第四十二話:家名と席順
グランツベルク家の屋敷には、昼を過ぎても人の出入りがあった。
帝都にある公爵家の屋敷は、城というほど閉じてはいない。けれど、ただの邸宅とも違う。門の前には護衛が立ち、馬車寄せには使者の姿があり、奥の応接棟では客を迎える準備が続いていた。
エアリスは、セリナの少し後ろを歩いていた。
セリナは普段より口数が少ない。表情は明るく整えているが、昨日からの疲れは消えていなかった。廊下ですれ違う親族や家臣に笑って返すたび、その笑みが少しずつ薄くなる。
そのたびに、エアリスは呼び止めようとして、やめた。
呼び止めかけた指を、袖の中へ戻した。
帝国へ来てから、セリナの歩き方は少し変わった。
学術院では、彼女はよく人の輪の中心にいた。声をかけ、笑い、相手の名前を間違えない。誰と話しても、場の温度を少し上げる。
笑う前に、相手の家名を見る。返事をする前に、父の立場と母の血筋を一度通す。
エアリスは、袖の内側で指を軽く握った。
「セリナさん」
それでも、短く呼んだ。
「なに?」
「あとで、甘いものを食べましょう」
セリナは一瞬だけ目を丸くした。
「今それ?」
「今です」
「理由は?」
「難しい顔が続いています」
セリナはカップの取っ手を指でつついた。
「……分かった。あとで付き合って」
「はい」
セリナの肩が、ほんのわずかに下がった。
その時、先を歩いていた使用人が足を止める。
「セリナ様。ユリウス殿下がお見えです」
セリナの表情が変わった。
セリナのまつげが一度だけ下がり、次の瞬間には公爵家の娘の顔に戻っていた。
「分かったわ」
通された小応接室には、すでにユリウスがいた。
立ち姿は静かだった。華美な服ではない。だが、袖や襟に入った赤金の刺繍が、彼が皇室の人間であることを示している。
部屋には他に、グランツベルク家の侍従と皇室側の従者が一人ずついるだけだった。
椅子は四つしか用意されていない。
エアリスは従者の数と扉の位置を見た。
セリナが礼をする。
「ユリウス殿下」
「急な訪問を許してほしい。グランツベルク公には、すでに挨拶を済ませている」
声は低く、語尾に迷いがない。部屋の従者が、すぐに一歩下がった。
セリナはエアリスを見た。
「殿下。こちらは、私の友人です。エアリス・アウレリア・ヴァレン。セラフィア中央神導学術院のAクラスで一緒に学んでいます」
ユリウスの視線が、エアリスへ向く。
ほんの短い間。
その短さのわりに、目の動きは細かかった。
「改めまして、ユリウス殿下」
エアリスは一礼した。
「エアリス・アウレリア・ヴァレンです」
「噂は聞いている。大主教閣下が推薦された編入生だとか」
「はい」
「聖都の学術院でAクラスに入るのは、容易なことではない。よい師に恵まれたようだ」
セリナは隣で、静かにカップを置いた。
エアリスはカップの水面を見てから答えた。
「多くを教えていただいています」
「大主教閣下は厳しい方だろう」
「はい。ですが、優しい方です」
「なるほど」
ユリウスはカップを置いた。
ユリウスは、そこで一度話を切った。
次の言葉まで、短い間が空いた。
「大主教閣下が行方を絶たれていた間、あなたもご心配だったでしょう」
セリナの手が、膝の上で止まった。
ユリウスの声は穏やかだった。
けれど、彼の視線は茶器にも窓にも逃げなかった。
エアリスは、ユリウスの目を見た。
彼は茶器に手を伸ばさず、返事を待っていた。
「今は、ご無事でいてくださることに感謝しています」
エアリスは静かに答えた。
ユリウスの指が、膝の上で一度だけ止まった。
「そうですか」
ユリウスは、それ以上追わなかった。
セリナが一歩前に出る。
「殿下、エアリスは聖都に来てまだ日が浅いんです。帝国の話も、私が少しずつ教えているところで」
「それはよい。セリナ嬢の案内なら、帝国を嫌いにはならないだろう」
「変な責任を乗せないでください」
「君ならできる」
セリナはカップの取っ手を指で押さえた。
そのやり取りだけは、少し親族らしかった。セリナも、返し方に迷っていない。
ユリウスは話題を変えた。
学術院のこと。聖都と帝国の気候の違い。ラウグラで食べた料理のこと。エアリスが帝都の赤い屋根をどう見たか。
笑い声は小さく、茶器の音も荒れない。
「ラウグラでは、何を食べた?」
「香辛料の強い肉料理をいただきました」
「口に合ったか」
「はい。聖都の料理とは違いました」
「帝国の料理は、少し強い。人も似たようなものだ」
「強い料理は、慣れるとおいしいです」
ユリウスは茶器の縁へ視線を落とした。
「人も?」
セリナが横から口を挟む。
「殿下、食事の話を人に広げないでください」
