第四十四話:療養院の扉
ユリウスからの招待状は、翌朝に届いた。
封書には皇室の印が押されている。だが、文面は大げさではなかった。慰霊式に続き、軍属支援と療養施設の実情を確認するため、グランツベルク家の代表者に同行を願いたい。
文面には、それ以上のことは書かれていない。
セリナは書状を二度読んだ。
それから、机に置く。
「偶然にしては、早い」
「はい」
セリナの指が、昨日の封筒の上で止まる。
日付は一日しか離れていない。
では、何のために、この時期なのか。
「罠だと思う?」
セリナが聞く。
「罠かもしれません」
エアリスは答えた。
「でも、入口でもあると思います」
「うん。そこが嫌」
セリナは椅子の背にもたれた。
「殿下は、こちらを試してる。たぶん、私だけじゃなくて、あなたも」
「そうだと思います」
「落ち着いてるね」
「落ち着いて考えた方が、見えるものが多いので」
「そういうところ、たまに羨ましい」
セリナはそう言ってから、小さく笑った。
「私は今、ちょっと腹が立ってる」
「分かります」
「分かる?」
「声が少し硬いです」
「そこまで分かるんだ」
「少し分かる」
セリナは頬を押さえた。
「友達に声で怒りを読まれるの、なかなか恥ずかしいね」
「読まない方がよかったですか」
「いや。今は助かる」
短くそう言って、セリナは立ち上がった。
「父に確認する。勝手には動けない」
オスカー・レオニス・グランツベルクは、書状を読んでもすぐには返事をしなかった。
重い机の向こうで、指先だけが軽く動く。セリナも口を開かなかった。
エアリスの椅子は、セリナの半歩後ろに置かれていた。
机の上の書類は、オスカーとセリナの前にだけある。
「ユリウス殿下からか」
「はい」
「視察の名目は通る。慰霊式の後ならなおさらだ」
「行ってもよろしいですか」
セリナが尋ねる。
オスカーは娘を見る。
オスカーはすぐに書状を閉じず、しばらく娘の返事を待った。
「行くなら、護衛をつける。記録も残す。グランツベルク家として見たものにする」
「はい」
「ただし、施設内で勝手に深部へ入るな。軍務管制の区域に入るなら、こちらの名と責任が必要になる」
「分かっています」
「分かっているだけでは足りない。分かった上で、守れ」
セリナは背筋を伸ばした。
「はい」
オスカーの視線がエアリスへ移る。
「ヴァレン嬢」
「はい」
「あなたは客人だ。危険を感じたら、セリナより先に下がりなさい」
セリナが少し不満そうな顔をした。
だが、エアリスは素直に視線を下げた。
「分かりました」
オスカーはそれ以上言わなかった。
オスカーの署名が同行記録へ入った。
署名の下には、同行範囲と護衛人数が細かく書き込まれている。
屋敷を出る前、セリナは廊下で小さく息を吐いた。
「父上、怖いでしょ」
「厳しい方だと思います」
「うん。厳しい」
セリナは少し歩いてから、ぽつりと言った。
「でも、私を家の駒だけとしては見ていない」
「はい」
「だから、余計に難しい」
エアリスは、返事の代わりに歩幅を合わせた。
馬車寄せには、グランツベルク家の護衛がすでに待っていた。
皇子からの招待。
赤炉会の施設。
移された騎士。
三つの言葉が、馬車に乗る前に浮かんだ。
エアリスはカバンの留め具を確かめた。
中で、魔導書は静かだった。
いつもなら、何か言うころだった。
「アキさん」
心の中で小さく呼ぶと、エアリスとセリナの頭の奥に声が返る。
「いるよ」
「静かですね」
「ここで騒いだら怒られるからね」
「分かっているんですね」
「もちろん」
セリナが横から半眼になった。
「本当に分かってる?」
「信用が薄い」
「昨日までの積み重ねじゃない?」
アキは答えなかった。
代わりに、魔導書の表紙が一度だけ小さく鳴った。
「今日は、勝手に何かしないでください」
エアリスが念を押す。
「何かって?」
「扉を開ける、職員を黙らせる、書類を飛ばす、施設を消す、などです」
「最後だけ急に大きくない?」
「念のためです」
セリナが噴き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。
「エアリス、契約精霊への注意が具体的すぎる」
「経験からです」
「僕、そこまで問題児かな」
頭の奥で、不満そうな声がした。
誰も答えなかった。
馬車の扉が開く。
セリナが先に乗り込み、エアリスが続いた。
行き先は、赤炉会と軍側が共同で管理する療養施設。
馬車は静かに屋敷を出た。
療養施設は、帝都の外れにあった。
城壁の内側ではある。だが、商業区や貴族街より道幅が広い。軍用の馬車や魔導車が通りやすいよう整えられていた。建物の外壁は赤茶色の石で、窓は大きい。閉じ込めるための場所には見えない。
