ではすでに何度も見ている。だが、式という形で人前に出るとなれば、単なる軍務の処理では済まない。


「公には、外縁防衛陣の再調整と新編補助隊の出征前儀礼だ」


 ユリウスは紙から手を離した。


「ライオネルの名も使われる。ヴォルフラム上皇の臨席は、まだ確定していないことになっている」


「なっている?」


 セリナが問う。


「確定していないと書かれている時ほど、席は用意されている」


 オスカーが低く言った。


 ユリウスは名簿の写しを机へ伏せた。


「その席に、赤炉会の支援者代表、軍務局、帝国青年協賛会、各公爵家の関係者が並ぶ。そこでこの欠片だけを出せば、グランツベルク家が防衛計画を妨害するために怪しい証拠を持ち込んだ、と言われる」


「では、どうするのですか」


 セリナの問いに、ユリウスはすぐ答えなかった。


 代わりに、彼はもう一枚の紙を出した。


 それは招待状だった。


 赤い縁取り。


 ライオネルの名。


 式典前の赤炉会支援相談会。


 帝国青年協賛会による外縁激励の席。


 宛名は、セリナ・フレイア・グランツベルク。


 その下に、小さく添えられている。


 聖都より同行中の友人も同席可。


 セリナの顔から血の気が引いた。


「私宛に?」


「今朝、私の方で写しを得た。原本はそろそろ君の家に届く」


 その時、扉の外で足音が止まった。


 護衛が低く告げる。


「公爵閣下。赤炉会から、支援相談会の担当者が参っております」


 ユリウスが写しの端を押さえた。扉のそばでは、護衛の手が把手に残っている。


 オスカーは銀箱の蓋を閉じた。


「封書だけ受け取れ」


 使者は小会議室には入らなかった。


 扉の外で、封書だけが渡される。護衛が受け取り、オスカーへ運ぶ。


 赤い縁取りの招待状。


 机の上に置かれた写しと、ほとんど同じだった。


 セリナは紙を見た。


 銀箱ではない。


 欠片でもない。


 自分の名前が書かれた招待状を見ていた。


「早いですね」


 エアリスが静かに言った。


 ユリウスは招待状の封蝋を見たまま答えた。


「向こうも、見られた可能性を読んでいる」


 オスカーは招待状を閉じた。


「支援相談会は、いつだ」


 護衛が答える。


「明日、午後です」


 セリナの指が、膝の上で動いた。


 昨日まで、銀箱の中にあったものは、旧炉区下の欠片だった。


 今、机の上には、彼女の名前が置かれている。


 オスカーは娘を見る。


「セリナ」


「はい」


「返事は、まだ出さない」


「分かりました」


「だが、出さないままにはできない」


 セリナは招待状の端を指で押さえた。


 ユリウスも招待状を見ていた。


 彼の持ってきた写しより、届いた原本の方が、赤い縁取りが深かった。


 銀箱の封印布だけが、机の端で白く沈んでいた。

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