第五十八話:善行を武器にする者
翌朝、グランツベルク邸にはいつもより多くの人が出入りしていた。
オスカーはまだ表立って動いていない。けれど、護衛の数が増え、伝令が短い間隔で行き来し、書類を持つ者が足早に廊下を渡る。
セリナは朝食の席で、それを見ないふりをしていた。
母のエレオノーラも同席していたが、食事の話ばかりをした。帝国の果物、聖都の甘味、学術院の食堂。政治の話題へ近づくたび、柔らかく別の話へ移す。
「エアリスさんは、苺がお好きなのね」
「はい」
「今度、帝都の果物店から取り寄せましょう。聖都のものとは少し香りが違うの」
「ありがとうございます」
セリナは横で少し笑った。
「お母様、餌付けしようとしてる?」
「お友達をもてなしたいだけよ」
エレオノーラはそう言った。声は優しい。
だが、その指は茶杯の取っ手から、しばらく離れなかった。
話題を深く入れないまま、目だけがセリナの方へ戻る。
朝食の後、セリナはエアリスを連れて庭へ出た。
「お母様、ああいう時は絶対に本題を避けるの」
「優しい方ですね」
「うん。優しい。だから、余計に難しい」
セリナは庭の赤い花を指で軽く触った。
「お母様は上皇陛下の娘だから」
「ヴォルフラム様の?」
「そう。私から見ると祖父。お母様にとっては、父親」
それ以上、セリナは言わなかった。
エアリスも聞かなかった。
庭の向こうでは、使用人たちが赤い花を摘んでいた。慰霊式で使うものではなく、屋敷の客間に飾る花だという。
赤い花は、同じ色なのに火神殿の赤とは遠かった。
セリナはその花をしばらく見ていた。
「お母様は、私に無理を言いたいわけじゃないと思う」
「はい」
「でも、言わないことで圧になる時もあるんだよね」
エアリスは庭の赤い花から目を離した。
午前のうちに、オスカーから呼び出しがあった。
執務室には、オスカー、セリナ、エアリス、そして家の上級護衛が二人いた。机の上には、昨夜の記録結晶を入れた封印箱が置かれている。
「赤炉会から、午後に正式な訪問の申し入れがあった」
オスカーが言った。
「ヴァイスマン会長からですか」
「そうだ。昨日、旧補給倉庫で赤炉会の職員とやり取りしたことへの挨拶、という名目だ」
セリナは口を結んだ。
「来るんですか」
「断れば、こちらが隠しているように見える」
「会います」
セリナはすぐに言った。
オスカーは娘を見る。
「会うなら、落ち着いて座れ」
「分かっています」
「怒りを見せるな。疑いを見せすぎるな。相手が何を言い、何を言わないかを見る」
セリナは膝の上で手袋をそろえた。
エアリスは横で聞いていた。
オスカーは彼女にも視線を向ける。
「ヴァレン嬢。君は、無理に話さなくていい」
「はい」
「見ているだけでいい。君は、見落としが少ない」
セリナが少し驚いた顔をした。
「お父様が褒めた」
「事実を言った」
「それが珍しいんです」
オスカーは返事をしなかった。
午後、エルガーは時間ぴったりに来た。
従者は二人だけ。大きな荷物もない。赤炉会の会長としては控えめな訪問だった。
応接室に入る前、セリナは一度だけ深く息を吸った。
「大丈夫ですか」
「大丈夫。たぶん、怒鳴らない」
「怒鳴る予定があったんですか」
「その予定はありました」
セリナはそう言って、口元を整えた。扉が開いた時には、公爵家の娘の顔になっていた。
その横で、エアリスは自分の席を一度だけ確かめた。
セリナの隣。オスカーからも近い。客人としても、友人としてもおかしくない席だった。扉も見える。
応接室で、彼はまず昨日の非礼を詫びた。
「旧施設で職員が対応したそうです。あの辺りは足場が悪い。余計な心配をいたしました」
「ご心配ありがとうございます」
セリナは丁寧に答えた。
「赤炉会は、あちらの施設も使っているのですか」
「古い設備を一部借りています。外縁支援には物資の保管場所が必要ですから」
「支援物資、ですか」
