第六十四話:火の下の通路
点検路は狭かった。
大人が二人並べるほどの幅はない。先に護衛が入り、セリナ、エアリス、記録係が続く。最後尾にも護衛がついた。
壁には古い煤が残っている。
指で触れれば、黒く汚れるだろう。だが、足元の灰は新しい。誰かが最近ここを通り、靴で薄く伸ばしている。
セリナは足元を見た。
「使われてる」
「はい」
エアリスも足元の灰へ目を落とす。
通路の奥から、低い声が聞こえた。
全員が止まる。
護衛長が灯りを絞った。
赤い光が細くなる。
石壁の向こうに、人の気配がある。
進むと、格子のはまった小さな覗き窓があった。昔は火炉の熱を確認するための窓だったのかもしれない。
そこから、下の部屋が見えた。
広い部屋ではない。
石造りの地下室。中央に長い机があり、その上に赤い札、細い紐、封じられた小箱が並んでいる。壁際には木箱が積まれ、箱の側面に慰霊品や訓練補助具と書かれていた。
だが、奥の棚だけ札が違う。
文字はない。
赤い線だけが引かれている。
エアリスはそれを、昼の補給倉庫でも見た。
机の前では、赤炉会の職員と軍務局の男が向かい合っていた。
二人の間に、紙が置かれている。
一枚ずつ確認し、火皿の近くへ移す。火は小さい。燃やすためではなく、炙るための火に見えた。
紙の端が火に照らされ、文字が浮かぶ。
エアリスは目を凝らした。
志願。
外縁勤務。
帝国のため。
家族のため。
短い言葉だけが見えた。
セリナの息がわずかに乱れる。
「同意書……?」
セリナは唇だけで言った。
赤炉会の職員は紙を束ね、別の箱へ入れた。
その箱は無記名だった。
軍務局の男が確認印を押す。
印は軍のものだ。赤炉会の印ではない。
だが、紙をそろえているのは赤炉会の職員だった。
次に、別の束が出された。
今度は訓練記録らしい。
氏名、所属、外縁勤務予定、献火礼実施済み。
細かい文字までは読めない。けれど、欄の並びは分かる。
軍務局の男が一枚を見て、短く言った。
「この者は明日のはずだ」
「本日へ前倒しです」
赤炉会の職員が答える。
「会長の指示か」
「上からです」
上。
軍務局の兵はそれ以上聞かず、紙束を箱へ戻した。
エルガーの名は出ない。
上皇派の名も出ない。
それなのに、二人ともそれで足りているようだった。
セリナの指が格子をつかむ。
護衛長がそっと手を出し、音を立てないよう止めた。
セリナは格子から手を離す。
記録係は結晶を起動していた。
ただし、格子越しの低い光では、紙の文字までは残りにくい。人影、箱、札、火皿。それくらいが限界だろう。
記録係は息を詰め、数秒だけ結晶を保った。
エアリスは、机の上の同意書を見た。
手書きだった。
筆跡は一枚ごとに違う。
本人が書いたのかもしれない。
それでも、文章の流れが似ている。
迷った跡が少ない。
どの紙にも、「志願」「帝国」「家族」という語が同じ順で並んでいた。
「本人が書いているように見えます」
エアリスは小さく言った。
「でも」
セリナが続きを待つ。
「書く前に、答えを置かれたようにも見えます」
セリナは何も言わなかった。
下の部屋では、赤い札の処理が始まっていた。
大きな献火札ではない。さっき兵の胸へ入れられていた細い札だ。
職員が札を火皿の上へかざす。
赤い線が一瞬だけ濃くなり、すぐ元へ戻る。
軍務局の男が小箱を開ける。
中には、薄い灰のような粉が入っていた。
職員は札の端へ粉をつけ、別の紙へ挟んだ。
その動きは慣れていた。
祈りの儀式というより、工房の作業に近い。
