第五十三話:食卓と返事
翌々日の夕方、セリナはライムントからの招きに応じる支度をしていた。
招待状は机の端に置かれている。
出席者の欄では、ライオネル皇子の名に小さな赤い印が添えられていた。
「……来たか」
「行きたくないんですか?」
「行きたいかどうかで決められる食事なら、まだ楽なんだけどね」
そう言いながらも、セリナは逃げるつもりはないらしい。侍女を呼び、衣装を選び始めた。
エアリスも支度を整える。
聖都の制服ではなく、淡い白を基調にした外出用の衣装だった。セリナが選んでくれたものだ。帝国式の赤や黒を強く入れすぎない方が、今はいいらしい。
「エアリスは、そのままで綺麗だからずるい」
「ずるい、ですか」
「ずるいよ。私なんて、髪飾り一つで叔父様に何を言われるか考えないといけないのに」
「では、今日は控えめにしましょう」
「控えめにしても、言う人は言うんだよね」
セリナはそう言って、結局、赤い石の小さな髪飾りを選んだ。
食堂は、家族だけで使うには広すぎる部屋だった。
長い卓には、ライムント、エレオノーラ、それから先日の席でも顔を合わせた若い皇族がいた。
「来たか、セリナ」
「はい、叔父様」
セリナは礼をする。
エアリスもそれに合わせた。視線を下げる角度、上げるタイミング、座るまでの間。城で教わった礼法は、この場でも役に立った。
父の声が、短く頭をよぎった。
間違えるな。
ライムントはエアリスを見る。
「聖都の学術院から来た客人だったな」
「エアリス・アウレリア・ヴァレンです。お招きいただき、ありがとうございます」
「堅いな。まあ、聖都の子なら当然か」
彼は笑った。
杯を持つ手は動かず、目だけがエアリスの返事を待っていた。
若い皇族が、穏やかに口を開く。
「改めまして、ライオネル・ヴァルター・アルディオンです。今日は、ただの同席者だと思ってください」
「ただの同席者とおっしゃるには、席が良すぎます」
セリナが小さく言うと、ライオネルは苦笑した。
「そういうところ、君はお父上に似ているね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
食事が運ばれてくる。
香草をすり込んだ肉、赤い根菜の煮込み、焼きたての平たいパン。聖都の食事より、香りが強い。肉の脂も濃かった。
エアリスが一口食べると、セリナが横目で見る。
「どう?」
「おいしいです」
「よかった。これが合わないと、帝国滞在はちょっと大変」
「では、合ってよかったです」
セリナは小さく笑った。
ライムントが杯を置く。
「魔淵外縁安定化計画の成果見学が近い」
セリナの手が止まる。
「成果見学、ですか」
「新たに組まれた再訓練区と、外縁支援の一部を見せるらしい。若い世代にも見せておくべきだ、という話になっている」
ライムントはそこで、声を軽くした。
「先日の交流会では、少し熱があったそうだな。若い者同士が力を見せ合うのは悪いことではない。帝国では、言葉だけでなく腕も見られる」
セリナの髪飾りが、小さく揺れた。
「叔父様のお耳は早いですね」
「帝都は広いが、若い者の話はよく走る」
ライムントは笑った。
「エーレンフェルト家の若者は少々急いたようだが、ああいう熱も帝国には必要だ。上の者がすべてを整えるより、若い者がぶつかった方が分かることもある」
セリナの脳裏に、実技場で笑ったまま下がったマティアスの顔が浮かんだ。
あれも、今は熱の一つとして卓に置かれている。
「それを、私に?」
「君もグランツベルクの娘だ」
ライムントは静かに言った。
「いつまでも学術院の学生ではいられない」
セリナはすぐには返さなかった。
エレオノーラが、そこで柔らかく口を挟む。
「ライオネル殿下も出席なさるのよね」
「ええ。その予定です」
ライオネルはグラスを置き、セリナへ向き直った。