「失礼。癖でね」
ユリウスはあっさり引いた。
エアリスは、その引き方を見ていた。ユリウスは茶器を置き、話題の端をそこで切った。
父が礼法の授業で口にした言葉を、ふと思い出した。
発言、沈黙、視線、席順。
あの時は、ただ覚えるべき順番だった。今は、ユリウスが茶器を置いた位置まで目に入る。
エアリスがそれ以上答えずにいると、セリナが横からラウグラの料理の話を足した。ユリウスはそれを受け、茶器を持ち直す。話題はそこで次へ移った。
ユリウスが去る前に、彼はセリナへ言った。
「近く、赤炉会の式がある。君も出るのだろう」
「ええ。家として招かれています」
「よいことだ。あの組織は、多くの軍属を支えている」
「……はい」
セリナは返事の前に、膝の上の手を握った。
ユリウスはそれを責めなかった。
「では、また」
彼はそれだけ言い、部屋を出た。
廊下に戻ると、セリナは柱の陰で足を止めた。
「……緊張した」
「セリナさんでも、緊張するんですね」
「するよ。あの人、にこにこしてても油断できないもの」
「はい」
「はいって」
セリナは少し笑い、それからエアリスの顔をのぞき込んだ。
「何か言われた?」
「大主教様のことを聞かれました」
「……そこ?」
エアリスはセリナを見た。
ユリウスは、大主教の失踪について聞いた。
ローゼンベルクの名は出さなかった。
「殿下は、相手の言葉より、間を見る人だよ」
セリナが言った。
「間、ですか」
「うん。答える前に迷ったか、すぐ答えたか。どこで目をそらしたか。そういうところを見る」
「では、私は見られました」
「たぶんね」
「セリナさんも?」
「私はいつも見られてる。家が家だから」
セリナは軽く言ったが、声は軽くなかった。
「嫌ですか」
「嫌じゃないって言ったら嘘かな。でも、慣れてはいる」
「慣れるものなんですね」
「慣れるしかないこともあるよ。帝国の貴族って、そういうところがあるから」
セリナは歩きながら、応接室の扉をちらりと振り返る。
「殿下は優秀だよ。私なんかが言うのも変だけど、皇室の中でもかなり。だから余計に、何を考えているのか分からない時がある」
「優秀な人ほど、分かりにくいんですか」
「分かりやすい優秀さもある。でも殿下は、相手に見せる部分を選ぶ人」
エアリスは、応接室で止まったセリナの手を思い返した。
大主教が行方を絶っていた間。
ユリウス皇子は、ローゼンベルクの名を出さなかった。
その代わりに、大主教の失踪期間だけを置いていった。
その余白に、父が告げた帝国の婚約話の影が重なった。
エアリスは、父の書斎で見た帝国の封蝋を思い出した。
「甘いもの」
エアリスが言うと、セリナは首を傾げた。
「え?」
「あとで、食べる約束です」
セリナは数秒遅れて、それを思い出した。
そして、今度ははっきり笑った。
「そうだった。じゃあ、殿下の話は一回置く」
「はい」
二人は応接棟を出た。
廊下の向こうでは、まだ使者の足音が続いていた。
その日の午後、セリナは約束どおり甘いものを用意してくれた。
場所は屋敷の奥にある小さな客間だった。大きな応接室ほど格式ばっていない。窓は中庭に面していて、赤い花の鉢がいくつか置かれている。
机の上には、薄く焼いた菓子と、赤い果実の砂糖煮があった。
「帝国風の果実煮。聖都のものより、少し香辛料が強いかも」
セリナが皿を押し出す。
エアリスは一口食べた。
甘い。
そのあとに、舌の奥へ熱が残る。
エアリスは皿の上の赤い果実煮を、もう一度見た。
「おいしいです」
「よかった」
「いちごに似ています」
「好きなの?」
「はい」
エアリスが素直に答えると、セリナは楽しそうに目を細めた。
「覚えた。エアリスは、いちご系に弱い」
「弱くはありません」
「じゃあ、好き」
「はい」
「そこは否定しないんだ」
セリナが笑う。
セリナの声が、少し軽くなった。
それでも、さっきユリウスが大主教の名を出した時の間だけは、皿の甘い香りの中に混じっていた。
窓の外では、中庭の鉢植えに水をやる侍女の姿が見えた。赤い花の葉に水が落ちるたび、光が小さく跳ねる。帝都の屋敷は広いが、どこかに必ず人の手が入っている。花も、廊下も、食器も、客間の香りも。
鉢の位置も、茶器の柄も、来客に見られる前提で整えられている。
エアリスは皿の上の果実煮を見て、もう一口だけすくった。茶を飲み、カップを置く。
「セリナさん。帝国の皇室では、婚約は本人が決めるものですか」
セリナの手が止まった。
それから、ゆっくりと菓子を皿へ戻す。
「それ、さっきの殿下のこと?」
「分かりません。ただ、思い出しました」
「前に言ってた婚約の話?」
「はい」
