第四十八話:古い補給支所
古い補給支所は、帝都の外れにあった。
今はほとんど使われていないと聞いていたが、道は荒れていなかった。石畳には新しい補修跡があり、車輪の跡も残っている。人が来ない場所の顔をしていない。
前日に見た紙には旧補給倉庫の名があった。だが、ユリウスの印が示していたのは第十二線の本倉庫そのものではない。そこから枝分かれした、火神殿跡に近い古い支所だ。外から見える範囲を確かめるには、ここが一番近かった。
セリナたちは、近くの火神殿跡を見に来た客として馬車を止めた。
護衛は二人。姿は見せない。少し離れた場所で待機し、赤い笛の合図があれば動くことになっている。
火神殿跡は小さな丘の上にあった。
崩れた柱、消えた炉、古い石段。夕方の光が赤い石に落ち、周囲だけ少し明るく見える。
セリナは火の消えた炉を見下ろした。
「昔は、ここで軍用の炉を管理してたらしい。火神殿と軍の補給が近かった時代の名残」
「今も使われているんですか」
「使われていないことになってる」
エアリスは丘の下を見た。
旧補給支所の門は閉じている。だが、門番はいない。建物の裏側へ細い道が伸びていた。
「人の気配はあります」
「見える?」
「いいえ。ですが、道が新しいです」
セリナは道の砂を見た。
その時、背後で魔導書が開く音がした。
アキが姿を現し、欠伸をするように手を上げた。
「帰ったことにしておこうか」
「できますか」
「できるよ」
アキが指を鳴らす。
丘の下で待っていた馬車がゆっくり動き出した。御者と、護衛に見せかけた淡い影が乗っている。外から見れば、セリナとエアリスも中にいるように見えるのだろう。馬車の窓には淡い影が二つ揺れていた。
「……本当に、私たちが乗ってるように見える」
セリナが呟く。
「見せているだけだから、触られたら終わり」
「十分です」
「はいはい」
アキは軽く返し、魔導書の中へ戻った。
日が落ちるまで、二人は火神殿跡に残った。
石の陰に身を寄せる。風は乾いていて、砂の匂いがした。セリナは膝を抱えるように座り、時々旧補給支所の方を見る。
完全に静かになる前に、別の馬車が二台、丘の下へ来た。
軍の馬車ではない。
家紋の入った若い貴族の馬車だった。
中から降りたのは、交流会で見た青年たちの一部だ。ヘルムート・ヴァルデックの姿もある。マティアスはいない。代わりに、赤い袖章をつけた下級貴族の少年たちが数人、火神殿跡へ向かって歩いてきた。
「まずい」
セリナが声を落とした。
「見つかりますか」
「見つかったら、私たちがここで何をしていたか聞かれる」
そして、聞かれた時点で負ける。
火神殿跡は公開区域だ。来ること自体はおかしくない。
だが、夜まで隠れて旧補給支所を見ていたとなれば話は別だった。
若い貴族たちは、火神へ短い祈りを捧げ、外縁勤務者への激励札を置いていく。声は明るい。帝国の若者らしい、少し誇らしげな行動だった。
けれど、彼らがここに来た時間だけ、旧補給支所の裏門は見えなくなる。
偶然なら迷惑。
誰かが許したなら、邪魔。
エアリスは息を潜めた。
カバンの中で、魔導書がわずかに鳴る。
「大丈夫。見つからない程度には隠すよ」
アキの声は小さい。
「ただし、彼らを動かすのは無理。動かすと、動かした跡が残る」
セリナの指が、外套の留め具を押さえた。
若い貴族たちは、しばらく丘の上で外縁防衛について語り合った。
「ライオネル殿下の演説を聞いたか」
「ああ。あれこそ若い帝国の声だ」
「ユリウス殿下の慎重さも分からなくはないが、慎重すぎる火は消える」
「火は、焚かねばならん」
言葉は勇ましい。
それを言う彼らの顔も、本気だった。
彼らは赤い袖章の少年たちが置いた激励札を疑わなかった。
誰の言葉を借りているのかも、振り返らない。
「寒いですか」
