第五十話:火へ戻る声
トマスは、書類から想像していたより若く見えた。
片腕は義肢になっている。歩く時にわずかな遅れがある。だが、背筋は伸びていた。式典用の赤い外套を着て、火皿の前で止まる。
椅子の軋む音が消えた。
誰も大きな声を出していないのに、視線だけが一斉に彼へ向く。
その中に、年配の女性がいた。
先日、トマスのことで声をかけてきた女性。マルタだったはずだ。席は遺族や軍属の列に近い。彼女は膝の上で両手を握っていた。
トマスはそちらを見なかった。
靴は新しかった。
左の踵に小さな赤銅の金具があり、歩くたびにかすかな音がした。義肢用に調整された靴で、広場の床に鳴るその音だけが、彼がまだ完全に元の身体ではないことを知らせていた。
火神殿の神官が一歩進み、低い声で祈りの言葉を唱える。
「火は失われた名を焼かず、次の道へ送る。帝国に尽くした者へ、帝国は火を返す」
神官の声に合わせて、赤炉会の職員が献火札を一枚差し出した。
札は薄い。
木でも紙でもない。赤銅に似た薄片で、表面には小さな火紋が刻まれている。トマスはそれを受け取り、胸の前に掲げた。
エアリスは、彼の指を見た。
指先は震えない。
札は、決められた角度で胸の前に止まった。
「私は、トマス・ベルン」
声はよく通った。
「魔淵外縁安定化計画の再訓練員として、再び外縁へ戻ることを望みます」
広場のどこかで、小さな息が漏れた。
マルタの手が、膝の上で強く重なる。
彼女の隣に座っていた年若い女性が、そっと背中へ手を添えた。慰めというより、立ち上がらないよう支える手つきだった。
「傷を得た身であっても、帝国へ返せるものは残っています。赤炉会と軍務局の支援に感謝し、火神の前で誓います」
言葉は止まらない。
間の取り方も、声の高さも、式典にふさわしかった。
ふさわしすぎるほどだった。
セリナが隣で息を詰める。
エアリスは、トマスの顔から目を離さなかった。
背筋も、声も、礼の角度も乱れない。
マルタの席だけが、彼の視線から外れていた。
エアリスは、療養院で見た扉を思い出した。
白い壁。きれいに整えられた廊下。扉の取っ手だけが、触れる前から冷たそうに見えた部屋。
あの時と同じ匂いはしない。ここには香油と火の匂いがある。
それでも、トマスの声は、どこか廊下の奥から聞こえてくるようだった。
エルガーが前へ出る。
「帝国は、戻る者を見捨てません」
彼の声は穏やかだった。
「戦えなくなった者を捨てる国であってはならない。傷を受けた者に、もう一度立つ場所を用意する。それが赤炉会の務めです」
広場から拍手が起こる。
義肢をつけた騎士が立っている。支援を受けた者がいる。遺族に慰問金が渡されている。誰かが泣き、誰かが赤炉会の職員へ頭を下げていた。
赤炉会の席にいた若い職員が、拍手の合間に目元を拭った。
隣の職員も拍手に加わった。
二人とも、演じているようには見えなかった。
拍手の音だけが残り、近くの席の会話が止まった。
トマスは火皿へ近づいた。
献火札を炎の上へかざす。
札は燃えなかった。
代わりに、刻まれた火紋だけが淡く光り、赤い粒が炎の中へ落ちる。炎は一瞬高くなり、すぐ元の高さへ戻った。
マルタが立ち上がりかけた。
隣の女性が、彼女の腕に手を添える。
マルタは座り直した。
誰も騒がない。
式は滞りなく進んでいく。
エアリスのカバンの中で、魔導書がわずかに開いた。
「アキさん」
エアリスは声に出さず、名を呼ぶ。
「今は見てるだけでいいよ」
返事も声にはならなかった。
セリナは前を向いたまま、低く言う。