入口には赤炉会の印と、帝国軍務局の印が並んでいた。
門の前では、グランツベルク家の護衛が先に手続きを済ませた。オスカーの署名入りの同行記録が出されると、受付の兵はすぐに姿勢を正した。
受付の記録板には、皇室の招待印とグランツベルク家の同行記録が並んだ。
オスカーの署名は、目立つ場所に残されている。
案内に立ったのは、赤炉会の職員だった。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
穏やかな声の女性だった。赤い炉の徽章を胸につけ、書類を持っている。
その後ろには軍服の男が一人。こちらはほとんど表情を動かさない。
赤炉会の職員は先に笑う。
軍側の職員は先に書類を見る。
ユリウスは少し遅れて現れた。
「待たせた」
「いいえ」
セリナが礼をする。
エアリスも続いた。
ユリウスは彼女たちの後ろにいる護衛を見て、視線を戻した。
「グランツベルク公らしい」
「父は慎重です」
「それは長所だ」
案内が始まった。
施設の中は清潔だった。
薬草の匂いと、金属を磨いた匂い。白い布、赤い印、整えられた寝台。廊下では義肢魔導具の調整を受けた騎士が、杖をつきながら歩行訓練をしている。
寝台のそばには、家族から届いたらしい小さな花瓶もあった。
最初に通されたのは、義肢魔導具の調整室だった。
腕を失った騎士が椅子に座り、技師が肘の角度を確認している。低階位の治療師が痛みの有無を聞き、隣の書記が調整記録を取っていた。
「魔力の通りが少し悪いですね」
技師が言う。
「昨日よりは動く」
騎士が答える。
「なら、今日は指の動きまで。無理に握らないでください」
騎士は指をわずかに動かし、技師が記録板に印を入れた。
赤炉会の職員が横から口を添える。
「義肢魔導具は、装着して終わりではありません。体に慣らす期間が必要です。赤炉会では、その調整費の一部を負担しています」
「助かっている人は、本当にいますね」
エアリスが小さく言うと、セリナは記録板の印を見たまま答えた。
「うん」
案内の職員が微笑む。
「赤炉会は、戦場から戻った方々の再起を支えるためにあります。帝国に尽くした方が、傷だけを抱えて終わることのないように」
職員は胸の徽章に指を添え、まっすぐ言った。
セリナは、すぐには言い返さなかった。
次に通されたのは、個室の並ぶ区画だった。
書類上は療養室。
だが、そのうちいくつかの扉には、治療室とは違う術式が刻まれていた。説明札と扉の文様から、防音と鎮静の用途までは分かる。
もう一つ。
エアリスには読み切れない刻みがあった。
祈りの文様にも似ている。
けれど、神殿で見たものとは違う。
「こちらは?」
セリナが尋ねると、職員はすぐに答えた。
「心身の安定を図る部屋です。戦場帰りの方は、夜に眠れないことも多いので」
「そうですか」
職員の説明は、すぐに返ってきた。
ユリウスは何も言わない。
ただ、エアリスの視線が扉に止まったことを見ていた。
さらに奥には、面談室があった。
机と椅子。
壁際の小さな火神像。
赤炉会の印が入った記録棚。
ここでも、軍と赤炉会の書類が並んでいた。療養、支援、再訓練、家族連絡。項目は多いが、棚の札はまっすぐ並んでいた。
壁の火神像の下には、小さな香炉が置かれていた。
セリナから聞いた帝国の祈りの形と、よく似ている。戦場へ出る者、戻ってきた者、もう戻れない者。火の前で名を読み上げ、祈りを置く。
だが、この部屋の香炉は使われた形跡が少ない。
縁は磨かれている。
火を入れた匂いは薄い。
灰は、ほとんど残っていなかった。
エアリスは、灰の少ない香炉をもう一度見た。
「ご家族との連絡はこちらで?」
セリナが聞く。
「はい。ただ、外縁再訓練区へ移られた後は、軍務管制が入ります」
「遅れることがある、と」
「ございます」
職員は丁寧に答える。
やがて、目的の名が出た。
「トマス・ベルンさんは、こちらに?」
セリナが職員に尋ねる。
職員は手元の板を確認した。
「ベルン様は、すでに外縁再訓練区へ移られています」
「いつ」
「五日前です」
セリナの表情がわずかに硬くなった。
「ご家族への通知は」
「手続き中です。外縁関係は軍務管制が入りますので、遅れることがございます」
職員が読み上げる順番と、記録板に浮かぶ順番は、ほとんど同じだった。
セリナは口を開きかけ、一度唇を閉じた。
施設の奥へ進む途中、エアリスのカバンの中で魔導書がかすかに動いた。
声は、エアリスの頭の奥にだけ届いた。
「治すためだけの部屋じゃないね」
エアリスは視線を下げない。
ここで反応すれば、誰かが見る。
ただ、足を止めずに歩いた。
ユリウスは前を向いたままだった。
彼の視線も、扉と記録棚の間を一度動いた。
療養院の廊下は明るい。
