第五十九話:名前を覚える人
数日後、赤炉会の小規模な支援相談会が開かれた。
場所は帝都東区の赤炉会支部。慰霊式ほど大きな行事ではなく、傷病騎士とその家族向けの相談会に近いものだった。
セリナはグランツベルク家として出席した。
エアリスも同行する。
今回は、オスカーの護衛に加えて、セリナ自身の護衛もいた。以前より重い。
受付の脇には、赤い腕章をつけた若い貴族の姿もあった。
クラリッサ・ブランシュタットが二人の令嬢と並び、案内紙を配っている。来場者は礼を言い、彼女たちは同じ角度で頭を下げた。
その列は、受付と会場の奥を同時に見られる位置にあった。
「お父様、明らかに増やした」
「心配なのだと思います」
「分かってる。分かってるけど、動きづらい」
「では、歩幅を少し小さくします」
「そういう意味じゃない」
セリナは笑った。緊張はあるが、笑える程度には戻っている。
支部の中は清潔だった。
赤い布が壁に掛けられ、炉をかたどった紋章があちこちにある。部屋の奥では、義肢魔導具の調整が行われていた。別の机では、遺族手当の相談が続いている。
クラリッサは入口で笑っているだけではなかった。案内紙を読みづらそうにしていた老人に膝を折って札の絵柄を教え、泣きそうな子どもへ水を渡していた。
老人が礼を言うと、クラリッサは膝をついたまま微笑んだ。
入口近くには、小さな待合札が置かれていた。番号ではなく、火、鉄、麦、灯といった絵柄で分けられている。字が読めない子どもや老人でも、自分の順番が分かるようにしているのだろう。
赤炉会の職員は、呼ぶ時に必ず相手の顔を見る。
大きな声で番号だけを読み上げることはなかった。
暖炉の前では、小さな子どもが木の車輪を転がしていた。
母親らしい女性が何度も謝る。赤炉会の職員は笑って、車輪が机の下へ入らないよう足で止めた。
「ここは待つ時間が長いですから。少しくらいは大丈夫です」
その言葉に、女性は肩の力を抜いた。
セリナはその様子を見て、何も言わなかった。
車輪を拾った子どもは、義肢の男の足元まで走っていった。男は片足で器用に車輪を止め、子どもへ返す。
笑い声が小さく広がった。
セリナの眉間から、力が抜けた。
エアリスも、手に持っていた案内紙を少し下ろした。
セリナも、同じものを見ていた。
案内紙の端が、エアリスの指で少し白く折れていた。
エルガーはすでに来ていた。
彼は一人ひとりに声をかけている。
「マルク。腕の痛みは引きましたか」
「おかげさまで」
「奥様の店は?」
「再開しました。まだ半日だけですが」
「焦らなくていい。最初は午前だけで十分です」
次の席へ向かう。
「リタ。弟さんの入学手続きは済みましたか」
「はい。会長のおかげです」
「勉強は逃げません。続けられるようにしましょう」
エアリスは、彼が名を間違えないことに気づいた。
その人の傷。
家族。
仕事。
どこで苦しみ、どこに助けが必要か。
エルガーはそれを覚えている。
「すごいですね」
エアリスが言うと、セリナは顔をしかめた。
「うん。すごい」
「嫌そうです」
「すごいから」
セリナの言い方は短かった。
会場の一角に、若い傷病騎士がいた。
片目に白い布を巻き、右腕に簡易補助具をつけている。赤炉会の職員が書類を持って話していた。
「外縁再訓練は任意です。無理に戻る必要はありません」
「でも、戻れれば手当が増えるんですよね」
「はい。危険手当と再訓練補助が出ます」
「家に送れる」
騎士はそう言って、書類に目を落とした。
任意。
無理に戻る必要はない。
だが、戻れば金が出る。
エアリスは、その言葉の並びを覚えた。
セリナが一歩近づこうとした時、エルガーが先に声をかけた。
「カイル」
若い騎士が顔を上げる。
「焦らなくていい。君はまだ治療が必要です」
「でも、会長。家が」
「家族を支える方法は一つではありません」
エルガーは職員へ目を向けた。
「教育支援と家賃補助の枠を確認してください。再訓練は、治療が終わってからでも遅くありません」
騎士の肩から力が抜けた。
「ありがとうございます」
騎士は封筒を両手で受け取り、額が膝につきそうなほど頭を下げた。
セリナは唇を噛んだ。