「あんな言い方、あの人の言葉に聞こえない」
「知っている人ですか?」
「直接は知らない。でも、家族の前でああいうふうに戻るって言う人なら、一度くらい奥さんを見ると思う」
エアリスは頷かなかった。
ただ、マルタの手を見ていた。
指の関節が白くなっている。
式典の中ほどで、上皇ヴォルフラムが姿を見せた。
護衛を多く連れてはいない。だが、彼が広場に入っただけで、人々の背筋が伸びた。
老いている。
それでも、弱くは見えなかった。
白い髪を後ろへ流し、赤銅の杖を手にしている。杖は飾りのようにも見えるが、握る指にはまだ力がある。
ヴォルフラムは壇へ上がり、火皿の前で足を止めた。
火皿の炎が、彼の杖に映る。
杖の赤銅は古びていた。磨かれてはいるが、傷が隠されていない。飾りとして持つには、あまりに重そうだった。
「帝国は、火で始まった」
声は低く、広場の端まで届いた。
「火は奪う。火は鍛える。火は道を照らす。今日ここに名を置く者たちは、帝国が忘れてはならぬ者たちだ」
誰も動かなかった。
「魔淵が揺れている。外縁は静かではない。老いた者も、傷を負った者も、若い者も、帝国に生きるならば、この火から目を逸らしてはならぬ」
拍手は、先ほどよりも遅れて起こった。
遅れた分だけ、重かった。
セリナの横顔が硬くなる。
近くの若い兵が拳を握る。
反対側では、遺族の列にいた老人が目を閉じていた。
エアリスはヴォルフラムを見る。
彼の言葉が終わるまで、赤炉会の職員さえ動かなかった。
式の最後、参列者は順に花を捧げた。
セリナも立ち上がる。
エアリスは彼女の隣を歩いた。
火皿の前に置かれた献花台には、赤い花と白い花が重なっていく。
セリナは赤い花を置いた。
エアリスは白い花を置いた。
その時、近くでマルタが声を落とした。
「トマス」
呼びかけは小さかった。
トマスには届いたはずだった。
彼は振り返らなかった。
エアリスは花から手を離す。
炎の熱が、指先に残った。
式が終わると、人の流れは少しずつ広場の外へほどけていった。
誰かが、トマスは立派だったと言う。
別の誰かが、これでベルン家も報われると答えた。
軍服姿の男たちは、火皿の近くで短く敬礼を交わしていた。若い兵の一人は、トマスの背中を見て胸を張る。隣の年長の兵は、何も言わずにその肩を軽く叩いた。
その肩の叩き方は励ましにも見えたし、黙っていろという合図にも見えた。
その少し離れた場所で、赤炉会の職員が車椅子を押している。車椅子の男は、献花台へ向かう途中で何度も礼を言った。職員はそのたびに、同じ笑顔で頷いている。
別の職員が、遺族へ水を配っている。
礼を言う声があり、泣く声もあった。
その間を、次の献花の列がゆっくり進んでいく。
マルタは、その会話の近くにいた。
彼女は何も言わず、赤い花をもう一輪だけ献花台へ置いた。
セリナが一歩だけそちらへ動く。
けれど、赤炉会の職員がマルタへ近づき、丁寧に別室へ案内していった。
セリナは足を止めた。
「今、行ったら迷惑かな」
「分かりません」
エアリスは答えた。
「でも、彼女はまだ、誰かと話す顔ではありませんでした」
セリナは唇を噛んだ。
「……そうだね」
二人は、献花台の前から離れた。
献火礼の後、火神殿の奥で小さな会食が開かれた。
小さい、といっても帝国の貴族が使う言葉だった。部屋は広く、壁には軍旗と家紋が並んでいる。食卓には肉料理、香草の入ったスープ、赤銅色のパン、焼き果実が置かれていた。
料理の匂いは強い。
聖都の食事より、ずっとはっきりしていた。
