第五十五話:訓練場の火
外縁手前の訓練場へ向かう朝、空は薄く曇っていた。
セリナは公爵家の馬車ではなく、家の護衛が使う実務用の魔導馬車を選んだ。飾りは少ないが、車体は頑丈で、揺れも少ない。護衛二人と記録係一人が同乗している。
「豪華な方じゃないんですね」
エアリスが言うと、セリナは窓の外を見ながら答えた。
「見学に行くのに、飾り立てた馬車で乗りつけるのは変でしょ」
「なるほど」
「あと、こっちの方が速い」
馬車はすでに帝都の外郭へ向かっていた。通常の馬車とは違い、車輪が石畳を強く叩く音はほとんどない。車体の下を薄い魔力光が流れ、道の継ぎ目を軽く越えていく。
途中、何度か短い休止が入った。
馬が疲れたわけではない。魔導具の出力を整え、次の区間へ入るための調整だという。
エアリスは外を見た。
帝都の建物は次第に低くなり、軍用倉庫や訓練施設が増えていく。遠くには赤黒い塔が並び、空へ薄い煙を上げていた。聖都の白い回廊とはまるで違う景色だった。
一度目の停車では、外郭の検問所が近くに見えた。
軍人が二人、グランツベルク家の紋章と通行許可を確認してから道を開ける。挨拶は短い。相手が公爵家でも、手順は残るらしい。
セリナはそれを当然のように見ていた。
記録係は検問の時刻を板に刻み、護衛の一人が短く署名する。速いが、雑ではない。
通過するまで、一分もかからなかった。
「帝国は、火と鉄が多いですね」
「うん。綺麗かどうかは分からないけど、落ち着く人は落ち着くと思う」
「セリナさんは?」
「半分くらい」
「半分」
「聖都にも慣れちゃったから」
セリナはそう言って、小さく笑った。
訓練場は広かった。
赤い石で囲まれた平地に、複数の訓練区画が並んでいる。遠くでは魔法の射撃訓練が行われ、別の区画では軍用魔導車の整備が進められていた。
見学者用の受付には、赤炉会の腕章をつけた職員もいた。
受付の横には、若い貴族たちの一団もいた。
外縁功労者交流会の延長として、外縁訓練を見学する枠が設けられているらしい。家紋入りの外套、簡易の見学者証、護衛を少なくした身軽な姿。
セリナは彼らを見て、眉を寄せた。
「また」
「偶然ですか」
「最近の帝都は、偶然がよく働くみたい」
クラリッサがこちらに気づき、丁寧に一礼した。
ヘルムートもいる。彼は気まずそうではなく、むしろ真面目な顔で訓練場を見ていた。マティアスは少し後ろにいて、今日は前へ出てこない。
若い貴族が同じ場所にいる。
彼らの護衛や従者も、それぞれの家紋の後ろでこちらを見ていた。
「赤炉会もここに」
「傷病騎士の再訓練支援なら、名目としては通る」
セリナは受付の書類に名を書いた。護衛と記録係も続く。
案内役は軍の中年士官だった。硬い表情だが、対応は丁寧だった。
「本日は外縁勤務予定者の基礎訓練を見学していただきます。軍務管制区画には入りません。撮影記録は許可された場所のみでお願いします」
「承知しています」
セリナが答える。
エアリスは案内役の後ろを歩きながら、訓練場を見た。
新兵たちは若い者が多い。帝国らしく体格のいい者もいれば、まだ軍服に慣れていない顔の者もいる。彼らは火神像の前に並び、指導役の声に合わせて短い誓句を唱えていた。
列の後ろでは、古参らしい兵が新兵の肩紐を直していた。乱暴ではない。だが、手つきに余分な優しさもなかった。
「背筋を伸ばせ。外縁では、疲れている時ほど姿勢が崩れる」
「はい」
答えた少年の声は少し上ずっていた。
別の少年は、火神像の台座を見つめている。唇がわずかに動いていた。誓句を先に練習しているのかもしれない。
火神像は大きくない。
片手に炎を掲げた神像だ。台座の前には、赤い札がいくつも並べられていた。
「あれは?」
エアリスが尋ねる。
案内役が振り返る。
「献火札です。外縁勤務へ向かう前に、各員が誓いを込めます。帝国軍では古くからある習慣です」
セリナは少し眉を寄せた。
「新兵だけですか」
「今回は外縁安定化計画に参加する者を対象にしています」
案内役の声はよどまなかった。
それ以上は聞きづらい。
新兵たちは一人ずつ札に触れた。触れた瞬間、札の縁が淡く赤く光る。祝福のようにも見える。
エアリスは、カバンの中で魔導書がかすかに動いたのを感じた。
「アキさん」
口には出さない。
けれど、返事は頭の中に届いた。
『札そのものは安物じゃないね。表は普通。裏に、ちょっと面倒な処理がある』
『危険ですか』
『今すぐ爆発する類じゃない。だから余計に嫌だね』
エアリスは札を見つめた。
新兵の一人が札に触れ、口を動かす。誓句は他の者と同じだった。けれど、言い終えた後、視線の焦点が一瞬だけぼやける。
その時、若い貴族の一団が少し前へ動いた。
マティアスではない。赤い袖章をつけた別の少年が、隣の友人へ場所を譲るふりをして、エアリスたちの視線を遮った。
少年は一度だけ肩越しにこちらを見た。
友人は笑って半歩ずれ、また視線の前に戻る。
セリナが一歩動こうとしたが、クラリッサが先に声をかけてきた。
