第五十七話:旧補給倉庫
旧補給倉庫は、補給路から少し外れた場所にあった。
オスカーはセリナたちを降ろす前に、先に馬車を降りた護衛から短い報告を受けた。先に見る、と言った通り、門と倉庫の裏手を一度ずつ確かめてから、降車を許した。
今では主な倉庫としては使われていない。けれど道そのものは生きている。軍用車両の通る太い道から脇へ入り、低い石壁に沿って進むと、古い倉庫群が見えてきた。
赤い石と黒い鉄骨で組まれた、横に長い建物だった。壁の一部は煤け、屋根の端には古い補修跡がある。ラウグラの商会街や帝都の屋敷とは違う。ここには飾るためのものが少なかった。
荷を置き、運び出すための場所。
壁にも門にも、余計な飾りはなかった。
「ここが旧補給倉庫?」
セリナが馬車の窓から外を見る。
「記録ではそうです」
案内役の護衛が答えた。
「正式には第四旧補給倉庫。今は緊急時の一時保管と、支援物資の積み替えに使われることがあるそうです」
「そういう扱いは、ね」
セリナは短く言った。
今日の許可状には、補給路確認の印が押されていた。端の条件欄には、前と同じ印が並んでいる。誰も、声に出して読み上げなかった。
セリナはそれを守っている。
顔は少し硬かった。
エアリスは隣でその横顔を見た。
「無理をしなくてもいいです」
「してないわ」
「少し、しています」
セリナは返事に詰まった。それから、窓の外へ目を戻す。
「……友達にそれを言われると、言い返しにくいんだけど」
「では、言い返さなくていいです」
「そういうところよ」
セリナは窓枠に指を置いた。怒ってはいなかった。
馬車は倉庫群の手前で止まった。ここから先は、許可のある車両しか入れない。護衛が先に降り、管理所の小さな窓口へ向かった。
エアリスも外へ出る。
風は乾いていた。
帝都の中心部にある熱気とは違う。人の声も少ない。聞こえるのは、遠くで車輪が軋む音と、倉庫の扉が開く重い音だった。
記録係が結晶板を抱え、護衛の少し後ろに立つ。管理所の職員はそれを一度見て、窓口の中から短く言った。
「封印車両への直接記録はご遠慮ください」
「通行状況の記録は、事前許可の範囲内です」
護衛が答えると、職員はすぐに引いた。
「では、封印の内側に向けなければ」
職員は窓口の奥へ戻ったあとも、結晶板の向きを目で追っていた。
補給倉庫の前には、数人の職員がいた。
軍務局の制服を着た者。赤炉会の腕章をつけた者。荷運びの作業員。誰も騒いではいない。声を荒げる者もいない。
静かなまま、箱だけが次々に動いていく。帳簿に印が押される。赤い紐で留められた札が外され、別の札へ替えられる。
そこへ、場違いな明るい声が混じった。
「こちらが旧補給倉庫ですか」
若い貴族たちの見学隊だった。
外縁支援に協力する家の若者へ、支援物資の流れを見せるという名目らしい。軍務局の若い士官が案内し、赤炉会の職員が横で補足している。
マティアスの姿もあった。
彼はセリナに気づくと、少し驚いた顔をした。
驚いたふりか、本当に知らなかったのか。
赤炉会の職員は若い貴族たちへ向き直り、声を少し明るくした。軍務局の職員は説明しやすい箱だけを前へ出した。
奥の布張り車の前には、いつの間にか別の職員が一人立っていた。
エアリスは、その流れを目で追った。
倉庫の端では、作業員が立ったまま冷めた茶を飲んでいた。空の湯呑みが木箱の上に並び、横には硬いパンが布に包まれている。椅子はなく、湯呑みも箱の端へ寄せられただけだった。
「今日は赤炉の分が多いな」
作業員の一人が小さく言い、隣の男に肘で止められた。
二人はすぐに別の箱を持ち上げる。
見学隊の笑い声が重なり、その小さな言葉はほとんど消えた。
セリナは聞こえていた。
エアリスも聞こえていた。
だが、記録結晶には残りにくい。
結晶の中では、作業員の口元より、見学隊の笑い声のほうが大きく残る。
赤炉会の車両には、支援品の札がついていた。毛布、治療用の布、義肢魔導具の部品らしき箱。箱の側面には、赤炉会の印と通行印が並んでいる。
だが、一台だけ、荷台が厚い布で覆われた車があった。
その車の周りだけ、人の距離が近い。
確認も速い。
「あの車は?」
セリナが護衛に尋ねる。
「軍務局の封印付きです。中身までは確認できません」
「赤炉会の車じゃないの?」
「外側は赤炉会の支援車です。ただ、通行印は軍務局のものです」
セリナの眉がわずかに動いた。
エアリスは箱についた札を見た。
赤炉会の印。
軍務局の通行印。
もう一つ、小さな赤い線。
紐ではない。印の端に、細く引かれている。飾りにも見えるほど小さい。
近くで、作業員が札を取り違えかけた。
赤炉会の職員が無言で手を伸ばし、札だけを戻す。作業員も確認し直さず、次の箱へ手を伸ばした。
カバンの中で、魔導書がかすかに動いた。
アキの声が、耳の内側に届く。
『見えた?』
『はい』
『あれ、祈りの印じゃないね。荷を見分けるための印だ』
『誰が見るためですか』
『それはまだ分からない。少なくとも、普通の家族向け支援品につける印ではなさそう』
エアリスは瞬きを一度だけした。
