第四十九話:献火礼の朝
献火礼の日、帝都は朝から赤かった。
空が赤いわけではない。通りに掲げられた旗と、火神殿へ向かう人々の胸元に結ばれた小さな布が、どれも深い赤を帯びていた。
グランツベルク邸の玄関前にも、同じ色の布が用意されている。
「つけなくても失礼にはならないわ」
セリナはそう言った。
「でも、つけた方がいいですか?」
「帝国ではね。特に今日は」
セリナは自分の胸元に赤い布を留める。手つきは慣れているが、いつもの軽さはなかった。
エアリスも布を受け取った。
火神を示す赤。戦場で倒れた者へ向ける色。帝国では、火は命を焼き尽くすものではなく、次へ渡すものでもあるのだと聞いた。
布を留めると、セリナの表情が和らいだ。
「似合うね」
「赤は、あまり着たことがありません」
「聖都は白が多いものね。帝国だと、白い服だけで歩いてる方が目立つかも」
そう言いながらも、セリナはエアリスの襟元を直した。
「曲がっていましたか?」
「少し」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
そのやり取りだけなら、いつもの朝に近かった。
けれど、屋敷の前に並ぶ護衛の数は昨日より多い。馬車も一台ではなく、前後に護衛車がついていた。
帝国式の魔導車は、見た目からして重々しい。聖都で見た馬車よりも車体が厚く、車輪の外側には赤銅の補強輪がついている。走るための道具というより、道そのものを押し開くものに見えた。
カバンの中で、魔導書が小さく動く。
「献火札、配られても受け取らない方がいいよ」
アキの声は、エアリスにだけ届いた。
「理由は?」
「もらう理由がないものは、もらわない方が楽だから」
「分かりました」
「素直で助かる」
軽い口調だった。
だが、昨日の赤炉会支援所で見た札の扱いを思い出すと、その言葉は軽く受け取れなかった。
セリナがこちらを見る。
「どうしたの?」
「献火札は、受け取らない方がいいそうです」
「アキさん?」
「はい」
セリナは一瞬だけ眉を上げ、それからカバンの留め具へ視線を落とした。
「じゃあ、そうしよ。あの人、変なところで頼りになるし」
魔導書の表紙は、何も言わずに閉じたままだった。
たぶん、褒められたことにしている。
馬車は帝都の大通りを抜け、火神殿へ向かった。
帝都の朝は聖都より早い。鍛冶場の煙、軍用車の車輪、商人の掛け声、通りを走る伝令。すべてが大きく、速い。
献火礼へ向かう人は多かった。
親に手を引かれた子どもが、赤い布を胸に結んでいる。花を抱えた老人が、軍服姿の若者へ道を譲る。店先では、朝のうちから焼いた肉包みと赤い果実酒が売られていた。
祝いの日のようにも見える。
けれど、笑い声は少ない。
馬車の窓の外で、小さな子どもが母親に何かを尋ねていた。
母親は子どもの赤い布を結び直し、火神殿の方を指す。子どもは頷き、花束を抱え直した。
セリナはそれを見て、目を伏せる。
「献火礼は、毎年あるんですか」
「大きいものはね。地方ごとの小さい式もある。帝国は、こういうのが多いの」
「戦った人のために?」
「戦った人と、戻れなかった人と、戻る人のため」
セリナは窓から視線を外した。
「だから、簡単に嫌いとは言えない」
その言い方に、エアリスは何も返さなかった。
火神殿は軍功広場に面していた。
聖都の神殿のように白くはない。赤い石と黒い柱で造られ、正面には巨大な火皿が置かれている。火皿の炎は朝でも消えず、風を受けてゆっくり揺れていた。
広場には、すでに多くの人が集まっていた。
傷病騎士。軍属。遺族。軍部の代表。貴族。赤炉会の職員。
広場の外周には、軍部の係員が立っている。人の流れは多いのに、列は大きく乱れない。献花を持つ者、席札を確認する者、赤炉会の受付へ向かう者。それぞれの道が、広場の床に刻まれた赤い線で分けられていた。
エアリスは足元を見る。
