第五十六話:移送の朝
翌朝、馬車は予定より早くグランツベルク邸を出た。
昨夜のうちに、オスカーは同行範囲だけを確認して許可印を押している。許可書に書き足された文はなかった。
セリナは窓の外を見ていた。
帝都の朝は早い。商会の荷車が動き、軍務局の馬車が通り、広場では兵が短く号令をかけている。昨日までより、軍の色が少し濃く見えた。
「眠れましたか」
エアリスが尋ねると、セリナは振り返った。
「半分くらい」
「半分」
「寝たと言えば寝たし、寝てないと言えば寝てない」
「では、今日は早めに休んだ方がいいですね」
「真面目に心配されると、反論しにくい」
セリナは笑った。けれど、すぐに窓の外へ視線を戻す。
「昨日の人たち、ずっと気になってる」
「訓練場の新兵ですか」
「うん。みんな変だった、って言うほどではないの。でも、返事の間が同じだった」
「間が同じ」
「帝国の訓練でも、あそこまで静かにはならないと思う」
エアリスは、献火札を握っていた青年を思い出した。
緊張でもない。熱意でもない。
火を見ているはずなのに、目が火から離れているように見えた。
馬車は帝都の外縁部へ進む。高い建物は減り、軍務局の施設が増えていく。門を二つ通り、三つ目の門で止められた。
護衛が許可証を出す。兵が確認し、記録係が名を書き込む。
記録板の端に、午後の予定が貼られていた。
帝国青年協賛会有志による外縁兵激励。
ライオネル殿下の名代による祝辞。
時刻は、セリナたちの見学が終わる少し後だった。ここは午後には、傷ついた兵を励ます公開の顔へ変わる。
セリナは予定表から目を離し、門の内側へ視線を移した。号令も、見送りの声もない。
門の内側は、昨日の訓練場よりも静かだった。
療養施設と呼ぶには、少し硬い。訓練施設と呼ぶには、少し人の気配が薄い。
案内役の軍務官は、礼儀正しかった。
「本日は、外縁移送前の準備区画をご覧いただきます。療養を終えた者、再訓練へ移る者、補助任務へ回る者が一時的に滞在する場所です」
「昨日の訓練場へ向かう人も、ここを通るのですか」
セリナが聞く。
「一部は」
軍務官は短く答えた。
「すべてではありません」
セリナは、それ以上の言葉を待った。
軍務官は次の扉へ手を向けるだけだった。
建物の中へ入る。
壁は白く塗られている。床は磨かれている。空気には薬草と油の匂いが混じっていた。義肢の調整室、治療室、待機室。扉の札はどれもきちんとしている。
待機室には、十数人の兵がいた。
傷病騎士もいる。若い新兵もいる。年齢も階位もばらばらだ。
それなのに、部屋は妙に静かだった。
一人が椅子に座り、膝の上で手を組んでいる。別の一人は窓の外を見ている。会話は少ない。眠っているわけではない。視線の置き方だけが、どこか揃っていた。
セリナの足が、そこで少し止まった。
「昨日の訓練場と、似ています」
エアリスが小さく言う。
「うん」
セリナも短く返した。
案内役は聞こえなかったふりをした。
次の部屋には、赤炉会の職員がいた。義肢の調整具を確認し、書類に印を押している。昨日の訓練場で見た腕章と同じものだ。
「赤炉会の方も、こちらに常駐しているんですか」
「協力団体ですので」
軍務官が答える。
「傷病騎士の支援では、以前から多くの実績があります」
職員の手つきは慣れていた。傷ついた兵へ向ける声も柔らかい。近くの兵が、小さく礼を返す。
セリナはそのやり取りではなく、腕章だけを見た。
受付の脇では、年配の女性が布包みを抱えていた。
面会ではないらしい。彼女は窓口の職員へ、名前を書いた小さな札と包みを差し出している。
「本人へ、渡していただくだけで」
「外縁移送前の区画に入った後は、直接の受け渡しはできません」
軍務官の声は硬かった。
赤炉会の職員がすぐに間へ入る。
「こちらで預かります。お名前と関係を確認させてください」
声は柔らかい。
女性はほっとした顔をした。
布包みの端から、古い手袋がのぞいていた。新品ではない。何度も繕われた跡がある。
セリナはその包みを見た。
職員は包みを丁寧に受け取り、布端を直した。
受領札を女性の方へ向けて机に置く。
女性は何度も頭を下げた。
だが、その包みを受け取る本人の姿は、どこにもない。
建物の奥へ進む途中、階段脇に赤い線が引かれていた。
ここから先、軍務管制。
文字の下には通行札を差す板があり、空欄は一つもなかった。
護衛が足を止めた。
「ここまでです」
セリナは階段の先を見た。
上から、車輪の音が聞こえる。重い。昨日見た装甲魔導車の音に近かった。
「上は?」
「移送準備区画です」
軍務官が答える。
「本日の見学範囲には含まれておりません」
セリナは、それ以上は聞かなかった。
エアリスはカバンの中へ意識を向けた。
魔導書は静かだ。
だが、頁の端がかすかに動いた気がした。
施設を出る頃、敷地の裏門から装甲魔導車が一台出ていった。
正面の掲示では、まだ激励視察の前の時刻だった。
窓は細く、内側は見えにくい。
それでも、車内に座る人影は見えた。
誰も窓の外を見ていない。
前だけを向いている。
セリナは手をきゅっと握った。
「エアリス」
「はい」
「あれ、昨日の人たちと同じ目をしてた」
「私も、そう思いました」
馬車へ戻ると、しばらく二人とも話さなかった。
邸へ戻ったあと、オスカーが二人を呼んだ。
執務室には、護衛と記録係の簡単な報告が先に届いていたらしい。オスカーは読み終えた紙を机に伏せる。
「何を見た」
セリナは、待機室の兵と裏門の装甲魔導車のことを話した。
赤炉会の職員が常駐していたこと。
軍務管制区域の向こうに、移送準備区画があったこと。
家族から預かった包みが、本人の手へ渡ったか分からないまま受付の奥へ消えたこと。
そして、兵たちの目が似ていたこと。
オスカーは最後まで黙って聞いた。
「証拠にはならない」
「分かっています」
「だが、無視もできない」
彼はそう言って、指で机を一度叩いた。
「午後には帝国青年協賛会の激励が入っている。公開の場では、同じ場所が別の顔になる」
「はい」
「君たちが見た静けさは、その顔の前に片づけられる」
セリナは唇を結んだ。
「では、見たことを言っても」
「場を選ばなければ、感情的な見間違いにされる」
オスカーの声は冷たくない。
ただ、甘くもなかった。
「次は、私が先に見る」
セリナが顔を上げる。
「父上」
「ここから先は、セリナ個人の見学ではない。グランツベルク家として踏み込むかどうかを決める話になる」
セリナはすぐには答えなかった。
「……分かりました」
セリナは報告書の端を指で押さえた。
エアリスは、その横顔を見た。
昨日より、セリナのまなざしに力が戻っている。
その手は膝の上で握られていたが、もう下を向いてはいなかった。