「グランツベルク公女。こちらからの方が全体はよく見えますわ」
全体は見える。
だが、札に触れた瞬間の顔は見えない。
「ありがとうございます。全体はあとで記録で見ます。今は、顔を見ています」
セリナの返事は穏やかだった。
ヘルムートがそのやり取りに気づき、少年たちへ低く言った。
「前へ出すぎだ。見学の邪魔になる」
少年たちはすぐに下がった。
ヘルムートはセリナへ礼をした。
セリナは礼を返したが、すぐには視線を外さなかった。
ヘルムートの手は、まだ少年たちの方へ向いていた。
さっきの新兵の顔は、疲れかもしれない。
緊張かもしれない。
隣の新兵も同じ顔をした時、エアリスは指先を軽く握った。
訓練が始まる。
剣、魔法、行軍姿勢、魔導車への乗降。内容自体は軍の基礎訓練に見えた。
ただ、指導役が「外縁勤務」と言った時だけ、新兵たちの返事は妙なところで切りそろえられた。
声の大きさではない。
吸う間と、止める間が同じだった。
呼吸までそろっているように聞こえる。
セリナもそれに気づいたらしい。彼女は何も言わなかったが、記録係へ目で合図した。
訓練の休憩中、セリナは案内役に尋ねた。
「赤炉会は、この訓練にも関わっているのですか」
「治療、義肢調整、精神安定の補助です。外縁勤務は負担が大きい。再訓練者や新兵にとっては、支援が必要になります」
「精神安定」
「はい。恐怖で動けなくなる兵を減らすためです」
案内役の声に詰まりはなかった。
エアリスはその言葉を聞きながら、火神像の前に置かれた札を見た。
恐怖を減らす。
近くの兵が、顎を引いた。
だが、恐怖がない兵は、本当に強いのだろうか。
昼前、訓練場にエルガー・ヴァイスマンが現れた。
赤炉会の会長は、先日の献火礼と同じ穏やかな顔で士官たちに挨拶した。新兵たちにも声をかける。
士官たちは彼を特別に持ち上げはしなかった。だが、誰も止めない。赤炉会の職員が訓練区画へ入ることに、場の誰も驚いていなかった。
エルガーは歩く速度を落とし、列から少し外れていた兵の前で足を止めた。
「足は痛みませんか」
「はい」
「夜は眠れていますか」
「はい」
「外縁勤務は怖いですか」
「帝国のためなら」
若い兵はそう答えた。
エルガーは微笑んだ。
「立派です」
その言葉に、兵は少し誇らしげな顔をした。
セリナが小さく息を止める。
エアリスも見ていた。
エルガーが問いを止めるたび、兵の肩から力が抜けた。答えを急がせる前に、相手の息が整うまで待っている。
見学が終わる頃、案内役は礼儀正しく頭を下げた。
「本日の見学記録は、軍務局へも共有されます」
「問題ありません」
セリナは答えた。
その声はいつもより硬い。
そこへ、クラリッサが近づいた。
「今日の訓練、どうご覧になりました?」
クラリッサは手袋の指先をそろえ、笑みを崩さなかった。
だが、周囲には若い貴族がいる。
近くの青年が、笑顔のまま耳だけをこちらへ向けた。
セリナは手袋の指先をそろえた。
「皆さん、よく鍛えられていました」
「外縁へ送るには十分、と?」
「それを決めるのは、軍務の方です。私は見学者ですから」
セリナの足は引かなかった。
けれど、視線は軍務官の腕章で止まった。
クラリッサは少し笑った。
「公女は慎重でいらっしゃる」
「帝国には、慎重な火も必要だと思います。燃えるだけなら、油でもできますから」
セリナがそう返すと、クラリッサの笑みがわずかに深くなった。
マティアスが口を開きかけたが、今度は何も言わなかった。
馬車へ戻ると、彼女はしばらく黙っていた。
「どう思った?」
ようやくそう聞く。
「札に触れた後の目が、少し変でした」
「やっぱり、見えてた?」
「はい」
「私にも、少し」
セリナは拳を握った。
「でも、あれをそのまま言っても、たぶん訓練で緊張していたと言われる」
「そうですね」
「だから、もっと見ないといけない」
エアリスはセリナを見た。
「見るだけで、いいですか」
セリナは答えに詰まった。
馬車の外で、別の軍用魔導車が動き出す。荷台には封じられた箱が積まれていた。
献火札と同じ赤い紐が、箱の角に結ばれている。
エアリスはその色を覚えた。
その日の午後、グランツベルク邸へ戻った頃には、セリナは少し疲れた顔をしていた。
エアリスは何も言わず、昨日買った苺の焼き菓子を皿に乗せて差し出す。
「また甘いもの?」
「はい」
「今日もアキさんの助言?」
「今日は私の判断です」
セリナはしばらく皿を見て、それから一つ取った。
「……じゃあ、いただく」
その声は、弱かった。
エアリスは隣に座る。
政治の話はしなかった。
赤い札のことも、今はまだ言わなかった。
ただ、セリナが食べ終えるまで、そこにいた。
扉の外では、護衛が交代する短い声が聞こえた。
セリナはそれに気づいていたが、顔を上げなかった。菓子の欠片を指で集め、皿の端へ寄せる。
「明日、また見に行くと思う」
「はい」
「止めないんだ」
「止めてほしいですか」
セリナは少し黙り、それから首を横に振った。