護衛も職員も、こちらを見ていない。エアリスは札から目を離さないまま、指先も動かさなかった。
倉庫の職員が近づいてくる。赤炉会の腕章をつけた若い男だった。笑顔は丁寧で、声も低い。
「グランツベルク公爵家の方ですね。本日は確認にいらしたと伺っています」
「ええ」
セリナが答える。
「赤炉会はこちらで支援物資を扱っているの?」
「はい。傷病騎士と軍属向けの支援品を、一時的に預かることがあります。軍務局の保管量が増えていますから」
「増えている?」
「外縁安定化計画の関係で、物資の流れが少し変わっております」
男はすぐに答えた。
声の速さも、表情も変わらない。
セリナはそれ以上、踏み込まなかった。代わりに、少し離れた荷台を見る。
「あの封印車も支援品?」
「軍務局の管理分です。こちらで中身を申し上げることはできません」
「赤炉会の車なのに?」
「車両の貸与です。軍務局との協力の一環です」
エアリスは男の手を見た。
指先に赤い粉がついている。印を扱った跡だろう。男はそれに気づいていないのか、袖で軽く拭った。
赤い粉はすぐに落ちた。
ただ、袖の白い布に細い色が残る。
「支援品は、どこへ運ばれるんですか」
エアリスが尋ねた。
男は初めて、エアリスの方を見た。
「療養院、復帰訓練施設、軍属会館などです。必要な場所へ」
「外縁の再訓練区にも?」
男の指が、帳簿の角で止まった。
短い間だった。
男の後ろで、帳簿を書いていた軍務局の職員が顔を上げた。
すぐに視線を紙へ戻す。
「場合によっては」
男はそう答えた。
セリナが口を開きかける。
その前に、倉庫の奥で鐘が鳴った。小さく、乾いた音だった。
作業員たちの動きが変わる。封印車の荷台が閉じられ、軍務局の職員が通行札を確認する。赤炉会の男は一礼し、そちらへ戻っていった。
セリナは唇を噛んだ。
「……何も違反してないように見える」
「はい」
「でも、何かを隠しているようにも見える」
「はい」
「面倒ね」
「はい」
「そこは否定して」
エアリスは少し考えた。
「では、多少は面倒です」
「増えてない?」
「言い方を変えました」
セリナはハンカチの端を指で押さえ、息だけで笑った。
その笑いは長く続かなかった。
マティアスが、そこで近づいてきた。
「グランツベルク公女も見学ですか」
「確認です」
「同じようなものでは」
「違います」
セリナの返事は短かった。
マティアスは笑いを薄くした。
「近頃、公女は外縁支援へ熱心でいらっしゃる。若い世代として、頼もしいことです」
その言い方なら、うなずいても黙っても、どちらの反応にも意味を付けられる。
「私は、見たものを家へ報告しているだけです」
「それこそ、立派な協力でしょう」
横から、ヘルムートが口を挟んだ。
「エーレンフェルト卿。今は荷の説明中だ」
マティアスは不満そうに引いた。
ヘルムートはセリナに礼をし、それ以上は言わなかった。
ヘルムートは半歩引いて立ち、マティアスは別の青年の横へ戻った。クラリッサだけが、まだこちらの反応を測るように笑っている。
封印車が動き出す。
赤炉会の支援車と並び、倉庫の裏手へ回る。正門からは出ない。古い補給路へつながる奥の道へ向かっている。
護衛が低く言った。
「あちらは管制区域の内側です。追えません」
「分かってる」
セリナの声は硬い。
エアリスは、車輪の跡を見た。
乾いた土の上に、同じ幅の跡がいくつも残っている。今日だけではない。何度も通っている。
車輪の跡の横には、赤い粉がわずかに落ちていた。風に散れば消える程度の量だ。セリナもそれに気づき、靴先を止めた。
けれど、触れなかった。
カバンの中から、アキがのんびりと言った。
『追う?』
『管制区域の内側です』
『真面目だね』
『今日は、見に来ただけです』
『うん。見ただけで十分な日もある』
アキの声は軽い。
最後の一言だけ、いつもの冗談より低かった。
エアリスは車輪の跡から目を離す。
倉庫の前では、もう次の荷が運ばれていた。
支援物資。
軍務局の封印。
赤い印。
古い補給路。
印と札は、箱の上で別々に並んでいる。一つだけを見ても、荷の行き先までは読めない。
だが、セリナは帰りの馬車で一度も窓の外を見なかった。
膝の上で、手を強く握っている。
エアリスは何も聞かず、自分のハンカチを差し出した。
「泣いてないわよ」
「はい」
「じゃあ、これは何?」
「手を握りすぎているので」
セリナは自分の手を見た。
それから、黙ってハンカチを受け取った。
グランツベルク邸へ戻ると、門番がすぐにセリナへ近づいてきた。
「お嬢様。赤炉会より、明日の面会申し入れが届いております」
「赤炉会から?」
「はい。旧補給倉庫で職員が対応した件について、会長自らご挨拶に伺いたいとのことです」
セリナはエアリスを見た。
エアリスも、同じ紙面を見ている。
封蝋には、赤い炉の紋章。
文面は一行ずつ揃い、余白まできれいだった。
「向こうから来るんだ」
セリナがつぶやく。
エアリスは紙面の差出人欄を見た。
「はい。来るようです」
カバンの中で、魔導書が一度だけ小さく鳴った。




