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鳥籠の令嬢は、神と悪魔を連れて世界の嘘を旅する ~政略結婚の前夜、地下牢で始まった神授物と邪教の巡礼譚~  作者: 0くるみ0
ガイア帝国編

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第六十二話:分かれた道

 グランツベルク邸へ戻ると、オスカーはすでに起きていた。


 執務室の灯りが落ちていない。廊下の窓から見える庭は暗いのに、その部屋だけは昼のように明るかった。


 セリナは父の前で、ユリウスから受け取った封筒を差し出した。


 オスカーは紙を読み、すぐに結論を出さなかった。


 読み返す。


 封を確認する。


 通行番号を見る。


 最後に、セリナを見る。


「行くつもりか」


「はい」


「理由は」


「今日見たものが、明日には消えるかもしれません」


 オスカーは通行番号の紙を押さえた。


「それは、殿下の言葉か」


「私の言葉です」


 セリナは父から目を逸らさなかった。


 エアリスは隣に立っていた。口は挟まない。


 オスカーは机に紙を置いた。


「先に出してある通行許可は、そのまま使う」


「はい」


「今夜だけ違う。戻ったことにする馬車を一台出す。君たちは別に動く」


 セリナは封筒の端を見た。


「分かりました」


「分かっていない顔だ」


「……分かろうとしています」


 オスカーはそこで初めて、机の端から手を離した。


「なら、それでいい」


 彼は護衛長を呼んだ。


 命令は短かった。


 屋敷へ戻る馬車を一台出す。護衛の一部も戻る。残る者は、セリナとエアリスから距離を取りすぎず、しかし目立たない位置につく。


 軍務局の巡回に見られた場合は、グランツベルク家の補給路確認として通す。


 ただし、セリナたち本人が現場にいると大きく見せる必要はない。


 オスカーは地図の端から指を離した。


 護衛長は一度だけ顎を引き、余計な質問はしなかった。


「ヴァレン嬢」


 オスカーが呼ぶ。


「はい」


「君にも危険がある」


「分かっています」


「分かっていると言えるほど、君は帝国を知らない」


 オスカーは視線を逸らさなかった。


 エアリスは地図の端に置かれた赤い重しを見た。


「はい。だから、見ます」


 オスカーは一瞬だけ黙った。


「……ルセリア大主教が君を置いている理由が、少し分かる」


 それだけ言って、彼は護衛長へ視線を戻した。


 机の上には、グランツベルク家の紋章が刻まれた小さな重しがあった。赤い石を削ったものだ。セリナはその重しを見てから、父の手を見る。大きな手だった。剣を握る手でもあり、書類に印を押す手でもある。


 セリナは、次の命令を待った。けれど、オスカーは許可状ではなく娘の顔を見ていた。


「セリナ」


「はい」


「帰ってくることを、先に考えろ」


 セリナは一瞬だけ目を伏せた。


「分かっています」


「分かっている顔ではない」


「……帰ってきます」


 オスカーはそれ以上言わなかった。


 準備に時間はかからなかった。


 セリナは濃い色の外套を羽織り、髪を簡単にまとめた。普段より飾りが少ない。公爵令嬢ではなく、夜道を歩くための姿だった。


 エアリスも同じように目立たない外套を受け取った。


「白い髪は隠した方がいい」


 セリナが言う。


「はい」


 フードを深くかぶると、視界が少し狭くなる。歩きにくいほどではない。


 カバンには魔導書が入っている。


 革紐が、外套の下で肩に収まった。


「アキさん」


 エアリスが小さく呼ぶと、カバンの中から声がした。


「はいはい。今日は真面目に働きます」


「いつも真面目ではないのですか」


「痛いところを突くね」


 セリナが横から言う。


「今日は冗談を少なめにして」


「努力する」


「そこは約束して」


「約束は重いからなあ」


 セリナはカバンを見下ろした。


「アキさん」


「はい。少なめにします」


 護衛長が咳払いをした。


 彼はアキの正体までは知らない。けれど、奇妙な契約精霊がいることはすでに把握しているらしい。驚かない代わりに、深く聞く気もなさそうだった。


 屋敷の裏手から、小型の魔導馬車が出た。


 表の門からは別の馬車が出る。そちらにはセリナの侍女が乗り、護衛もつく。外から見れば、グランツベルク家の令嬢が夜の用を済ませて戻るだけに見えるだろう。


 エアリスたちの乗る馬車は、細い通用路へ入った。


 夜の帝都は、昼と別の街だった。


 大きな商会の看板は灯りを落とし、軍用の道路だけが赤い魔導灯で照らされている。酒場の前にはまだ人がいるが、声は聖都の夜より低く、短い。


 遠くで鉄を叩く音がした。


 夜でも止まらない工房があるのだろう。


 同じ帝都の中でも、住宅区、商会区、軍務区、工房区で匂いが違う。石、油、火、湿った革。聖都の白い石とは違い、ここはどこも何かを燃やしているようだった。


 途中、護衛の一人が降りた。


 彼は別の路地へ入り、すぐに姿を消す。


「先に行くの?」


 セリナが尋ねる。


「道を確認します」


 護衛長が答えた。


「敵がいれば?」


「戻ります」


 その返事は簡単だった。


 セリナは唇を結んだ。


 エアリスは窓の外を見た。


 車輪の音は小さい。魔導具で抑えている。けれど、完全には消えない。石の継ぎ目を越える時だけ、細い震えが足元に伝わる。


 旧補給路の近くへ入る前に、馬車は止まった。


 ここから先は徒歩になる。


 護衛長が地図の端を指で叩いた。


「大通りは使いません。倉庫群の南側に古い火炉の点検路があります。現在の軍務管制区域には入っていませんが、近づきすぎれば止められます」


「分かっています」


 セリナは答えた。


 その時、エアリスとセリナの頭の奥へアキの声が届いた。


「一つだけ足しておくよ」


 魔導書の頁がめくれる音がする。


 魔導灯の輪郭が、一瞬だけぼやけた。


 エアリスは自分の手を見た。何も変わっていない。


「何をしたんですか」


「見ている人が、見たいものを見るようにした」


 セリナが眉を寄せる。


「どういうこと?」


「ここに令嬢二人が歩いている、とは思いにくくなる。代わりに、普通の夜番とか、運搬係とか、そういうものに見える」


「便利だけど、怖い」


「悪用しなければ便利で済むよ」


「悪用しないで」


「今日はしない」


「今日は?」


 アキは答えなかった。


 エアリスは外套の紐を指で押さえた。


「アキさん」


「はい。必要な範囲で」


 夜道を歩く。


 護衛は前に二人、後ろに一人。距離は近すぎない。セリナとエアリスが自分で歩けるように、しかし何かあればすぐ入れる距離だった。


 旧補給倉庫の壁が見えてくる。


 昼に見た時より、ずっと大きく感じた。


 赤い石壁は夜の中で黒く沈み、古い鉄骨だけが魔導灯の光を受けて細く光っている。倉庫の正面は静かだった。


 だが、裏手には灯りがあった。


 車両の気配もある。


 セリナは一度立ち止まった。


「本当に動いてる」


「はい」


 エアリスも見る。


 音は少ない。


 人がいるのに、声が少なすぎる。


 護衛長が手を上げる。進むな、という合図だった。


 全員が止まる。


 次の瞬間、倉庫裏の門が内側から開いた。


 密閉型の魔導車が一台、ゆっくり出てくる。


 赤い紐が、荷台の金具に結ばれていた。


 セリナは外套の中で手を握った。


 エアリスは、目を逸らさなかった。


 今夜の移送は、始まっていた。

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