窓から差し込む光も、床も、職員の声も。
奥へ行くほど、笑い声や雑談が少なくなった。
出口へ向かう途中、義肢の調整を終えた騎士が一人、職員に礼を言っていた。
「これでまた働ける」
「無理はなさらず」
「帝国の役に立てるなら、無理ではない」
職員は微笑んだ。
エアリスは、会話の続きを待った。
治療室には患者がいて、訓練場には騎士がいて、書類には印がある。
セリナは唇を結んだまま、出口へ向かった。
療養施設の裏手には、再訓練用の中庭があった。
広さは十分にある。的、障害物、歩行訓練のための段差、義肢魔導具の調整台。軍の訓練場ほど荒々しくはないが、ただ体を休める場所でもない。
数人の騎士が、決められた動きを繰り返していた。
剣を振る。
止まる。
足を運ぶ。
また止まる。
足を出す間隔も、止まる位置も、同じ線の上にあった。
エアリスは、それを見た。
全員が同じ表情をしているわけではない。痛みをこらえている者もいる。汗をぬぐう者もいる。けれど、声が少ない。
迷う前に、体だけが次の号令を待っているように見えた。
「皆さん、熱心なんですね」
エアリスが言うと、案内の職員は微笑んだ。
「帝国に戻れることを、誇りに思っている方ばかりです」
「戻る」
「はい。前線でなくとも、帝国を支える仕事はありますから」
セリナは訓練場を見つめたまま、拳を握っていた。
帝国の騎士が立ち上がる場面なら、彼女はいつも先に笑う。
今日は笑わなかった。
「外縁再訓練区というのは、ここからさらに移る場所ですか」
ユリウスが職員に尋ねた。
ユリウスは職員ではなく、手元の記録板を見ていた。
「はい。ここで基礎調整を終えた方のうち、適性がある方が移られます。魔淵外縁安定化計画の後方支援に関わる訓練です」
「軍務管制の範囲だな」
「その通りです」
職員は淀みなく答える。
エアリスは、訓練を終えた騎士の一人を見た。
若い男だった。
片足が義肢魔導具になっている。額には汗がある。息も上がっている。
それなのに、目だけが妙に静かだった。
顔に出すことを、途中で忘れたような目だった。
セリナもそれに気づいたのか、半歩前へ出た。
「無理をしていませんか」
若い騎士は姿勢を正した。
「帝国のためです」
言い終えるまで、目は訓練場の端に掲げられた帝国旗から動かなかった。
セリナの顔が曇る。
「そう。ありがとう」
それ以上は聞けなかった。
しばらくして、訓練の休憩が入った。
騎士たちは水を飲み、義肢の留め具を確かめる。誰も倒れていない。誰も叫んでいない。けれど、休憩の場にあるはずの小さな愚痴や冗談も少なかった。
セリナは何か言いかけ、唇を結んだ。
代わりに、指先で外套の端を握っていた。
施設の見学は、予定どおりに進んだ。
途中、ユリウスは職員へ質問を重ねた。
何人が外縁再訓練区へ移るのか。家族への知らせは誰が出すのか。赤炉会と軍務局の境目はどこにあるのか。
職員は答えるたびに、手元の記録板へ目を落とした。
人数は月で変わる。通知は施設から出すが、軍務管制が入れば遅れることもある。赤炉会は支援と療養、軍務局は配置と訓練。
職員は一度も言いよどまなかった。
セリナは少し眉を寄せた。
最後に案内されたのは裏門近くの待機場だった。そこには密閉型の魔導車が数台並んでいる。装甲は厚く、窓は小さい。軍用の輸送車ほど露骨ではないが、普通の馬車とは違う。
赤炉会の印はない。
軍の部隊章も見えない。
ただ、通行許可の表示だけが淡く光っていた。
一台の魔導車へ、数人の騎士が乗り込む。
彼らの動きは乱れていない。拒む者もいない。付き添いの職員は名簿に印を入れ、いつもの手順のように扉を閉めた。
エアリスの視線は、扉が閉じるまで外れなかった。
トマス・ベルンも、このように移されたのだろうか。
魔導車が動き出す。
門番は書類を確認し、すぐに通した。
門番の記録板は青く光り、通行欄に小さな印が入った。
ユリウスは、その車を見送っていた。
エアリスは、彼の横顔を見る。
ユリウスの眉間にも、かすかな皺があった。
見学が終わる頃、セリナの口数はさらに減っていた。
門を出たところで、彼女はようやく息を吐く。
「嫌な場所じゃなかった」
「はい」
「助けられている人もいた」
「はい」
「だから、余計に嫌」
セリナはそう言って、振り返らなかった。
ユリウスが馬車の前で足を止める。
「今日はここまでにしよう」
「殿下」
セリナが彼を見る。
「あの車は、どこへ」
「外縁再訓練区だ」
「それ以上は」
「今は言えない」
ユリウスは短く返し、施設の奥へ視線を戻した。
「ただ、私も確認している」
それだけ言って、彼は自分の馬車へ向かった。
エアリスは施設の正面ではなく、魔導車が曲がった門の番号を目で追った。