セリナはすぐには聞き返さなかった。
誰と、いつ、なぜ。
セリナは菓子を割る指を止めたが、口に出したのは別のことだった。
「皇室が絡む婚約は、本人だけで決まるものじゃないよ」
セリナはそう言った。
「家、派閥、軍、領地、利害。そういうものが絡む。本人が知っている場合もあるし、最後まで形だけ知らされる場合もある」
「セリナさんも、そういう話を聞くんですか」
エアリスの声は、少し小さくなった。
セリナは、すぐには答えなかった。
「聞くよ。公爵家だもの」
声は軽く作られていた。けれど、菓子を割る指先が少し遅れた。
「正式に決まってるわけじゃない。ただ、誰と話した、どの家から打診があった、どこの家が近づいてきた。そういう話は、どうしても耳に入る」
「嫌ですか」
「嫌、かな。まだ、ちゃんと言葉にできないけど」
セリナは割った菓子の片方を、皿の端へ寄せた。
「私は強くなりたいし、家のことも分かってる。けど、それと、自分の人生を全部どこかの席で決められるのは、同じじゃない」
エアリスは、朝食の席で父から縁談を告げられた時のことを思い出した。
「本人が、知らないこともあるんですね」
「ある。逆に、本人が分かっていて利用することもある」
ユリウスが旧婚約者かどうかは、まだ分からない。
けれど、もしそうだとして。
彼は何も知らなかったのか。
それとも、知っていたのか。
エアリスは、匙を持つ手を止めた。
「気になるなら、調べてもいいけど」
セリナが言う。
「たぶん、簡単には出ないよ。皇室絡みの婚約って、全部が公開記録になるわけじゃないし」
「そうですか」
「うん。あと、無理に今すぐ触らなくてもいいと思う」
エアリスが顔を上げる。
セリナは、少し迷ってから続けた。
「今のあなたは、エアリスでしょ」
「……はい」
「なら、昔の名前で決められた婚約に、すぐ引っ張られなくてもいい」
セリナはそこで、言葉を選んだ。
「もちろん、無視していいって意味じゃないよ。皇室が絡む婚約なら、何か理由はある。相手が誰かも、調べる価値はあると思う」
「はい」
「でも、それはあなたが自分で触る時に触ればいい。誰かに急かされて触るものじゃない」
セリナは果実煮の入った小皿を見た。
「私、今ちょっと家に急かされてるから。余計にそう思うのかも」
「セリナさんも」
「うん。家のため、帝国のため、将来のため。そう並べられると、間違っているって言いにくい」
セリナは笑った。菓子を割る音が、少し硬かった。
「だから、あなたには急いでほしくない」
果実煮の小皿を見る横顔に、さっきの笑みはもうなかった。
「ありがとうございます」
「お礼はいいよ。友達でしょ」
セリナはそう言って、菓子をもう一枚取った。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「セリナ様」
侍女が入ってくる。
「赤炉会より、明日の慰霊式について最終のご案内が届いております」
セリナの表情がわずかに変わった。
封書には赤い炉を模した印が押されていた。
中に入っていたのは、式次第、参列者の動線、遺族席の位置、そして外縁功労者交流会の席次確認だった。
セリナは席次の紙だけを少し長く見た。
「慰霊式のあとに、短い挨拶の場があるみたい」
「若い方の集まりですか」
「うん。名目は、外縁計画に関わる若い世代の交流。ライオネル殿下の名もある」
紙の上には、グランツベルク家、エーレンフェルト家、ブランシュタット家、ヴァルデック家の名が並んでいた。
全員が同じ派閥ではない。
それでも、一枚に並べられていた。
どの家が返事を遅らせたか、誰の隣に座るかまで、一目で分かるように。
「出るのですか」
「慰霊式は出る。交流会は、父上の返事次第」
セリナは封書の端を指でなぞった。
「でも、こういう紙が届いた時点で、向こうはもう半分出席扱いにしたがってる」
「断ると、目立ちますか」
「出ても目立つし、断っても目立つ。だから面倒なの」
セリナは苦く笑った。
「家の名って、紙の上だと人より大きいんだよね」
エアリスは席次の紙を見た。
名前の左には家名、右には席番が振られている。
隣り合う家。
離された家。
ライオネル殿下の名に近い席と、赤炉会会長の列に寄せられた席。
細い罫線の間で、家同士の距離まで決められていた。
「急いで決めなくていいと思います」
「あなた、さっきもそういう顔してた」
「どんな顔ですか」
「急がせる人に怒ってる顔」
エアリスは少し考えた。
「そうかもしれません」
セリナはそれを聞いて、小さく笑った。
机の上には、まだ果実煮の甘い香りが残っている。
その上に置かれた赤い封書だけが、少し重く見えた。