「今の、何も悪くない」
「はい」
「本当に助けてる」
「はい」
エアリスもそれを見ていた。
エルガーは、戻れと言わなかった。
助けた。
少なくとも今、この若い騎士を外縁へ送らなかった。
若い騎士は、申請書を胸に抱えたまま何度も頭を下げた。
セリナはその背中が見えなくなるまで、その場から動かなかった。
会の終わり頃、支部の裏手で小さな祈りが行われた。
火神像の前に、赤い札が並べられる。慰霊用の札だという。戦死者の家族が一枚ずつ触れ、火の祝福を受ける。
札を渡す職員は、相手の手が震えていると、指が札へ届くまで手を止めた。急かさない。触れた後に泣き出した女性には、別の職員が布を差し出す。
祈りは短い。
それでも、そこに並ぶ人たちは急がなかった。
新兵訓練で見た献火札と似ている。
ただ、こちらの札に触れた人々の表情は変わらなかった。
悲しむ人は悲しみ、泣く人は泣いている。
エアリスは案内紙の端を指で押さえた。
同じ赤い札でも、全部が同じではない。
アキの声が頭に届く。
『ここにあるのは、たぶん見えている側だね』
『見えている側』
『ちゃんとした祈り。ちゃんとした支援。だから、隠す場所として強い』
エアリスは火神像を見た。
炎を掲げる神像の顔は、石でできているのに、どこか厳しい。
支援相談会が終わると、エルガーはセリナたちのところへ来た。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ」
セリナは礼を返す。
「多くの方が、赤炉会に助けられているのですね」
「助けられる範囲で、助けています」
エルガーは穏やかに言った。
「手が届かない方もいます。だから、届くところを増やしたい」
「そのために、外縁安定化計画にも関わるのですか」
セリナが聞いた。
エルガーは少しも動揺しなかった。
「外縁で傷つく方が減れば、赤炉会の仕事も減ります」
「仕事が減って困りませんか」
「困りません」
エルガーは視線を外さなかった。
「誰かの痛みで成り立つ組織など、長く続かない方がいい」
セリナは返せなかった。
エアリスも、すぐには言葉を出せない。
エルガーは礼をし、別の遺族のもとへ向かった。
帰りの馬車で、セリナは窓の外を見ていた。
「あの人、いい人に見える」
「はい」
「いい人であってほしいと思う自分がいる」
エアリスはセリナの横顔を見た。
「そう思ってはいけませんか?」
「分からない」
セリナは膝の上の手を開いたり閉じたりした。
「でも、もしあの人が悪いことをしていたら、私はたぶん、すごく腹が立つ」
「はい」
「だって、本当に助けられている人がいるから」
その声は静かだった。拳は握られていないのに、膝の上の布だけが少し寄っていた。
邸へ戻ると、オスカーが短い報告だけを求めた。
セリナは支援相談会の内容、赤炉会の動き、再訓練の勧誘が必ずしも強制ではないことを伝えた。
オスカーは黙って聞いた。
「見たものを、急いで一つにまとめるな」
最後にそう言った。
「はい」
「善行があるなら、それも見る。怪しいなら、それも見る。片方だけを選ぶな」
セリナは案内紙を机の上へ置いた。
エアリスも、その言葉を聞いた。
その夜、エアリスはカバンの中の魔導書へ小さく尋ねた。
「アキさん。人を助けながら、人を利用することはできますか」
「できるよ」
返事は軽かった。
けれど、からかう声ではなかった。
「人間は、片方だけでできていないからね」
「そうですか」
「うん。だから見ておいで」
アキはそれ以上言わなかった。
エアリスは窓の外を見た。
帝都の夜は、今日も赤い。
火神殿の灯りが、窓硝子の端で小さく揺れていた。
同じ部屋の机の上には、支援相談会でもらった案内紙が一枚置かれている。
セリナはそこに書かれた名前を指でなぞった。
「カイル。マルク。リタ」
声に出して、覚えるように。
「忘れたくないのですか」
「うん。利用されているかもしれない人を、まとめて数字みたいに見たくない」
エアリスは、案内紙に並ぶ名前を目で追った。
セリナはまだ案内紙を折らずに持っていた。
案内紙の端には、赤炉会の炉印が小さく残っていた。