線は踏まれて薄くなっている場所もあった。今日だけのものではない。何度も使われ、何度も塗り直された跡だった。
赤炉会の者たちは、白地に赤い縁取りのある外套を着ている。治療具を運ぶ者、席へ案内する者、義肢の調整を手伝う者。動きはきびきびしていて、声のかけ方も丁寧だった。
エアリスは広場の端で足を止めた。
年配の女性が、片脚の義肢をつけた騎士を支えている。義肢の膝部分がうまく曲がらないのか、騎士は何度か歩き直していた。
そこへ、一人の男が近づく。
エルガー・ヴァイスマンだった。
彼は騎士の前で膝をつき、義肢の留め具に手を伸ばした。付き添いの職員が慌てた顔をしたが、エルガーは穏やかに制する。
「ここが浅い。歩くたびに痛むでしょう」
「……分かるのですか」
「同じ型を、三年前にも見ました」
エルガーは工具を受け取り、短い調整をした。
騎士が一歩踏み出す。
さっきよりも足取りが安定していた。
「ありがとうございます、会長」
「礼は工房へ。私は少し手を借りただけです」
エルガーは立ち上がり、付き添いの女性にも頭を下げた。
近くで見ていた職員が、ほっとしたように肩を下ろす。義肢の騎士は、もう一度だけ膝を曲げ、それから深く礼をした。
セリナも黙っていた。
エアリスは、何も言わない。言葉にするより先に、見ておくことがあった。
義肢の騎士は、席へ戻る途中で付き添いの女性に何かを言われた。照れたように首を振り、今度は自分の足で歩く。女性は泣きそうな顔で笑っていた。
赤炉会の職員が、その二人へ小さな水袋を渡す。
礼を言う声は、本物だった。
赤炉会の職員が配っている献火札。
それを受け取る傷病騎士の手。
受け取らない遺族。
受け取って、胸に当てる若い兵。
礼拝と手続きが、同じ場所に並んでいた。
広場の隅では、別の女性が職員へ身を乗り出していた。
声は近くまで届かなかった。ただ、式の前に何かを頼み込んでいることだけは、口の動きと表情で分かった。
職員は困った顔で首を振る。
女性は引き下がった。
その手には、赤い花が一輪握られていた。
セリナが小さく息を吸った。
「知ってる人?」
「たぶん、昨日の資料にあった家族です」
「トマスさんの?」
「はい」
セリナはすぐに女性へ近づこうとはしなかった。
ここで公爵家の娘が声をかければ、周囲の視線もついていく。それくらいは、エアリスにも分かる。
セリナの指先が一度だけ動き、それから止まった。
「セリナ様」
護衛の一人が声を落とした。
「グランツベルク家の席はこちらです」
セリナは案内された方向へ足を向けた。
案内された席は、広場の中央から少し外れた場所だった。よく見えるが、目立ちすぎない。公爵家の席としては控えめな位置に取られていた。
エアリスが腰を下ろすと、すぐ近くに小さな花籠が置かれているのが見えた。
赤い花と、白い花。
聖都で見た白花とは少し違う。花弁が厚く、火の近くでも萎れにくそうだった。
「献花用?」
「うん。式の最後に」
セリナの返事は短かった。
その声に、硬さがある。
「苦手ですか」
「苦手というより……毎回、どういう顔をすればいいか分からない」
「顔ですか」
「帝国の人間なら、誇らしく見送るべきだって言う人もいる。でも、見送る側がみんな誇らしい顔をできるわけじゃないでしょ」
エアリスは花籠を見た。
「できなくても、いいと思います」
セリナは横を向いた。
「そういうこと、さらっと言うよね」
「さらっと、でしたか?」
「うん。今のはけっこう」
セリナは笑った。
ほんの短い笑みだったが、肩の力が少し抜けた。
やがて、広場の鐘が鳴った。
聖都の鐘より低い。
火神殿の扉が開き、赤炉会の職員たちが整列する。軍部の代表が立ち上がり、参列者のざわめきが収まっていく。
エルガーが壇の横に立った。
そして、火皿の前へ一人の騎士が進み出る。
係員が名を読み上げた。
トマス・ベルン。
マルタの夫の名だった。