「外縁の緊張は、皇室にとっても軽い話ではありません。セリナ嬢にも、一度ご覧いただきたいのです」
言葉は丁寧だった。
セリナは、手元の指を一度だけ握った。
セリナは笑顔を作る。
「考えておきます」
「考えるだけでは遅いこともある」
ライムントの声が硬くなった。
オスカーはいない。
この席にいない人の名が、むしろ強く見える。そんな食卓だった。
食事の後、セリナはエアリスを連れて廊下へ出た。
扉が閉まると、セリナは壁に肩を預けた。
「ごめん。変な食事に付き合わせた」
「変、ではありました」
「そこは否定してくれてもいいんだけど」
「では、控えめに言って変でした」
「控えめならいいか」
セリナは壁にもたれた。いつもの明るさはある。けれど、今日は少し薄い。
「成果見学に行くんですか?」
「たぶん、行かされる」
「行きたいですか?」
その問いに、セリナは指先を見下ろした。
「分からない。見た方がいいのは分かる。でも、叔父様に言われて行くのは嫌」
「では、誰に言われたら行けますか」
「……父上かな」
それから、セリナは小さく笑った。
「自分で決めろって言われそうだけど」
「それなら、セリナさんが決めるしかありません」
「正論」
「はい」
「たまに、正論が苺の菓子みたいに出てくるよね」
「甘いですか?」
「甘くはない。形が綺麗すぎる」
エアリスは少し考えた。
「では、次は少し崩します」
「それ、練習して崩すものじゃないと思う」
セリナがようやく、いつもの調子で笑った。
部屋へ戻ると、カバンの中の魔導書がかすかに開いた。
「外縁訓練場ねえ」
アキの声がする。
「聞いていたんですか」
「本は耳がいいんだよ」
「本に耳はありません」
「細かい」
アキは頁の隙間から顔を出す。
「行くなら、面白いものは見られると思うよ。ただ、相手も見せたいものしか見せないだろうけど」
「それでも、見ないよりはいいですか」
「見方次第」
エアリスはセリナの髪飾りの赤い石へ目を落とした。
セリナは椅子に座り、髪飾りを外す。
赤い石が、机の上で小さく光った。
「明日、父上に聞いてみる」
「はい」
「その時、一緒にいてくれる?」
「もちろんです」
セリナは、外した髪飾りを指先で転がした。
赤い石は机の上を二度打ち、やがて止まった。
翌朝、グランツベルク邸はいつもより少し落ち着かなかった。
廊下を行き交う使用人の足が早い。広間の花が替えられ、玄関側には外出用の馬車が二台用意されている。
大きな声はない。
だが、家全体が何かを待っているようだった。
朝食の席で、エレオノーラはセリナへ微笑みかけた。
「昨夜は疲れたでしょう」
「それなりに」
「ライオネル殿下は穏やかな方ね」
セリナはパンをちぎる手を止めた。
「ええ。穏やかな方だと思います」
「あなたも、もう子どもではないもの」
セリナはパンを皿へ戻し、笑顔のまま「はい」とだけ答えた。
エアリスは隣で、何も言わなかった。
食後、二人は中庭へ出た。
庭には、帝国式の赤い石柱が並んでいる。聖都の庭のような祈りの形ではなく、石そのものが力を示していた。
セリナは石段に腰を下ろした。
「母上は、ああいう言い方をする人じゃなかったんだけどな」
「今は違うんですか?」
「違うというより、間に挟まってるんだと思う。祖父のことも、父上のことも、私のこともあるから」
セリナは手のひらを上に向けた。
小さな火が灯る。
炎はすぐ消えた。
「私、火の魔法は好きなんだ。分かりやすいから。燃やす、温める、照らす。できることが見える」
「政治は見えにくいですか」
「見えにくいし、燃やしたら怒られる」
「それは、怒られると思います」
セリナは笑った。
かすかに、けれどちゃんと笑っていた。
エアリスはカバンから小さな包みを出す。
「昨日、菓子を一つ残しておきました」
「いつの間に」
