第五十二話:旧補給路の箱
翌日の午後、二人は皇室管理の小庭園へ向かった。
庭園といっても、街中の飾りではない。赤い石壁に囲まれた一角に、低い木々と細い水路が整えられている。火の国の都にあるのに、水音がよく聞こえた。
護衛は入り口で止められた。
代わりに、皇室側の護衛が庭園の外周へ立つ。
庭園へ入る前に、二人は短い確認を受けた。
武器の持ち込みではない。記録結晶の有無、同伴者の人数、退出時刻の確認。皇室の係官は淡々としていたが、確認は細かい。
セリナは書類に署名しながら、声を落とした。
「私たちだけじゃなくて、殿下側も記録を残す気ね」
「それは、信用できることですか」
「半分は。半分は、逃げ道を塞がれてる」
係官は署名を確認し、二人へ小さな金属札を渡した。退出時に返すものらしい。
札は軽いが、皇室の紋が入っている。
セリナはそれを指先で弾き、すぐ手の中へしまった。
彼女は入り口の方を一度だけ見て、声を落とした。
「本気で人払いしてる」
「危険ですか」
「危険というより、面倒な話をする気なんだと思う」
奥の東屋に、ユリウスがいた。
礼服ではなく、濃い赤の上着を着ている。机の上には茶器と、薄い書類が数枚だけ置かれていた。
近くに側近の姿はない。
だが、東屋の柱には薄い防音の術式が刻まれている。エアリスには読めない文字も多かったが、淡い光が柱の内側で止まっているのは見えた。
ユリウスは、それを隠そうとはしていなかった。
茶器は三つだけ。
予備の椅子もない。あとから誰かを呼ぶ形にはしていなかった。
「来てくれて感謝する」
ユリウスは立ち上がった。
「急な呼び出しで申し訳ない」
「殿下の呼び出しを、簡単に断れる人は少ないと思います」
セリナが言うと、ユリウスは苦笑した。
「そう言われると否定しにくい」
彼はエアリスへ視線を向ける。
「エアリス嬢も」
「はい」
三人は席についた。
茶は香りが強い。帝国の茶は、聖都のものより渋みがあった。
ユリウスはすぐ本題に入った。
「昨日の献火礼で、トマス・ベルンという騎士を見ただろう」
セリナの表情が変わる。
「やっぱり、殿下もあの人を?」
「見ていた」
ユリウスは書類を一枚だけ差し出した。
トマスの名の横に、四つの印が押されている。
療養院。再訓練施設。献火礼。魔淵外縁再訓練区。
どの印にも、赤い訂正線は入っていなかった。
紙の上では、トマスは順番通りに移されたことになっていた。
「これだけなら、何もおかしくない」
セリナが言った。
「ええ」
ユリウスは訂正線のない紙を指先で押さえた。
「だから、手を出しにくい」
エアリスは書類から目を上げた。
「これは、全部ですか?」
ユリウスの指が止まる。
セリナもエアリスを見る。
「何が?」
「殿下が見せてもよいと判断した分です。全部ではないと思いました」
ユリウスは数秒黙った。
それから、笑った。
楽しそうではない。感心を隠しきれない笑い方だった。
「大主教閣下が君をAクラスへ入れた理由が、少し分かる」
「答えになっていません」
「全部ではない」
ユリウスは素直に認めた。
「君たちを全面的に信じているわけではない。君たちも、私を信じきる必要はない」
「それでも呼んだんですね」
エアリスが言う。
「呼ばなければ、君たちは別の入口を探すだろう」
「探すと思います」
「なら、私が見える場所にいてくれた方がいい」
ユリウスは茶杯を持ち上げた。
飲むためではなく、口元を隠すための動きに見えた。
セリナは腕を組んだ。
「ずいぶん正直ですね」
「嘘をつくなら、もっと役に立つ嘘をつく」
「今のも嘘ですか?」
「半分くらい」
セリナは椅子の背に指をかけた。
「殿下って、ほんとに面倒ですね」
「よく言われる」
ユリウスは次の紙を机に置き、下半分を指でなぞった。
「献火札は式で配られる。本人が火へ捧げる。けれど、札は燃えない。赤炉会が回収し、最後は軍務局管轄の保管炉へ送られる」
「本人に返らないんですね」
エアリスが言う。
「返らない。名目上は、誓約の記録として保管される」
「保管場所は?」
「いくつかある。昨日の式の分は、帝都西側の旧補給路を通る可能性が高い」
セリナが眉を寄せた。
「旧補給路?」
「魔淵方面へ向かう軍用輸送路の一つだ。今は主要な軍用路ではないが、赤炉会の物資が使うには都合がいい」
エアリスは机の上の紙を見た。
地図はない。
地点名も、一部だけ。
旧補給路の名はあるのに、その先へ続く軍務区画は抜けていた。
「殿下は、私たちに何を見せたいんですか」
ユリウスは茶器に触れた。
「君たちが何を見るかを見たい」
「また試すんですか」
セリナの声が少し尖る。
「試す。だが、利用だけするつもりなら、ここへ呼ばない」
「それを信じろと?」
