第四十七話:旧商館の紙
旧商館は、帝都の中心から少し外れた場所にあった。
表通りからは見えない。商会の看板も、今は下ろされている。通りに面した扉は閉じられ、裏手の狭い路地だけが使われていた。
その表通りの角に、若い貴族の一団がいた。
偶然に見える場所だった。
けれど、セリナは馬車の中からその姿を見ただけで、肩を少し固くした。
エーレンフェルト家の馬車。
ブランシュタット家の従者。
そして、昨日の交流会で見た顔がいくつか。
彼らは大声でこちらを呼び止めたりはしない。ただ、旧商館のある区画を通る者を、若い好奇心の顔で眺めている。
「偶然、ですか」
エアリスが聞くと、セリナは小さく首を振った。
「偶然にしておくための偶然」
護衛が馬車の窓を少し閉めた。
ここで彼らに声をかけられれば、ユリウスとの私的な会談そのものが噂になる。かといって追い払えば、グランツベルク家が若い貴族を威圧した話に変わる。
面倒な位置に置かれていた。
案内役はグランツベルク家の者だった。セリナが名を出しても、彼は驚かなかった。あらかじめ話は通っているらしい。
「こちらです」
奥へ進む。
建物の中は思ったより古い。床板は磨かれているが、壁には細い傷が残っている。昔は商談に使われていた部屋なのだろう。今は机と椅子だけが置かれ、窓には厚い布が下ろされていた。
ユリウスは、すでに席に着いていた。
護衛は二人。どちらも扉の近くに立っている。多すぎない。少なすぎもしない。
「来てくれて助かる」
ユリウスは立ち上がり、セリナに礼をした。
「殿下から呼ばれたら、断りにくいですから」
「それは悪いことをした」
「悪いと思っている顔ではありませんね」
「思ってはいる」
セリナは小さく息を吐いた。怒っているというより、最初から警戒している顔だった。
エアリスは一礼して、セリナの隣に座った。
机の上には紙が数枚置かれている。封は解かれていたが、重ね方は整っている。古い商館の部屋には不釣り合いなほど、新しい紙だった。
「先に言っておく。全部ではない」
ユリウスは紙に指を置いた。
「私が見せられる範囲だ」
「最初から信用されるとは思っていません」
セリナが言う。
「でも、一部だけ見せられて判断しろと言われるのは、あまり気分がよくありません」
「判断までは求めていない。見てほしいだけだ」
ユリウスは一枚目の紙をセリナへ滑らせた。
軍務局の移送許可。
療養施設から、外縁再訓練区へ。
支援協力団体として、赤炉会の名もある。
エアリスは紙面を追った。日時、印、担当部署、移送理由。どれも整っている。だが、目的地の欄だけは大まかな名称で書かれていた。
「外縁再訓練区、ですか」
「いくつかの訓練場と補給路をまとめた呼び方だ。魔淵外縁安定化計画に合わせて、最近、動きが増えている」
ユリウスはもう一枚を出す。
今度は補給路の番号だった。
第十二線。
横に、小さく旧補給倉庫の名が添えられている。
「ここへ人が流れている?」
セリナの声が少し低くなる。
「流れている、という言い方が正しいかは分からない。だが、療養施設から出た者の一部が、この線に入っている」
「一部、ですか」
エアリスが尋ねると、ユリウスは彼女を見た。
「見える範囲では、そうだ」
エアリスは、紙の空白へ目を戻した。
紙には、トマス・ベルンの名があった。以前、マルタが行方を気にしていた夫だ。別の紙には、赤炉会の支援対象者として同じ名が載っている。
同じ名が、支援対象者と移送対象者の両方にあった。
「この人は、今どこにいるんですか」
セリナが聞いた。
「この紙だけでは分からない」
「殿下の持っている別の紙には?」
ユリウスはすぐには答えなかった。
セリナの眉がわずかに動く。
「やっぱり、全部ではないんですね」
「君たちに渡せるものと、今は渡せないものがある」
「信用の問題ですか」
「それもある」
