第五十一話:苺の砂糖と封書
屋敷へ戻ると、セリナは真っ先に外套を脱いだ。
「重い」
侍女が外套を受け取る。セリナは礼を言い、応接室ではなく自分の部屋へ向かった。エアリスも後に続く。
部屋へ入るなり、セリナは椅子へ座り込んだ。
「帝国料理、味が濃いって言ったでしょ」
「はい」
「今日いちばん濃かったの、料理じゃなかったね」
「人ですか」
「人と、空気と、言葉」
セリナは机に額をつけた。
エアリスはカバンから小さな包みを出した。
「食べますか」
「なに?」
「聖都で買った菓子です。苺の砂糖漬けが入っています」
セリナが顔を上げた。
「持ってたの?」
「はい」
「いつから?」
「聖都を出る前から」
「ずるい。そんな切り札、早く出してよ」
「切り札だったんですか」
「今はそう」
セリナは手を伸ばし、菓子を一つ取った。口に入れると、目を閉じる。
「甘い」
「はい」
「助かる」
「それはよかったです」
エアリスも一つ食べた。
帝国の焼き果実とは違う。苺の香りが、かすかに聖都を思い出させた。
「エアリスって、苺好きだよね」
「はい」
「即答」
「好きなので」
セリナは小さく笑った。
「そういうの、もっと言っていいと思う」
「苺が好きです、と?」
「うん。あと、図書館が好きです、とか。知らない街を見るのが好きです、とか」
「言っています」
「言ってるけど、たまに報告みたい」
エアリスは菓子を見た。
「では、これは好きです」
「うん。今のはよし」
セリナは満足そうに包みの端を折った。
しばらく、二人とも黙っていた。
窓の外では、夕方の光が赤銅色の屋根を照らしている。遠くで軍用車の低い音がした。
「あの人」
セリナが言った。
「トマスさんですか」
「うん」
セリナは菓子の包みを見つめている。
「立派だった。たぶん、みんなそう言う。戻る意思があるなら尊重すべきだって、そう言う人もいる」
「はい」
「でも、マルタさんの方を見なかった」
エアリスは皿の端へ指を添えた。
「見ませんでした」
「それが、ずっと残ってる」
セリナは冷めかけた茶に目を落とした。
「ああいう式、帝国では珍しくないの。戦場へ戻る人を見送る。傷を受けた人をもう一度立たせる。そういう話は、きれいに聞こえる」
「きれいに聞こえましたか?」
「聞こえた。聞こえたから、嫌だった」
エアリスは言葉を選ばなかった。
「セリナさんは、どうしたいですか」
セリナは少し笑った。
「それ、すぐ聞くね」
「はい」
「答えが出ない質問を、正面から置いてくる」
「困りますか」
「困る。でも、逃げにくくなるから助かる」
セリナは椅子の背にもたれた。
「私は、あの人たちが本当に自分で選んでるなら止められないと思う。帝国では、戦うことを誇りにしてる人も多いから。でも、選ばされてるなら違う」
「選ばされている」
「うん。そこが分からない」
セリナは言いながら、赤い布を丸めた。
きれいに丸めようとして、途中で形が崩れる。
もう一度やり直す。
今度も、うまくいかなかった。
エアリスは手を伸ばし、布の端を押さえた。
「こちらを先に折ると、崩れません」
「今、それ教える?」
「気になったので」
セリナは吹き出した。
「ありがと。助かった」
布は、さっきより小さく畳まれた。
エアリスは机の上に置かれた赤い布を見る。
火神殿で胸につけた布だ。もう外されているのに、赤だけが部屋に残っていた。
セリナはその布を指先で丸め、また広げる。
扉が軽く叩かれた。
セリナが顔を上げる。
「どうぞ」
入ってきたのは、オスカーだった。
公爵家当主としての服装ではない。屋敷で過ごすための、少し簡素な上着だった。それでも、セリナはすぐ背筋を伸ばし、侍女も一歩下がった。
「疲れているところ悪い」
「お父様」
セリナは姿勢を正した。
オスカーはエアリスにも短く会釈する。
「今日の献火礼で何か見たか」
セリナは赤い布の端を指で押さえた。
「見ました。でも、まだ言葉にできるほどではありません」
「そうか」
オスカーは責めなかった。
「昨日決めた範囲から出るな。次に誰かから誘いが来たら、返事をする前に私へ見せなさい」
「はい」
「止めろとは言わない。ただ、手順を飛ばすな」
セリナの目が少し揺れた。
「……怒らないんですか」
「怒る理由があれば怒る」
「今は?」
「疲れた顔の娘に怒鳴る趣味はない」
セリナは何か言いかけて、やめた。
オスカーは娘の顔を見た。
その時だけ、目の厳しさが少し緩んだ。
だが、その時間は短い。
すぐに視線は机の上の封書と、畳まれた赤い布へ移った。
オスカーは机の上の苺菓子を見る。
「食事は取ったのか」
「少し」
「なら、菓子でもいい。倒れるよりはましだ」
それだけ言って、彼は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
セリナはしばらく黙っていた。
廊下を歩く父の足音が遠ざかるまで、彼女は動かなかった。
机の上には、半分になった苺菓子と、畳まれた赤い布がある。どちらも小さなものなのに、今日見たものより近くにあった。
「お父様、ああいう言い方するから困る」
「困るんですか」
「うん。怒ってくれた方が、反発しやすい時もある」
「反発したかったんですか」
「ちょっとだけ」
セリナはまた菓子を一つ取った。
「でも、今日はやめとく」
セリナは菓子を半分に割り、片方をエアリスの方へ押した。
「半分」
「もう食べました」
「いいから。今日は半分」
エアリスは受け取った。
苺の砂糖が、指先に少しついた。
「次に、殿下に会うなら」
セリナが言う。
「私は、うまく話せないかもしれない」
「私も、帝国の話し方はまだ分かりません」
「エアリスは分からなくても、変なこと言わなそう」
「それは、期待ですか」
「うん。半分くらい」
「残り半分は?」
「隣にいてほしいだけ」
エアリスは少し考えてから、椅子をセリナの方へ寄せた。
「います」
セリナは、菓子を飲み込むまで返事をしなかった。
その時、控えていた侍女が小さな封書を運んできた。
「セリナ様。ユリウス殿下より、こちらを」
セリナの手が止まる。
封筒には皇室の紋章があった。
手紙は短かった。
今日の献火礼について、明日、短く話したい。
場所は皇室管理の小庭園。
同行者は、セリナとエアリスのみ。
護衛は庭園外で待機。
「……また、絶妙に断りにくい」
セリナがつぶやく。
エアリスは封書を見た。
「行きますか」
「行くしかないかな。あの人、今日のことを見てたはずだし。まず、お父様に見せてから」
「私も行きます」
「いいの?」
「はい」
エアリスは包みを閉じた。
「セリナさんが行くなら」
セリナは袖口に指をかけた。
「ほんと、そういうところ」
「どこですか」
「助かるところ」
その言葉は小さかった。
けれど、エアリスには聞こえた。




