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鳥籠の令嬢は、神と悪魔を連れて世界の嘘を旅する ~政略結婚の前夜、地下牢で始まった神授物と邪教の巡礼譚~  作者: 0くるみ0
ガイア帝国編

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第六十五話:壊れた献火札

 屋敷へ戻った時、正門から出した馬車はすでに帰っていた。


 門番の記録にも、グランツベルク家の馬車が夜半に戻ったと残っている。護衛の一組も戻り、いつも通りに交代していた。


 門番はいつもの調子で礼をした。


 セリナの返事だけが、少し遅れた。


 セリナは裏口から入り、外套を脱がずに父の執務室へ向かった。


 途中の洗面台で、彼女は一度だけ手を止めた。指先に赤黒い粉がついている。旧炉区下の通路で触れた壁のものだろう。煤に見えたが、水をかけても、すぐには落ちなかった。


「……嫌な色」


 セリナは小さく言い、強くこすろうとした。


 エアリスはその手首に触れる。


「傷になります」


「分かってる」


 それでも、セリナの手は少し震えていた。


 エアリスは布を濡らし、粉のついた場所をゆっくり押さえた。こするのではなく、湿らせて浮かせる。しばらくすると、赤い色は水に薄く溶けた。


「落ちました」


「うん」


 セリナは短く答えて、ようやく廊下を進んだ。


 オスカーは待っていた。


 机の上には、灯りが二つ。部屋の隅には上級護衛が立っている。


 セリナは銀箱を置いた。


 記録係は結晶板を布に包んだまま差し出す。


 オスカーは、まず娘の顔を見た。


「怪我は」


「ありません」


「ヴァレン嬢は」


「ありません」


 エアリスも答える。


 それを確認してから、オスカーは銀箱へ視線を落とした。


「中身は」


「献火札の欠片です。旧炉区下の通路で拾いました」


「触ったか」


「直接は触っていません」


 オスカーは護衛長を見る。


 護衛長が一歩前へ出た。


「契約精霊殿の補助で、銀箱へ入れました」


 オスカーは一瞬だけカバンを見た。


 アキは出てこない。


「開けるな」


 オスカーは言った。


「このまま封じる。まずは外側から確認する」


 上級護衛が別の封印布を持ってきた。銀箱はさらに布で包まれ、グランツベルク家の印が押される。


 セリナはそれを見ていた。


「お父様」


「何を見た」


 セリナは順に話した。


 夜の車列。


 兵たちの静けさ。


 赤炉会と軍務局の二重の確認。


 無記名の箱。


 旧炉区下の通路。


 同意書。


 赤い粉。


 壊れた札。


 途中で何度か、言葉が詰まった。


 そのたびに、エアリスは隣で待った。


 代わりに話さない。


 セリナが自分で見たことだからだ。


 オスカーも急かさなかった。


 話し終えた時、部屋の中はしばらく静かだった。


 最初に口を開いたのは、オスカーではなく護衛長だった。


「公爵閣下。軍務局の印は本物に見えました」


「偽造ではなく、正規の一部が使われているということか」


「その可能性が高いかと」


 オスカーは目を閉じた。


 短い間だった。


「セリナ」


「はい」


「ここから先は、ただの見学ではない」


「分かっています」


「分かっているなら、次は一人で決めるな」


 セリナは唇を噛んだ。


「はい」


 オスカーは声を荒げなかった。


 セリナは返事をするまで、封印布の端を見ていた。


「お前が見ると決めたことは止めない。ただし、家も巻き込まれている。帝国もだ」


「はい」


「ユリウス殿下へは、私からも話を通す」


 セリナが顔を上げる。


「お父様から?」


「殿下がどこまで知っているか、こちらも知らねばならん」


 オスカーは銀箱を見た。


「この欠片は、彼にも見せる。ただし、渡さない」


 エアリスはその判断を聞いていた。


 オスカーはユリウスの名を出した後も、銀箱から手を離さなかった。


 封印布の端を指で押さえたまま、しばらく銀箱を見ていた。


 部屋を出ると、セリナは廊下で立ち止まった。


 緊張が切れたのか、肩が少し落ちる。


「怒られた」


「はい」


「止められなかった」


「はい」


「それが一番怖いかも」


 セリナはそう言って、壁にもたれた。


 エアリスは少し考え、ポケットから小さな包みを出した。


 出かける前にカバンへ入れていた苺の砂糖漬けだった。食べる機会を逃して、そのままになっていたものだ。


