第四十五話:友人の夜
屋敷へ戻る頃には、夕方になっていた。
セリナは馬車を降りる時も、ほとんど話さなかった。護衛に礼を言い、侍女に外套を預け、廊下を歩く。その動きは普段通りだったが、返事の前に間があった。
エアリスは何も聞かなかった。
聞くなら、部屋に戻ってからでいい。
客間に入ると、セリナは長椅子に腰を下ろした。座るというより、力を抜いたと言った方が近い。
「疲れましたか」
エアリスが尋ねる。
「うん」
セリナは襟元の留め具に触れた。
そのまま少し黙り、やがて片手を伸ばす。
「エアリス」
「はい」
「ちょっとだけ、貸して」
何を、と聞く前に、セリナがエアリスの袖を掴んだ。
強くはない。
子どもが迷子にならないように服を掴むような、そんな力だった。
エアリスは隣に座った。
セリナは肩を寄せ、額をエアリスの肩に預ける。
「今日だけ」
「はい」
「明日には戻る」
「明日でなくても大丈夫です」
「甘やかすね」
「そうでしょうか」
「うん。今のは甘い」
セリナは目を閉じた。
部屋の外では、使用人の足音が遠く聞こえる。帝都の屋敷は夜でも完全には眠らない。だが、この部屋だけは静かだった。
「あの人たち、本当に助けられてた」
セリナがぽつりと言う。
「はい」
「でも、変だった」
「はい」
「私、赤炉会を悪く言いたくない。あそこに救われた人を、たくさん知ってる」
「分かります」
「分かる?」
「今日、見ました」
セリナは窓へ目を向けた。
「そうだよね。見たら、簡単には言えないよね」
語尾は強くならなかった。
療養室の扉に刻まれていた、治療とは違う術式。
セリナは、あの時も眉を寄せていた。
「あの騎士、見た?」
「義肢の方ですか」
「うん。セリナ様、って呼ばれた時の顔」
「はい」
「丁寧だった。変なところは、たぶん何もない。でも、何か……薄かった」
セリナは言葉を探す。
「自分の言葉じゃないみたいだった」
エアリスは療養室の扉を思い出した。
「セリナさん」
「うん」
「あなたは、どうしたいですか」
セリナの指が、エアリスの袖を少し強く掴んだ。
セリナは、膝の上の手を見た。
エアリスは待った。
「知りたい」
セリナは言った。
「でも、知ったら戻れなくなる気がする」
「戻りたいですか」
「分からない」
セリナは目を開けた。
「家のことも、帝国のことも、父上のことも、母上のことも、叔父上のことも。どこまで私が口を出していいのか分からない」
「はい」
「でも、今日のあの騎士たちを見て、ただの家の話じゃないって思った」
エアリスの中で、今日の順番が戻ってきた。
マルタの震える手。
療養院の扉。
返事の早すぎる騎士。
密閉型の魔導車。
その先をセリナが見ると言うなら、隣にいる。
「私は、セリナさんの友人としてここに来ました」
「うん」
「だから、セリナさんが知りたいと思うなら、一緒に見ます」
「……怖くないの?」
「怖くはありません」
「本当に?」
「はい」
セリナは小さく笑った。
「あなたらしい」
「そうですか」
「うん。ちょっと腹が立つくらい、あなたらしい」
そう言いながらも、セリナは袖から手を離さなかった。
しばらくして、侍女が茶を運んできた。
菓子も一緒だった。
赤い果実の小さなタルト。
セリナはそれを見て、ようやく少し顔を上げた。
「好きなの来たよ」
「いただきます」
「切り替え早いね」
「甘いものは、冷めないうちに」
「タルトは冷めても食べられる」
「では、形が綺麗なうちに」
セリナは今度こそ笑った。
その笑いは短かったが、セリナの肩がさっきより下がった。
侍女が下がると、二人はしばらくタルトを食べた。
エアリスは小さなタルトを一つ取り、セリナの皿にも一つ置いた。
「半分ずつ、考えましょう」
「それ、どういう意味?」
「分かりません。でも、一人よりはよさそうです」
セリナは皿を受け取った。
「うん。じゃあ、半分ずつ」
カバンの中で、魔導書がかすかに動いた。
魔導書は閉じたままだった。
エアリスも開かなかった。
タルトの赤い果実は、昼間見た慰霊の花より少し明るい色をしていた。
翌朝、セリナは父に報告することを決めた。
セリナは一度だけエアリスを振り返った。
オスカーは止めなかった。
客人用の椅子が、少し離れた位置に置かれる。
場所は、オスカーの私的な執務室だった。
壁には地図がある。帝国全土の地図ではない。魔淵へ続く外縁地域と、帝都周辺、主要な軍用路だけが描かれている。政治家の部屋というより、軍務を知る者の部屋だった。
オスカーは、娘の話を途中で止めなかった。
慰霊式でマルタ・ベルンから相談を受けたこと。