ユリウスは否定しなかった。
「だが、私にも見せられない相手がいる。ここで紙を多く出せば、それだけ目印が増える」
部屋が少し静かになる。
エアリスは、紙の端を見た。印はある。署名もある。だが、誰が実際にこの移送を見届けたのかまでは分からない。
「殿下は、私たちに何を見せたいのですか」
エアリスが聞く。
ユリウスは彼女を見た。
その目は穏やかだった。だが、気を許している目ではない。
「君たちなら、私と違う場所を歩ける」
「それは、利用したいという意味ですか」
「そう受け取ってもらって構わない」
セリナが少しむっとした。
ユリウスは続ける。
「ただし、危険な場所へ押し出すつもりはない。見えるものだけでいい。グランツベルク家の客人として行ける場所、学生として見学できる場所。その範囲で十分だ」
「十分、ですか」
「今はな」
ユリウスの指が、第十二線の文字を軽く叩いた。
「旧補給路そのものに入る必要はない。まずは、外から見える範囲を見るだけでいい」
「外から見える範囲」
「見えているものほど、隠し方が雑になることもある」
セリナは紙から目を離さなかった。
「殿下は、私たちを信用していませんね」
「まだ、していない」
「正直ですね」
「君も、私を信用していないだろう」
「していません」
セリナは即答した。
ユリウスは少し笑った。
「それでいい。今は、その方が長生きできる」
面会は長くなかった。
ユリウスは紙の写しを二枚だけ残し、残りはすぐにしまった。護衛が扉を開ける。廊下に出ると、旧商館の空気は少し冷えていた。
外へ出る前に、セリナが立ち止まる。
「エアリス、どう思う?」
「分かりません」
「そう来ると思った」
「でも、見ないままにするのは難しいと思います」
「それも、そう来ると思った」
セリナは軽く笑った。すぐに表情を戻す。
「ごめんね。巻き込んでる」
「私は、自分で来ています」
「そこ、ほんとに強いよね」
「強いかは分かりません。ただ、友人が困っているのを見ないふりは、少し難しいです」
セリナは一瞬だけ目を伏せた。
「……そういうことを、さらっと言う」
旧商館の裏口を出ると、路地の向こうを装甲魔導車が通っていった。
帝都では珍しくないのかもしれない。だが、車体の側面にある軍務局の印を見て、セリナの顔が少し硬くなる。
「外縁行きかな」
「分かるんですか」
「あの型は補給用。訓練場か、もっと外」
車はすぐに角を曲がり、見えなくなった。
セリナは、ユリウスから渡された紙をもう一度見た。
第十二線。
旧補給倉庫。
本倉庫だけではなく、周辺へ枝分かれする古い補給支所まで含む名かもしれない。
セリナは紙を折らず、指で押さえたまま歩き出した。
表通りへ出る前に、若い声が近づいた。
「グランツベルク公女」
マティアスだった。
彼は笑っている。だが、視線はセリナの手元の紙を一瞬だけ見た。
「この辺りは古い商館ばかりです。珍しい場所へいらしていたのですね」
「用事がありました」
「もちろん。公爵家の用事なら、我々が聞くことではありません」
言葉は引いている。
けれど、引きながら跡をつける言い方だった。
横にいたクラリッサが、穏やかに頭を下げる。
「先日の交流会では、失礼がありました。若い者同士の場とはいえ、熱が過ぎましたわ」
若い者同士。
セリナはその言葉を、昨日の交流会でも聞いたばかりだった。
マティアスの顔が、また柔らかい布で包み直される。
セリナは紙を外套の内側へしまった。
「熱を持つことと、礼を失うことは別です」
「ええ。ですから、今日はご挨拶だけに」
クラリッサは笑った。
それ以上は踏み込まない。
踏み込まないことで、彼女は十分に見た。
馬車に戻ると、セリナは小さく舌を打ちかけ、途中でやめた。
「ああいうのが、一番疲れる」
「騒がないからですか」
「うん。騒がない。だからこちらも騒げない」