「食べますか」


 セリナは包みを見た。


「今?」


「今です」


「こういう時に?」


「こういう時だからです」


 セリナはしばらく黙り、それから一粒取った。


 口に入れる。


 酸味に目を細めた。


「甘い」


「少し酸っぱいです」


「そこまで言わなくていい」


 それでも、セリナはもう一粒取った。


 二人は廊下の端で、立ったままひと口ずつ食べた。


 誰かに見られれば、公爵令嬢としては褒められない姿かもしれない。


 けれど、セリナは息をしやすそうになった。


 エアリスは包みの口を閉じた。


 部屋へ戻ると、カバンの中からアキが顔を出した。


「で、感想は?」


「何のですか」


「夜の倉庫見学」


 セリナはカバンをにらむ。


「最悪」


「素直でよろしい」


「アキさん、あの札って何なの?」


「火神への祈りの形をしてる。中身は別物」


「別物って?」


 アキは珍しく、すぐには答えなかった。


 魔導書の上に頬杖をつくような姿勢で、少し考える。


「札の欠片に、祈り以外の引っかかりが残ってる。恐れや忠誠が、同じ向きへ揃えられている感じかな」


 セリナの顔から血の気が引いた。


「何それ」


「まだ推測。欠片だけじゃ全部は分からない」


 エアリスは尋ねた。


「九柱の儀礼ではない力ですか」


「混ざってる可能性はある。少なくとも、九柱の普通の火神儀礼だけではない」


 そこで、胸元の黒曜石の棺が冷たく光った。


 ノクティラの声が、エアリスの内側に低く落ちる。


「信仰を火で扱うなら、慎重であるべきだ」


 エアリスが胸元の棺へ視線を落としたため、セリナはそれ以上を聞かなかった。


「信仰って、そんなふうに使えるものなの?」


 セリナが言う。


 エアリスは答えられなかった。


 アキも、軽口を言わなかった。


 翌朝、オスカーはユリウスへの連絡を出した。


 返事は早かった。


 午後、グランツベルク邸の小会議室で会う。


 今度は庭でも、古い神殿でもない。


 公爵家の中だ。


 ユリウスも、それを受け入れた。


 小会議室には、オスカー、セリナ、エアリス、護衛長、記録係。そしてユリウスが来る予定だった。


 人数は少ない。


 扉の外には護衛が立つ。


 机の中央には、封印された銀箱が置かれていた。


 セリナはその箱を見て、深く息を吸った。


「昨日までは、家のことだと思ってた」


 エアリスは隣で聞いている。


「今は?」


「帝国のことになった」


 セリナは言ってから、首を横に振った。


「違う。帝国の中で、誰かの命をどう扱うかの話になった」


「はい」


「たぶん、私がそう思うのが遅かった」


 エアリスは首を横に振った。


「遅くないと思います」


「どうして」


「今、そう思えたからです」


 セリナは銀箱へ目を戻した。


「でも、皇子のどちらに寄るかだけなら、ここまでは怖くなかったと思う」


 箱の中身は見えない。


 それでも、旧炉区下で見た同意書の紙の薄さ、静かすぎた兵の顔、赤い粉の落ちにくさは、部屋へ戻っても残っていた。


「家がどちらへ寄るか、じゃない。誰かが帰れるかどうかまで、先に決められてる」


「あれは、誰かを説得するための資料じゃなかった。もう、誰かの答えを先に作っているみたいだった」


 エアリスは、短く息を吸った。


「名札も、同意書も、兵の顔も、誰かの返事を先に並べられたように見えました」


 セリナは笑わなかった。


「うん。だから、ここから先は、私だけで見たら駄目なんだと思う」


 セリナはそこで、エアリスを見た。


「でも、あなたまで巻き込んでいいかは、別の話」


「私は、巻き込まれるのではありません」


 エアリスは答えた。


「セリナさんの友人として、力になりたいです」


 セリナの指が、銀箱の縁に触れる前で止まった。


「危ないかもしれないのよ」


「はい」


「それでも?」


「はい。ひとりで見ない方がいいなら、私も一緒に見ます」


 セリナは小さく笑った。


「エアリスって、時々ずるい」


「ずるいですか」


「うん。短い言葉で逃げ道を塞ぐ」


「そのつもりはありません」


「知ってる」


 扉の外の廊下で、護衛の靴音が一度止まった。


 セリナは背筋を伸ばした。


 エアリスも顔を上げる。


 銀箱の中には、壊れた献火札の欠片が一つ。


 小さな欠片だった。


 蓋の上の封印布だけが、灯りを受けて赤く見えた。

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