セリナが歯を噛みしめる音がした。
奥歯を噛む音だけが近くで鳴った。
だが、飛び出さない。
指だけが、外套の布を強く握っていた。
火皿の横には、割れた札が何枚か置かれている。
失敗したものか、使い終えたものか。
職員はそれらをまとめ、灰入れへ落とした。
そのうち一枚が、灰入れの縁に当たって跳ねた。
小さな欠片が床へ落ちる。
職員は気づかなかった。
欠片は机の下へ滑り、灰落としの溝に入った。
エアリスはそれを目で追った。
溝は、こちらの点検路の方へつながっている。
セリナの視線も、同じ溝で止まった。
護衛長が首を横に振る。
今は取れない。
下で人が動いている。
職員たちは最後の箱を閉じ、封印をかけた。
赤い線だけの印が、蓋の端へ押される。
魔力の光は強くない。
押された瞬間だけ、灯りの赤が深く沈んだ。
エアリスの頭の奥へ、アキの声がした。
『単なる防御札じゃないね』
『何ですか』
『札に触れた人を、後でまとめて引き寄せる仕組みがある。たぶん、防衛陣の一部に見せかけてる』
『防衛陣ではないのですか』
『防衛にも使える。けど、それだけならこんな手間はいらない』
エアリスは下を見る。
赤炉会の職員が箱を持ち上げた。
軍務局の男が扉を開ける。
二人は箱を持って出ていった。
しばらくして、地下室は空になった。
護衛長が耳を澄ませる。
「今なら」
セリナは返事の代わりに、足を踏み出した。
全員で通路を進む。
点検路は地下室の灰落としの溝へ出ていた。扉ではなく、石板を外す形だ。昔、灰や水を流すための道だったのだろう。
護衛が石板を持ち上げる。
エアリスは膝をつき、溝の中を見る。
赤い欠片があった。
小さい。
指先ほどの献火札の欠片。
セリナが手を伸ばそうとする。
「待ってください」
エアリスが止めた。
セリナはすぐに手を引いた。
エアリスはカバンを見る。
「アキさん」
頭の奥へ、アキの声が沈む。
「触らない方がいい」
アキはそこで笑わなかった。
その時、胸元の黒曜石の小さな棺が、ほんのわずかに冷えた。
ノクティラの声が、エアリスの内側だけに低く響く。
「素手で触れるな」
エアリスが入れ物を求めるように護衛長へ目を向けると、セリナは伸ばしかけた指を胸元へ戻した。
エアリスは護衛長の手元を待った。
護衛長が携帯用の小さな銀箱を出した。証拠物を入れるためのものらしい。
アキが魔導書の頁を一枚だけ開く。
黒い紙片のようなものが伸び、献火札の欠片をそっと持ち上げた。
欠片は銀箱の中へ落ちる。
蓋が閉まった瞬間、箱の封印線が白く曇った。
すぐに消える。
「何ですか、今の」
セリナが聞く。
「火の札にしては、変な反応だね」
アキは答えた。
「嫌な組み合わせだね」
遠くで足音がした。
護衛長がすぐに合図する。
全員が通路を戻る。
石板は元通りに戻された。
地下室の方で、誰かが扉を開ける音がした。遅れて、低い声。
足音は慌てていない。
扉の前で、道具を置く乾いた音がした。
それでも、長居はできない。
エアリスたちは来た道を戻った。
外へ出ると、夜気が冷たかった。
旧補給倉庫の裏門はまだ開いている。だが、車列はもうほとんど残っていなかった。
セリナは銀箱を見た。
小さな箱一つ。
片手で抱えられるほどの証拠だった。
だが、火皿も、同意書も、赤い粉も、目の奥には残っている。
セリナは顔を上げた。
「戻ろう」
「はい」
エアリスは銀箱の封じ目を見届けた。
背後で、古い火炉の石壁が黒く沈んでいる。
その下に、まだ熱の残り香があった。




