第六十話:火神像の前で
火神像の前で行われる訓練前の儀式は、見学日とは別に、朝の早い時間にも行われるらしい。
それを教えたのは、グランツベルク家の護衛だった。
「外縁勤務へ出る者は、出発前にも火へ誓います。一般の慰霊とは別です」
「見られますか」
セリナが尋ねる。
護衛は少し迷った。
「見学区域からなら。近づきすぎると止められます」
「それで十分」
オスカーが添えた許可文は短かった。
見学区域から。
異変があれば戻る。
前と同じ文言を繰り返した紙ではない。今朝の行動範囲だけが、淡々と書かれていた。
セリナは署名欄へ指を置いた。
朝の訓練場は、前回より冷えていた。
空はまだ薄暗い。火神像の前だけが赤く照らされている。新兵、再訓練者、傷病騎士。人数は多くないが、並び方は整っていた。
吐く息が白い。兵たちは手をこすらない。寒さを見せないようにしているのか、そう訓練されているのか。
柵のこちら側では、家族の方が先に震えていた。
柵の外には、数人の家族が立っていた。
声はかけられない。見送りは許されているが、列に近づくことはできないらしい。
一人の女性が、兵の名前を呼びかけて、途中で口を閉じた。隣の老人が肩に手を置く。兵の方は振り返らなかった。
セリナはその場面を見て、唇を結んだ。
「家族も、触れないんだ」
「はい」
エアリスは、火神像の前に並ぶ赤い札を見た。
女性が呼びかけかけた兵は、まだ若かった。
肩幅に比べて軍服が少し大きい。袖口も新しい。外縁勤務に出る者としては、あまりに普通の少年に見えた。
それでも列の中に入れば、他の兵と同じ顔をしている。
セリナは柵に指をかけたまま、力を入れすぎないようにしていた。折れるものではない。けれど、音が出れば向こうに気づかれる。
彼女は柵を鳴らさなかった。
エアリスは、その指の強さを見ていた。
セリナの指は、柵から離れなかった。
だから、エアリスも目をそらさなかった。
見学区域の柵の向こうで、赤炉会の職員が札を配っている。
札は一人一枚。
配られた者だけが触れる。
見送る軍人や家族は触らない。
柵の反対側には、若い貴族の一団もいた。
彼らは見送りではなく、激励役として招かれているらしい。外縁勤務へ向かう兵に赤い布を渡し、短い言葉をかける。帝国の若い世代が兵を支える、という絵としてはよくできていた。
クラリッサが一人の兵へ布を渡し、ヘルムートが別の兵へ短く拳を合わせる。
マティアスは少し声が大きかった。
「帝国は君たちを誇りに思う」
言葉そのものは悪くない。
だが、柵の外で息子の名を呼びかけかけた女性は、その声を聞いて口を閉じた。
誇り。
その言葉が先に置かれると、不安は後ろへ下がらされる。
セリナの指が柵にかかる。
エアリスも、柵の向こうから目を離せなかった。
エアリスは、兵の手元の札を見た。
「あの札、前に見たものと同じですか」
「見た目は」
セリナが答える。
「でも、慰霊式のものとは違う」
「はい」
火神像の前に、エルガーの姿はなかった。
代わりに赤炉会の中堅職員が儀式を進めている。軍務局の士官も立ち会っていた。
兵たちは札を胸の前に掲げ、短い誓句を唱える。
「炎の前に、恐れを置く」
「炎の前に、迷いを置く」
「炎の前に、身を捧げる」
声が揃う。
声の切れ目まで、列の端から端まで同じだった。
柵の外にいた老人が、聞こえないほど小さく祈りの言葉を口にした。火神への祈りだろう。だが、列の中にいる兵は動かなかった。
声も、顔も、向こう側だけで完結している。
セリナが柵を握った。
エアリスはカバンに手を置いた。
『アキさん』
『見てる』
『あれは、何ですか』
『誓いの形をしてる。けど、札の裏に別の流れがある』
『別の流れ』
『触れた人間の中に、小さな杭を打つみたいなものかな。今すぐ動かすためじゃない。後で引くための糸』
エアリスはカバンの紐を押さえた。
札に触れた者たちは、表情が薄くなる。
ほんの短い間だ。
すぐに戻る。
だから、近くにいても見逃す人は多いだろう。
一人の若い兵が、札を掲げたままわずかに膝を揺らした。隣の兵が支える。赤炉会の職員が近づき、肩に手を置いて何かを囁く。
若い兵は笑った。
笑えてしまった。
セリナの表情が変わる。
「今の」
「はい」
「怖がってた」
「そう見えました」
「でも、笑った」
セリナは低く言った。
火神像の前で、儀式は続いている。
赤い札。
揃った声。
戻りの早い笑顔。
エアリスは一つずつ目に入れた。