「セリナさんが考えている間に」
「私が重い話をしている横で、苺の菓子を確保してたの?」
「必要だと思いました」
「うん、必要」
二人で半分ずつ食べた。
甘さは強くない。苺の酸味が少し残る。
その時、庭の入口に使用人が立った。
「セリナお嬢様。旦那様より、お呼びでございます」
セリナは立ち上がる。
「父上が?」
「はい。外縁訓練場の件で、お話があるとのことです」
エアリスも顔を上げた。
昨夜の話が、もう父の机まで届いている。
グランツベルクの屋敷では、食卓の言葉も朝には書類になっているらしい。
セリナは深く息を吸った。
「行こう」
「はい」
オスカーの執務室は、朝でも薄暗かった。
窓は広いが、厚い布で光が抑えられている。机の上には地図、封書、赤い印章つきの書類が並んでいた。
オスカーは二人を見る。
「ライムントから、外縁訓練場の成果見学について話があったそうだな」
「はい」
「行くつもりか」
セリナはすぐには答えなかった。
視線だけが、一度、机の上の封書へ落ちる。
「見ておくべきだと思います」
「理由は」
「叔父様に言われたからではありません。赤炉会、移送、外縁訓練。名前は違うのに、最後は同じ門へ運ばれているように見えます」
オスカーは封書の角を指で押さえた。
「気がする、で動くには危うい話だ」
「分かっています」
「分かっているなら、なおさらだ」
オスカーは封書に手を伸ばさず、セリナの次の言葉を待った。
セリナは顔を上げる。
「父上。私は、見ないまま決めたくありません」
執務室に沈黙が落ちた。
オスカーはしばらく娘を見ていた。
それから、机の上の封書を一枚取る。
「ユリウス殿下からも、同じ件で打診が来ている」
「殿下から?」
「正式な招待ではない。見学枠の調整だ。軍務局を通しているから、形は整っている」
セリナは封書を見る。
エアリスも、印章だけを目に留めた。皇室の印と、軍務局の細い印が重なっている。
「返事は、まだしていない」
オスカーは言った。
「行くなら、こちらで条件を付ける」
「条件、ですか」
「昨日の食卓で出た話に乗るのではない。グランツベルク家として、見学を受ける。それだけだ」
「ライオネル殿下の席で押された娘としてではない。ユリウス殿下の紙に従う駒としてでもない」
セリナは封書の端に視線を落とした。
「分かりました」
オスカーは今度、エアリスを見る。
「君も行くのか」
「セリナさんが望むなら」
「セリナが望まなくても、君は見たいのではないか」
エアリスは封書とセリナを順に見た。
「見たいです」
オスカーの指が封書の端を押さえ直した。
「隠さないのは美点だが、帝国では少し危ない」
「気をつけます」
「気をつけるだけで足りる場所なら、私も何も言わない」
オスカーは封書の端を指で押さえたまま、そこから先を言わなかった。
オスカーは封書を机に置く。
「午後までに返事を出す。セリナ、エアリス嬢。行くなら、今日のうちに休んでおきなさい。外縁訓練場は、見学用に飾られていても、学術院の実技場とは違う」
「はい」
「ありがとうございます」
二人は礼をして部屋を出た。
廊下に出ると、セリナは扉の前で足を止めた。
「父上、止めなかった」
「止めたかったんでしょうか」
「たぶん、半分は」
「残りの半分は?」
「私に決めさせたかったんだと思う」
セリナはそう言って、少し困ったように笑った。
「ずるいよね。止めてくれた方が楽なのに」
「でも、止められたら怒ったと思います」
「……うん。怒った」
エアリスは静かに言った。
「では、良いお父様です」
「そこで結論出す?」
「違いましたか」
「合ってるから困る」
セリナはそう言って、もう一度笑った。
午後には、正式な見学許可証が届く。
まだ何も見ていない。
セリナは廊下を戻りながら、さっきよりまっすぐ前を見ていた。