焼いた肉には黒い香辛料が振られ、スープには豆と根菜が沈んでいる。パンは硬めで、割ると赤銅色の皮がぱり、と鳴った。
周囲の貴族たちは、式の余韻を残したまま食事をしていた。声は抑えられているが、会話が途切れることはない。軍務局の高官が隣の商会主へ何かを尋ね、商会主は笑顔で短く答える。
「食べられそう?」
セリナが小声で聞く。
「はい。食べます」
「無理しなくていいよ。帝国料理、初日から飛ばすとびっくりするから」
「びっくりする料理なんですか」
「たまにね」
セリナはそう言って、エアリスの皿に肉を少なめに取った。
少なめ、と言っても聖都の宿で出た食事より多い。エアリスが皿を見ると、セリナは小さく笑った。
「これで少なめ」
「分かりました」
「ほんとに分かってる?」
「食べて確認します」
セリナは笑いかけたが、すぐに表情を戻した。
部屋の反対側で、上皇ヴォルフラムが席に着いている。彼の周囲には軍部の高官と貴族が集まっていた。赤炉会のエルガーもいる。
そして、セリナの叔父ライムントが、何度かこちらへ視線を向けていた。
セリナの母エレオノーラは、少し離れた席にいた。
淡い赤のドレスを着て、周囲の婦人たちへ穏やかに笑っている。声はほとんど聞こえない。けれど、時折こちらを見る目には、娘を気にする色があった。
セリナもそれに気づいている。
気づいていながら、すぐには手を振らなかった。
セリナは水杯を持ち直し、わざと隣の卓へ目を向けた。
「セリナ」
その声で、逃げ道が消えた。
ライムントが近づいてくる。隣には、若い男がいた。整った顔立ちで、赤い礼服を着ている。笑みは柔らかいが、立ち方に隙がない。
「お久しぶりです、叔父様」
「学院では元気にしているようだな」
「おかげさまで」
ライムントはエアリスへ目を向けた。
「こちらが、聖都から来たご友人かな」
「エアリス・アウレリア・ヴァレンです」
エアリスは一礼した。
ライムントの目は穏やかだったが、見ている場所は多い。服、姿勢、胸元の赤い布、セリナとの距離。
「大主教閣下のご庇護を受けていると聞いている。セリナが世話になっているようだ」
「私の方こそ、助けていただいています」
「そうか。よい友人を得たな、セリナ」
セリナは短く笑った。
「はい」
ライムントは隣の男との挨拶の場を、改めて整えた。
「ライオネル殿下だ。上皇陛下のご意向で、近ごろ我が家とも話す機会が増えている」
ライオネル。
外縁功労者交流会や視察案内で、何度も見た名だった。
紙の上にあった名が、今は食卓の向こうにいる。
ライオネルは礼儀正しく頭を下げる。
「ライオネル・ヴァルター・アルディオンです。先日の交流会以来だな、セリナ嬢。君の試技は、若い者の間でも噂になっている」
「噂だけなら、あまり信用しない方がいいですよ」
セリナが明るく返す。
声はいつも通りに近い。
けれど、指先が皿の縁に触れたまま離れていなかった。
エアリスは、その指先を一度だけ見た。
セリナは気づいたのか、すぐに手を膝へ下ろす。
「エアリスは、帝国料理に挑戦中なの」
話題の向きを変えるように、セリナが言った。
「挑戦ですか」
ライオネルが笑う。
「味が濃いと聞いていました」
エアリスは正直に答えた。
「実際は?」
「濃いです。でも、おいしいです」
「それはよかった。帝国で料理を残すと、料理人より先に兵士が悲しむ」
「兵士が?」
「食べられる時に食べる。それも訓練の一つだと教えられるからです」
ライオネルの口調は柔らかかった。
だが、言葉の端に帝国の習慣があった。
「では、料理の感想はセリナ嬢本人からも聞くことにします」