トマス・ベルンが療養施設から外縁再訓練区へ移されたこと。
療養施設では本当に支援が行われていたこと。
一部の部屋や再訓練の様子に、言葉にしにくい引っかかりがあったこと。
セリナは順に話した。
言葉が何度か止まった。止まるたび、セリナは膝の上で指を揃え直した。
オスカーは最後まで聞いた。
「ヴァレン嬢」
話が終わると、彼はエアリスを見た。
「あなたは何を見た」
エアリスは、療養院の扉を思い出した。
「施設は清潔でした。治療も行われていました。支援を受けた人が感謝していることも、本当だと思います」
「続けなさい」
「でも、療養のためだけではない部屋がありました。再訓練を受けている方たちは、返事の早さまで同じでした」
「返事の早さまで、か」
「はい。号令を聞いてから動くまでの間が、ほとんどありませんでした」
オスカーの眉がわずかに動く。
「それだけで動くには弱い」
「はい」
「ただ、忘れない方がいいと思いました」
「よろしい」
オスカーは短く言った。
オスカーは机の上で指を組む。
「赤炉会は帝国で信頼を得ている。傷病騎士、遺族、軍属支援。その実績は本物だ。そこに疑いをかけるなら、雑な言葉では足りない」
「はい」
セリナは膝の上で手を重ねた。
「分かっています」
「なら、焦るな」
「護衛と記録は前提だ。次に軍務管制に関わる時は、先に私を通しなさい」
「はい」
「それから、感情で赤炉会を敵にするな」
セリナの肩がわずかに強張る。
「父上は、赤炉会を信じているのですか」
「信じるかどうかではない。あの組織に救われた者が多い。それを忘れて敵と決めれば、こちらが帝国を見誤る」
「では、どう見ればいいのですか」
セリナが聞いた。
指先は膝の上で揃えたままだった。
オスカーは組んでいた指を一度だけ解いた。
「働きで見る。金の流れで見る。人の動きで見る。感謝している者の声も、不安を訴える者の声も、同じ重さで扱え」
「同じ重さで」
「片方だけを見れば、必ず間違える」
セリナはその言葉を飲み込むように黙った。
オスカーの視線は、書類ではなくセリナの顔に向いていた。
「セリナ」
「はい」
「お前が何を見るかは、お前が決めろ。ただし、見たものから逃げるな」
セリナは顔を上げる。
「……はい」
「私はお前を家の駒にするつもりはない。だが、グランツベルクの名を背負うなら、その重さは知れ」
セリナは、すぐには返事をしなかった。
セリナは深く息を吸った。
「分かりました」
オスカーは机の端に置いた署名用の認可板を引き寄せた。
「次に同じ施設を見るなら、私の署名を出す。ユリウス殿下の誘いだけで動くな」
「殿下を疑っているのですか」
「疑うというより、あの方は自分の目的で動く」
「……それは、分かります」
「ならばいい」
オスカーは机の引き出しを開け、未記入の許可書を一枚取り出した。
まだ署名はしていない。
ただ、そこに置いただけだった。
「必要になったら出す。使うかどうかは、その時の状況で決める」
「はい」
「それと、エレオノーラには私から話す」
セリナは、まばたきを一つ遅らせた。
「お母様に?」
「お前が妙なものを見たと聞けば、心配する。心配が別の声に変わる前に、こちらで受ける」
セリナはしばらく父を見た。
「ありがとうございます」
「礼を言う話ではない」
オスカーはそう言ったが、声は先ほどより少し低かった。
エアリスは、セリナが前に「父上は怖い」と言った時の顔を思い出した。
その時のセリナは、膝の上で指を重ね直していた。
話はそこで終わった。
部屋を出ると、セリナは廊下で立ち止まった。
「怒られると思ってた」
「怒ってはいませんでした」
「うん。怒られる方が、まだ楽だったかも」
エアリスは言葉を探さず、そばにいた。
セリナは窓の外を見る。
朝の帝都は赤く明るい。遠くでは軍用の馬車が通り、さらに奥の空に、魔導車の光が走っている。
「父上は、私に選べって言った」
「はい」
「選べるのって、楽じゃないね」
「そうですね」
セリナはエアリスを見る。
「あなたは、いつもそんな顔で選んでるの?」
「どんな顔ですか」
「静かな顔」
「分かりません」
「じゃあ、今度鏡を見て」
「努力します」
セリナは小さく笑った。
窓の外へ向けていた目が、エアリスへ戻る。
「次を見るなら、ちゃんと準備する。友達を巻き込むなら、なおさら」
「巻き込まれていますか」
「巻き込んでる」
「では、一緒に考えます」
「本当に、そういうところ」
セリナは呆れたように言ったが、その声は軽くなっていた。
廊下の向こうで、使用人が昼の予定を告げに来る。
セリナは一度だけ父の執務室を振り返り、それから前を向いた。