「大丈夫。帝国の夜は慣れてる」
「疲れていませんか」
「それは、ちょっと」
セリナは小さく笑った。
「でも、隣にあなたがいると、妙に落ち着く」
「そうですか」
「うん。落ち着きすぎて、たまに怖い」
「怖いですか」
「冗談」
セリナはそう言ったが、すぐに声を落とした。
「……本当は、怖いよ。家のことも、帝国のことも、自分が何を選ぶのかも」
エアリスは彼女を見た。
「怖くても、見に来ました」
「うん」
「それは、セリナさんが決めたことです」
セリナは顔を伏せた。
「そう言われると、逃げにくいな」
「逃げたいですか」
「今は、まだ」
返事はそこで止まった。
夜が深くなる。
若い貴族たちが去ってから、さらに時間がかかった。
彼らが置いていった激励札は、火の消えた炉の前で赤く光っていた。
祈りの札としては、少し新しすぎる。
そして、旧補給支所の門番が丘の方を確認する時、その札の光を一度見てから目を戻していた。
見張りが増えたわけではない。
だが、こちらが動ける隙間は減っていた。
旧補給支所の裏門が開いた。
装甲魔導車が一台入ってくる。昼間見たものより小型だが、同じ赤黒い金属で覆われている。後ろには荷車が二台。赤炉会の箱が積まれていた。
作業員たちは無駄口を叩かない。
軍服の男が書類を確認し、赤炉会の職員が箱の数を数える。何人かの兵が車内から降りた。新兵か、傷病騎士か。暗くて顔までは見えない。
彼らは静かだった。
命令されると動く。止まれと言われれば止まる。誰かが咳をしても、隣の者は振り向かない。
エアリスは昼間の青年を思い出した。
昼間の青年も、命令の前で同じように立っていた。
その時、補給所の奥から男が一人出てきた。
灰色の外套を羽織り、赤炉会の徽章をつけている。年齢は五十前後に見えるが、歩き方は若い。背筋がまっすぐで、周囲の職員が彼のために道を空けた。
セリナが息を止める。
「エルガー・ヴァイスマン」
「知っている方ですか」
「赤炉会の会長。公開されている階位は第七階位。帝都では有名人よ」
第七階位。
周囲の職員が背筋を伸ばす数字だった。
エルガーは兵の列を眺め、何かを職員へ告げた。声は届かない。ただ、彼が話すと周囲が一斉に動く。
箱が建物の中へ運び込まれる。
兵たちもその後に続く。
しばらくして、補給所の炉らしき場所に赤い光が灯った。火ではない。火に似せた魔法の光だ。
エアリスのカバンの中で、魔導書が薄く震える。
『入らない方がいい』
アキの声は短かった。
『危険ですか』
『今はね。ここで踏み込むと、証拠より先に面倒が来る』
エアリスはセリナへ視線を向ける。
セリナも同じ結論だったらしい。唇を噛んでいたが、動かなかった。
作業は一時間ほど続いた。
やがて兵たちは再び装甲魔導車へ乗せられた。入った時より、少し人数が少ないように見えた。残った者がいるのか、別の出入口から出たのかは分からない。
エルガーは最後まで門の前にいた。
車が出ていくと、彼はふと丘の方を見た。
距離はある。
暗い。
それでも、エアリスは目が合ったように感じた。
セリナが小さく息を呑む。
エルガーは何も言わず、建物の中へ戻った。
二人が屋敷へ帰ったのは、深夜に近い時刻だった。
護衛は何も言わなかった。ただ、セリナが無事であることを確認し、父へ短い報告を送った。
屋敷の小部屋へ戻ると、セリナは見たものを書き出した。
装甲魔導車。
赤炉会の箱。
兵の様子。
古い補給支所。
エルガー・ヴァイスマン。
扉は閉じている。
エアリスも横に座り、必要なところだけを補った。アキは魔導書の上に腰かけ、退屈そうに足を揺らしている。
「あの人、どう思う?」
セリナが聞いた。
「強い方だと思います」
「それは、分かる」
「それから、人を見る時に、少し違いました」
「違う?」
「困っている人を見る目ではありませんでした」
