第六十一話:早まる移送
使われなくなった火神殿は、帝都の西端にあった。
大きな神殿ではない。赤い石の柱は古く、門の上に刻まれた炎の紋章も、半分ほど風に削られている。今は正式な祭儀には使われず、神殿管理の封印だけが残る場所だという。
夜になると、帝都の赤い灯りもここまでは届きにくい。
セリナは馬車を降り、外套の前を押さえた。
「本当にここで会うの?」
「そう書かれていました」
エアリスは返書の写しを思い返す。
場所と時刻だけが短く書かれていた。飾りのない文字だった。
護衛は神殿の外に残った。オスカーの指示で、距離は取るが、視界からは外れない位置にいる。グランツベルク家の護衛に加えて、ユリウス側の者も二人いた。
護衛同士は、挨拶だけを交わした。
それ以上は近づかない。
神殿の中へ入ると、冷えた石の匂いがした。
奥に小さな祭壇がある。火は入っていない。代わりに、携帯用の魔導灯が一つだけ置かれていた。
祭壇の脇には、古い献花台が残っている。白い花ではない。乾いた赤い花びらが、皿の底に貼りついていた。聖都なら片づけられているものだろう。けれど帝国では、古い戦の跡も、使われなくなった火神殿も、完全には消さないらしい。
セリナはそれを一度見て、すぐ視線を戻した。
「昔は、ここでも出征前の祈りをしたって聞いたことがある」
「今はしないんですか」
「もっと大きい神殿を使う。ここは、静かすぎるから」
セリナはそこで口を閉じた。神殿の外で、護衛の靴音が一度だけ止まる。
その灯りのそばに、ユリウスが立っていた。
「来てくれて感謝する」
ユリウスは祭壇から一歩離れた。
「ユリウス殿下」
セリナが礼を取る。
エアリスも一礼した。
ユリウスは二人の礼を受け、祭壇の脇に置かれた石卓へ薄い封筒を置いた。厚みはない。中に入っているのは、数枚の紙だけだろう。
「先に言っておく。これは、私が持っている全てではない」
セリナの目がわずかに細くなる。
「全てではないものを渡すのですか」
「全てを渡せるほど、互いに信じていない」
ユリウスは答えた。
セリナは一度だけ目を伏せ、封筒へ視線を戻した。
「ただ、今夜動くものがある」
彼は封筒を開け、一枚だけ取り出した。
紙には、車列の時刻が書かれている。エアリスは内容を追った。
本来なら明日の午前。
それが、今夜へ変わっている。
「旧補給路ですか」
セリナが言う。
「そうだ。君たちが今日見た車両の系統に近い」
「殿下は、どこまでご存じなのですか」
「どこまで知らされていないかなら、少し分かる」
ユリウスは紙を石卓へ戻した。
「ここ数日、私に届く情報が減った。遅くなったのではない。選ばれている」
セリナは石卓の縁に指を置いた。
エアリスは、ユリウスの指先を見た。紙を押さえる指に力は入っていない。けれど、紙の端はわずかに折れていた。
「赤炉会ですか」
セリナが尋ねる。
「名は出せる。証拠は出せない」
「軍務局は?」
「同じだ。使われている者もいれば、知っていて通している者もいるだろう」
「殿下は、どうして私たちにこれを?」
ユリウスはすぐには答えなかった。
神殿の外で、護衛の靴音が一度だけ鳴る。風に押された扉が、かすかに軋んだ。
「君たちは、見た」
ユリウスは言った。
「訓練場で札を見た。車列を見た。赤炉会の支援も見た。見た者が増えると、隠す側は動かすものを変える」
「私たちのせいで早まったと?」
セリナの声が少し硬くなる。
「理由の一つにはなったかもしれない」
ユリウスは逃げなかった。
「だが、元から近かったはずだ。最後の積み替えを早めた、と見る方が自然だ」
セリナは紙を見た。
エアリスも同じ紙を見る。時刻、車列番号、旧補給路、外縁行き。文字は短い。
セリナの指が、紙の端で止まった。
「見に行けば、何か分かりますか」
エアリスが尋ねた。
ユリウスは彼女を見る。
「分かるかもしれない。何も残らないかもしれない」
「危険は?」
「ある」
答えは早かった。
「だから、行けとは言わない」
セリナは笑わなかった。
「言わないだけで、行くと思っているでしょう」
「君は行くだろう」
「どうして」
「止まれるなら、もう止まっている」
セリナは返せなかった。
エアリスは二人の間にある紙を見た。
セリナは友人だ。
ユリウスはまだ信じられない。
赤炉会の窓口では、礼を言っていた人たちがいた。
なのに、誰かが人を運んでいる。
エアリスは紙の端へ目を落とした。そこには、車列の経由地が一つだけ記されている。
第四旧補給倉庫。
あの場所だ。
「殿下は、私たちを試していますか」
エアリスが言うと、セリナがこちらを見た。
ユリウスも目を細める。
「試している」
「では、これも試しの一部ですか」
「一部だ」
彼は隠さなかった。
「だが、君たちが見なければ消えるものもある」
「殿下がご自身で見に行くことは」
「私が動けば、相手も動く。君たちより先に気づかれる」
その言い方に、セリナがわずかに眉を寄せた。
「私たちの方が軽いから?」
「そうだ」
ユリウスはまた、逃げない。
「そして、軽く見られているうちにしか見えないものがある」
セリナは唇を結んだ。
体の前で、指だけが強く握られる。
エアリスは、ユリウスが自分をどう見ているかを考えた。
旧婚約者。
死んだはずの子爵令嬢。
大主教の保護下の新入生。
邪教に狙われているかもしれない少女。
そのどれでもあるように見えるのだろう。
「分かりました」
エアリスは言った。
「見るかどうかは、セリナさんが決めることです」
セリナが息を呑む。
「私?」
「はい。これは、セリナさんの家と帝国に関わることです」
「エアリスは?」
「一緒に行くかどうかは、もう決めています」
セリナの視線が、封筒の封蝋へ落ちた。
迷いは長くなかった。
「行く」
彼女は言った。
「見ないまま、後で後悔する方が嫌」
ユリウスは紙を畳み直し、封筒へ戻してセリナへ差し出した。
「なら、外にいる護衛へ話を通す。私の名は出さない方がいい」
「お父様には?」
「グランツベルク公には通すべきだ」
ユリウスは石卓の紙を戻した。
「君の父上は、危険を嫌う方ではない。無駄な危険を嫌う方だ」
セリナは少し驚いたように彼を見た。
「殿下、お父様のことをよくご存じですね」
「帝国の公爵だ。知らずに政治はできない」
ユリウスは短く返した。
会談はそれ以上長く続かなかった。
神殿を出る時、エアリスは一度だけ振り返った。
火の入っていない祭壇の前で、ユリウスはまだ立っていた。灯りに照らされた横顔は、若いのに疲れて見えた。
外へ出ると、夜風が冷たい。
セリナは封筒を胸元に押さえた。
「行くって言ったけど」
「はい」
「怖くないわけじゃない」
「はい」
「でも、行く」
「はい」
セリナの口元が、かすかに緩んだ。
「全部はい、なんだ」
「今は、それで足りると思いました」
護衛が近づいてくる。
その後ろで、カバンの中の魔導書が小さく揺れた。
エアリスとセリナの頭の奥で、アキがいつもの調子で言った。
「今夜は忙しくなるね」
けれど、魔導書はもう揺れなかった。
セリナは封筒を握り直す。
「旧補給倉庫へ戻るわ」
エアリスは馬車の方へ向き直った。
護衛が、馬車の扉を開けた。