儀式が終わると、兵たちは外縁行きの車両へ移動した。車両の側面には軍の印がある。赤炉会の印はない。
だが、荷台へ積まれる箱には、赤い紐が結ばれていた。
セリナは護衛に確認する。
「あの箱は?」
「献火用の予備札、慰霊品、簡易治療具と聞いています」
「聞いている、ですか」
「現場ではそう扱われています」
護衛はそこで一度、言葉を切った。
帰ろうとした時、車両の一つが予定より早く動き始めた。
他の車両がまだ整列している中、その一台だけが裏手の門へ向かう。
「あれ、早い」
セリナが言った。
護衛も気づいた。
「予定では、第二列の出発はもう少し後です」
記録係が結晶板を向ける。
門の前で、赤炉会の職員と軍務局の男が短く話す。遠すぎて声は聞こえない。
車両は止まらず、外へ出た。
その瞬間、カバンの中でアキが小さく笑った。
笑い声は軽い。けれど、楽しんでいる音ではなかった。
『追わない方がいい』
『なぜですか』
『今追うと、追ったことが相手に残る』
『では』
『行き先だけ、少し見る』
エアリスには、何が起きたのか分からなかった。
ただ、魔導書の頁が一枚、静かにめくれた気配がある。
若い貴族の一団が、その車両へ向けて敬礼した。
礼の角度も、列の間隔も崩れていない。
だが、その動きに合わせて周囲の視線が車両から彼らへ移った。
早く動いた車を不審に見る者は減った。
声を上げようとした家族も、周囲の敬礼に飲まれて口を閉じる。
セリナはそれを見て、低く言った。
「上手い」
「誰がですか」
「あの子たちをここに置いた人」
セリナが横を見る。
「アキさん、何かした?」
「たぶん」
「たぶんって」
エアリスとセリナの頭の奥へ、軽い声が返る。
「場所だけね。人はまだいじってない」
「まだ、って言い方やめて」
「じゃあ、今は」
「もっと嫌」
セリナは呆れたように言ったが、その顔には安堵もあった。
帰りの馬車が揺れ始めてから、カバンの中で紙が鳴った。
「あの車両、旧補給路の奥へ行く」
「奥へ?」
セリナの声が硬くなる。
「まだ先ではなかったんですか」
エアリスが言うと、アキは頁を閉じる音を立てた。
「早めたんだろうね。見られて困るものほど、動かしたくなる」
セリナは窓の外を見た。
「私たちが見たから?」
「それだけじゃないと思う。でも、理由の一つにはなったかも」
アキは軽く言ったが、セリナは笑わなかった。
セリナはしばらく黙った。
「じゃあ、急がないと」
「急ぎ方を間違えないでください」
エアリスが言う。
セリナは彼女を見る。
「今、ルセリア様みたいだった」
「そうですか?」
「うん。ちょっとだけ」
エアリスは少し考えた。
「では、効果がある言い方なのだと思います」
セリナは笑った。
馬車は帝都へ戻っていく。
空は明るくなっていた。
道端の炉工房では、朝の火が入れられ、煙突から細い煙が上がっていた。
赤い札を掲げた兵たちは、もう見えない。
エアリスはカバンの紐を指で押さえた。
さっきの青年は、笑う前に一度だけ札を握りしめていた。
指の白さだけが、妙にはっきり残っている。
邸に戻ると、オスカーはすでに報告を待っていた。
セリナは見たことを順に話した。
札に触れた者だけが変わったこと。
慰霊用の札とは反応が違ったこと。
車両が予定より早く旧補給路の奥へ向かったこと。
オスカーは聞き終えると、立ち上がった。
「ユリウス殿下へ連絡を入れる」
「殿下へ?」
「あの方も、この件を追っている。こちらだけで抱える段階ではない」
セリナは父の机に置かれた紙を見た。
エアリスも黙って聞いていた。
その日の夕方、ユリウスから返事が来た。
文面は短い。
今夜、会いたい。
場所は、以前の庭園ではなかった。
帝都の外れにある、使われなくなった火神殿。
そこなら、邪魔が入りにくい。
セリナは返事を書く前に、父の執務室へ向かった。
今度は一人で決めなかった。
オスカーは文面を読み、返書用の紙を指で押さえた。
「行くなら、護衛は外に置く。中へ入れる人数は絞れ」
「ユリウス殿下を疑いますか」
「疑う。だが、会わない理由にはならん」
セリナは返書用の紙へ目を落とした。
エアリスも、その判断を聞いていた。
机の上で、返書用の紙が広げられる。
セリナはすぐには筆を取らなかった。
火神像の前で笑った若い兵の話をするところで、一度だけ口を閉じた。
やがて、短く返事を書く。
行きます。
文字は少し硬かったが、迷ってはいなかった。