ライオネルは笑った。
だが、ライムントは満足そうにグラスを持ち上げている。
少し離れた席で、セリナの母エレオノーラは手元のナプキンの端を握った。
セリナの笑い方が、半拍遅れる。
セリナは学術院の話を出した。
Aクラスの授業、セラフィアの図書館、海洋連合から来る交換生の話。彼女は笑い、ライオネルが尋ねれば短く返し、叔父が家の話へ戻そうとすると別の話題を差し出した。
ライムントが何度か、魔淵外縁安定化計画の名を出しかける。
そのたび、セリナは先に別の名前を置いた。
学院祭。
交換留学。
Aクラスの実技試験。
セリナは、問いにだけ短く返した。
ただ、ライムントが家の話へ戻ろうとすると、その前に別の話題を置いた。
エアリスは、その動きを見ていた。
セリナは笑っている。
ただ、水杯を置く指先だけが、少し遅れた。
図書館の話になった時だけ、エアリスも口を開いた。
「エアリス嬢は、魔法の研究がお好きなのですか?」
ライオネルが尋ねる。
「知らないことを知るのが好きです」
「それはいい。帝国は聖都とは違うでしょう」
「はい。食事も、建物も、人の声も違います」
「声?」
「通りで交わす声が大きいです」
ライオネルは少し意外そうにした。
「面白い表現ですね」
「そうでしょうか」
「ええ。帝国の者は、良くも悪くも遠回しが得意ではない」
彼はそう言って笑った。
そこへ、別の声が割って入る。
「遠回しが必要な時もある」
ヴォルフラムだった。
近くにいた者たちが、一斉に姿勢を正す。
ライムントが深く頭を下げた。
「上皇陛下」
「堅くなるな。祝いの席だ」
ヴォルフラムはセリナを見た。
「グランツベルクの娘か。大きくなった」
「ご無沙汰しております」
セリナは礼をした。
ヴォルフラムの杖先が、床を一度だけ鳴らした。
「聖都で学んでいるそうだな」
「はい」
「よい。外を知る者は、国の内側を見誤りにくい」
セリナはすぐには返さなかった。
「ありがとうございます」
返事だけを置く。
ヴォルフラムは今度はエアリスへ視線を向けた。
「君が、聖都から来た友人か」
「はい」
「帝国をどう見る」
近くの卓で、皿に触れる音が一つ途切れた。
エアリスは皿の上の肉料理を見た。まだ半分残っている。
それから、顔を上げる。
「まだ、食事の味と、通りの広さと、今日の火しか知りません」
ライオネルが小さく笑った。
セリナも、かすかに口元を緩めた。
ヴォルフラムは椅子の肘掛けを指で叩き、低く笑う。
「正直だ」
「知らないことを、知っているとは言えません」
「その言葉は、覚えておこう」
ヴォルフラムはセリナへ戻る。
「魔淵外縁安定化計画は、若い者の力も要る。グランツベルクも、いずれ立場を明らかにせねばならん」
セリナの顔から笑みが消えた。
ライムントが横で身を乗り出す。
「父にも、そう伝えております」
「オスカーは慎重だ。慎重すぎる時もある」
ヴォルフラムの声は穏やかだった。
ライムントの口元が、わずかに緩む。
「セリナ」
ヴォルフラムは名を呼ぶ。
「君の世代が、次の帝国を見る。火から目を逸らすな」
「……はい」
セリナは答えた。
小さくはない。
けれど、いつものセリナの声ではなかった。
会食が終わる頃、セリナの皿にはほとんど手がついていなかった。
エアリスは焼き果実の皿を、少しだけ彼女の方へ寄せた。
「甘いです」
セリナはそれを見て、目を瞬いた。
「今?」
「今です」
「……ありがと」
セリナは小さく切って、口に運んだ。
焼き果実は、たぶん甘かった。
セリナの眉間が緩んだからだ。