「信じなくていい」
ユリウスはセリナを見た。
「ただ、君は昨日のトマスを見て、放っておける人ではない」
セリナは黙った。
「そして、エアリス嬢」
今度はエアリスへ向く。
「君は、分からないまま頷く人ではない」
エアリスは返事をしなかった。
ユリウスは続ける。
「私の方から出せるものは少ない。赤炉会は公には善行を積んでいる。支援を受けた者も、助かった家族も本当にいる。雑に疑えば、こちらが傷つく」
「だから、見に行く」
エアリスが言った。
「ええ」
ユリウスはそこで紙を閉じた。
「ただし、軍務局の管制区域へ踏み込めば、君たちの立場では済まなくなる。外から見られるところまででいい」
「今のも、出せるところだけですか」
エアリスが尋ねると、ユリウスはまた少し笑った。
「今日はよく刺してくるな」
「刺したつもりはありません」
「なら、なおさら怖い」
セリナがそこで笑った。
短い笑いだったが、場の硬さが少しほどけた。
ユリウスは最後に、紙片を一枚渡した。
そこには、旧補給路の近くにある公開区画だけが記されている。
「そこなら、グランツベルク家の名で動ける。オスカー公も止めにくい」
「お父様まで計算済みですか」
「公爵家を動かすなら、当主を無視できない」
セリナは紙片を受け取った。
「分かりました。行きます」
「セリナ」
ユリウスの声が少し変わった。
「見たものを、すぐ誰かにぶつけるな。火の近くで油を撒けば、燃えるのはこちらだ」
セリナは紙片を握る。
「分かっています」
「ならいい」
会談は長くなかった。
帰り際、エアリスは一度だけ振り返った。
ユリウスは机の上の書類を片づけている。
出した紙は少ない。
しまった紙の方が、多かった。
庭を出ると、風が少し冷たかった。
セリナは紙片を袖の中へしまい、すぐには歩き出さない。
「……嫌な渡され方」
「はい」
エアリスは隣で待った。
セリナは紙を折り目に沿って伏せ、それから顔を上げる。
「でも、渡された以上は、見に行く」
旧補給路の公開区画は、帝都の西端にあった。
市街地から離れているが、完全な軍用地ではない。商会の倉庫、古い馬車場、軍属向けの宿、赤炉会の小さな事務所が並んでいる。
セリナは父に話を通した。
オスカーは護衛へ直接許可を出した。
別紙には、入ってよい区画だけが赤く塗られていた。
今回は、エアリスも記録結晶を持たされた。
小さな透明の結晶で、握ると見た景色と音を短時間だけ残せる。使い方は簡単だった。魔力を流す必要はない。護衛が起動し、エアリスは持っているだけでよかった。
「これ、落としたら怒られる?」
セリナが自分の結晶を見ながら言う。
「怒られると思います」
「だよね」
「落とさないようにしましょう」
「急に真面目」
「ずっと真面目です」
「それは知ってる」
二人は護衛と一緒に、公開区画の端に立った。
旧補給路は、広い石畳の道だった。今は主要な軍用路ではないと聞いたが、それでも車両の行き来は多い。軍用の赤銅車、商会の荷車、赤炉会の支援車。どれも速度を落とさず、決められた線に沿って進んでいく。
路面には、古い車輪の跡がいくつも残っていた。
新しい線は赤く、古い線は黒い。古い軍用路の跡は、車輪の下でまだ消えずに残っていた。道の端には、今は閉じられた補給所の門があり、赤銅の板で封がされている。
公開区画にいる者は少なくない。
商会の使用人が荷札を確認し、軍属の家族らしい者が許可証を見せている。見物人はいない。ここへ来る者は、何かしらの用がある人間ばかりだった。
セリナが腕を組んだ。
「昨日の献火札、本当にここを通るのかな」
「殿下の紙には、可能性が高いとありました」
「可能性が高い、ね。便利な言い方」
「全部ではない紙ですから」
「それもそう」
しばらく待つと、赤炉会の車が三台続けて現れた。
車体は白く、赤い炉の紋が入っている。療養院で見た車より小型だが、後部の箱は厳重に固定されていた。
その前にも、赤炉会の車は一度通っている。
包帯、食料、義肢部品。
箱の側面にそう書かれた荷は、商会の荷物と同じ列で検査を受け、そのまま門を抜けた。
今来た三台だけ、停車位置が違った。
軍務局の職員が先に立ち、周囲の者を一歩下げさせる。
護衛の一人が記録結晶を確認する。
「撮れています」
車は公開区画の前で一度止まった。
市側の係員ではなく、軍務局の職員が近づく。短いやり取りの後、職員は札のようなものへ印を押した。
赤炉会の職員が後部の箱を開ける。
中にあったのは、細長い金属箱だった。
エアリスは呼吸を整えた。
箱の表面に、献火礼で見た火紋がある。
「あれ」
セリナの視線も、同じ場所で止まった。
職員が箱を持ち上げる。
その時、箱の隙間から赤い薄片が一枚だけ見えた。