「義肢部品、治療用鉱石、献火礼の札、慰霊用の品々。どれも、現場に近い方がよいのです」
「最近は、若い貴族の方々からも協力の申し出が増えています。外縁を支えたいという熱は、ありがたいものです」
セリナの手袋の指先が、膝の上で重なった。
「ライオネル殿下の演説からですか」
「きっかけは一つではありません」
エルガーは穏やかに答えた。
「ただ、若い方々が傷ついた兵を忘れないのは、悪いことではないでしょう」
エルガーは答える前に迷わなかった。机の上の茶にも、まだ触れていない。
従者の一人が、革の薄い帳面を抱えていた。
表紙には赤炉会の印がある。帳面の角は擦れているが、汚れてはいない。よく使われ、よく手入れされている物だった。
帳面は厚いが、従者の腕はほとんど揺れない。持ち慣れている。
エルガーが名を呼ぶ時、その従者は一度も帳面を開かなかった。開く必要がないのか、開けない場面なのか。
エアリスが見ていると、従者は帳面を胸元へ寄せた。
隠す動きではない。
ただ、見られ慣れている人の仕草でもなかった。
帳面の留め具には、小さな炉の飾りが付いていた。赤炉会の職員が同じものを持っているのを、エアリスは慰霊式で見ている。
飾りは磨かれていた。
毎日、誰かが触れている光り方だった。
オスカーは静かに聞いていた。
「移送が早まったと聞いた」
彼が言うと、エルガーは指先で茶器の持ち手に触れた。
「外縁側の都合です。再訓練区の受け入れ時刻が変わりました」
「誰の判断だ」
「軍務側です。赤炉会は協力団体にすぎません」
「協力団体にすぎない割には、現場でよく名を聞く」
エルガーは柔らかく笑った。
「それだけ、帝国には支援を必要とする方が多いということです」
責められても、彼は崩れない。
エアリスは彼の手を見ていた。
長い指。
書類を扱う指ではなく、人の脈を測る指に近い。
応接室の外で、短い足音が止まった。従者の一人が、扉の外から何かを伝える。
エルガーは扉の方へ目をやった。
「申し訳ありません。急ぎの連絡が入りました」
「構わん」
オスカーは言った。
エルガーは立ち上がる前に、セリナへ向き直った。
「グランツベルク嬢」
「はい」
「傷ついた兵を支えることは、時に戦うことより難しい。けれど、誰かがやらねばならない」
「そうですね」
「あなたは、強い方だ。だからこそ、弱った者の重さを軽く見ないでいただきたい」
セリナの表情が動いた。
膝の上で、彼女の指が強く重なった。
「覚えておきます」
セリナは答えた。
エルガーは礼をして去った。
扉が閉まった後、セリナはしばらく黙っていた。
オスカーが口を開く。
「あれは、善行を武器にできる人間だ」
「悪人ですか」
セリナが尋ねる。
「まだ決めるな」
「でも、お父様は疑っている」
「疑っている。だから決めない」
セリナはその言葉を噛みしめるように、膝の上の手袋を握った。
エアリスは、支援所でエルガーがトマスの義肢を確かめた手つきを思い出した。
同じ手が、今日はセリナの迷いにも触れていた。
夕方、セリナは部屋へ戻ってから、ぽつりと言った。
「エアリス」
「はい」
「あの人の言葉、腹が立つくらい正しかった」
「はい」
「だから嫌だ」
エアリスはセリナに一歩近づいた。
「今日は、怒っていいと思います」
「怒ってもいいの?」
「はい。私が見ています」
セリナは目を丸くして、それから小さく吹き出した。
「それ、見守りなのか監視なのか分からない」
「見守りです」
「じゃあ、少し怒る」
セリナはクッションを一つ抱えた。
そして、誰に向けるでもなく小さく言った。
「ずるい」
その一言だけだった。
エアリスは隣に座り、何も足さなかった。
窓の外では、庭の灯りが一つずつ落ちていく。
セリナはクッションに顔を半分埋めたまま、しばらく動かなかった。泣いてはいない。けれど、強い顔を作るのもやめていた。
エアリスは毛布を一枚取り、セリナの膝にかけた。
クッションの端が、セリナの指で少しへこんでいた。