セリナはペンを止めた。
「じゃあ、何を見る目?」
エアリスはすぐに答えなかった。
エルガーが兵たちを見ていた時の目を思い出す。
「材料を確かめる時に、似ています」
セリナの顔から、笑みが消えた。
翌日、赤炉会から礼状が届いた。
慰霊式への参加に感謝する内容だった。文面は丁寧で、末尾にはエルガー・ヴァイスマンの署名がある。
さらに、近く行われる献火礼への招待も添えられていた。
「昨日見られたことに気づいたのかな」
セリナは封書を机に置いた。
「分かりません」
「行く?」
「行くなら、準備してからです」
「正論」
セリナは椅子に沈み込んだ。
「正論だけど、逃げたい」
エアリスは少し考え、カバンに残っていた赤い菓子の包みを机に置いた。
「先に食べますか」
「今それ出す?」
「逃げる前に、一口だけ」
セリナはしばらくエアリスを見て、それから吹き出した。
「あなた、たまにずるい」
「赤い菓子のせいです」
「絶対違う」
二人は菓子を一つずつ食べた。
辛さが少し遅れてくる。
その昼、二人はもう一度、赤炉会の支援所へ向かった。献火礼の準備を見るという名目なら、筋は通る。
支援所には前に見た時より多くの職員がいた。
箱が運ばれ、札が数えられ、火神殿へ送る香料が小分けにされている。礼拝室の隅には、赤い粉の入った小瓶が並んでいた。
「献火札に添える香料です」
職員が小瓶を一つ持ち上げた。
「祈りが火へ届きやすくなると言われています」
エアリスは小瓶を見た。
香料なら、もっと香りがあるはずだ。だが、瓶の口からはほとんど匂いがしない。
その時、奥から声がした。
「グランツベルク嬢」
エルガー・ヴァイスマンが歩いてくる。
昼の光の下で見る彼は、昨夜より穏やかだった。赤炉会の制服に身を包み、礼儀正しく頭を下げる。
「昨夜は、よくお休みになれましたかな」
セリナの肩がわずかに強張った。
「……おかげさまで」
「それは何よりです。帝都は広い。夜に冷える場所も多いですから」
エアリスはエルガーを見た。
彼は昨日のことを知っている。
知っていると伝えている。
だが、責めてはいない。
エルガーの目がエアリスへ移る。
「エアリス・アウレリア・ヴァレン嬢。聖都の学術院からいらしたと伺っています」
「はい」
「若くしてAクラスに入られたとか。将来が楽しみですな」
「ありがとうございます」
「帝国はいかがですか」
「知らないものが多いです」
「それは良い。知らないものが多い土地ほど、人はよく学べます」
言葉は温かい。
けれど、彼の目は笑っていなかった。
エルガーは献火札の箱へ手を伸ばし、一枚取った。
「よろしければ、お二人も一枚。火神への祈りは、旅人にも開かれています」
セリナは受け取らなかった。
「後で、必要なら」
「もちろん」
エルガーは無理に渡そうとはしなかった。
エルガーの指は、札の角と表面を一度ずつなぞった。
札を扱う手ではなく、術式の具合を確かめる手に見えた。
支援所を出ると、セリナは深く息を吐いた。
「あの人、私たちが見たことを知ってる」
「はい」
「でも、怒ってなかった」
「怒る必要がないのかもしれません」
「それ、怖い言い方」
「すみません」
「謝らないで。私も、そう思った」
馬車が動き出す。
窓の外で、赤炉会の支援所が遠ざかっていく。
エアリスの膝の上で、魔導書が小さく開いた。
「次の献火礼、行くなら気をつけてね」
アキの声は軽かった。
「行かない方がいいですか」
「行かないと分からないことはある。行くと面倒なことも増える」
「どちらですか」
「どっちも」
セリナが苦笑した。
「一番困る答え」
「正直でしょ」
エアリスは窓の外を見た。
赤い旗が、昼の風に揺れている。
その奥で、献火札の箱がまた一つ、建物の中へ運ばれていった。