献火札。
火にかざされたはずのもの。
燃えなかったもの。
それは丁寧に重ねられ、別の箱へ移されていく。
エアリスは記録結晶を動かさなかった。
動かせば、見ていることが目立つ。
護衛が代わりに角度を変える。
赤炉会の職員は慣れていた。軍務局の職員も、手順を確認するだけで箱の中身には触れない。
ただ一人、若い兵が箱の中を見て、すぐ目を逸らした。
声は上がらなかった。
その兵は、すぐに隣の上官から書類を渡された。
受け取る動きは遅くない。
けれど、目だけが一度、箱ではなく赤炉会の炉印へ戻った。
エアリスは、その視線を覚えた。
アキの声が、エアリスとセリナの頭の奥へ小さく届く。
「触らないでね」
「はい」
「見た目より、面倒なものが混ざってる」
「何が混ざっているんですか」
「今ここで言うと、君が顔に出しそう」
「出しません」
「うん、知ってる。だから僕が楽しくなって、もっと言いたくなる」
「言わないでください」
「はい」
セリナが横目でエアリスを見る。
「アキさん?」
「はい」
「また変なこと言ってる?」
「言いかけています」
「止めて」
「止めました」
セリナは短く笑った。
だが、すぐに視線を戻す。
箱の移し替えは短時間で終わった。
献火札の入った金属箱は、赤炉会の車ではなく、軍務局の車へ積まれる。車体に目立つ紋章はない。赤銅色の装甲だけが、光を受けて鈍く光っていた。
車の後部扉が閉まると、音が重く響いた。
鍵が二つ。
封印が一つ。
最後に、軍務局の職員が赤い印を押す。
赤炉会の職員は、その印を確認してから一礼した。
「赤炉会が回収して、軍務局へ渡す」
セリナがつぶやく。
「式で使われた札は、軍の保管炉へ送られる」
エアリスも、ユリウスの言葉を思い出した。
車が動き出す。
護衛が近づいた。
「セリナ様。これ以上は管制区域です」
「分かってる。追わない」
セリナは答えた。
それでも、指先は管制区域の方へ向いたままだった。
エアリスは車の後ろ姿を見送った。
戻る途中、セリナはほとんど話さなかった。
屋敷へ着くと、護衛は記録結晶をオスカーへ届けに行った。
セリナは最初に地図を開かなかった。
机の前に立ったまま、さっきの道の方角を見ている。
「あの兵、何を見たんだろう」
エアリスは椅子に座らず、セリナの隣に立った。
「箱の中です」
「うん。でも、見たのはそれだけかな」
セリナは小さく首を振った。
「目を逸らした後、もう一度、赤炉会の炉印を見た。あれ、知らないものを見た顔じゃなかった」
エアリスも、同じ場面を思い出した。
若い兵は怯えていた。
けれど、赤炉会の炉印を見た時だけ、まばたきが止まった。
セリナはようやく地図を広げた。旧補給路と軍務管制区域のあたりへ、細い指で印を置く。
「私たちが見たのは、ここまで」
印は管制区域の手前で止まった。
「この先に行けば、もうグランツベルク家の令嬢の見学じゃ済まない」
「行きますか?」
「今は行かない」
セリナはすぐに答えた。
「見たい。でも、今踏み込んだら、父にも迷惑をかける」
その言葉は、悔しそうだった。
エアリスは記録用に置かれていた紙を一枚取った。
若い兵は、箱の中身を見て目を逸らした。
それだけを書き、少し間を空けてから、赤炉会の炉印、と添える。
その下は空けた。
扉が開き、侍女が封書を持ってきた。
「セリナ様。ライムント様より」
セリナは封筒の家紋を見ただけで、嫌そうな顔をした。
「今度は何」
封書には、翌々日の夕食会への招待が書かれていた。
出席者の中に、ライオネル皇子の名がある。
セリナは手紙を机に置いた。
「来た」
「行くんですか」
「行かないと、家の中で面倒になる」
「一人で?」
「たぶん、お母様も一緒」
セリナは椅子の背にもたれた。
「エアリスも来る?」
「私が行ってもいいなら」
「いい。というか、来てほしい」
声は軽くなかった。
エアリスは手紙の折り目を見てから答えた。
「行きます」
「ありがと」
セリナは手紙を折り直す。
その夜。
赤炉会本部の一室で、エルガーは報告を受けていた。
公開区画に、グランツベルク家の令嬢と聖都の客人がいた。
記録結晶も使われていた。
「グランツベルク嬢と、聖都の客人です」
職員が言う。
「護衛つきで、公開区画から見ていただけだと」
「記録結晶は?」
「使用されていました」
エルガーは怒らなかった。
指先で、机の端を一度だけ叩く。
「公爵家なら当然でしょう。隠すほど、疑われる」
「では」
「次の移送を少し早めます。乱暴にはしないように」
職員が頭を下げる。
エルガーは窓の外を見た。
帝都の夜は、火の色を残している。
「急ぐ者ほど、足跡を残します」
彼は静かに言った。
「こちらは、歩幅を変えればいい」




