第四十話:普通の日の約束
グランツベルク邸へ戻ると、護衛隊長が小さな応接室で待っていた。
机の上に置かれた紙は、一枚だけだった。
セリナは椅子に座る前に言った。
「何か残ってた?」
「偽物と言い切れるものは、ありませんでした」
護衛隊長の声は硬い。
「身分札は帝都警備局のものです。口令も、正式な形式に沿っています。使われた結晶板も、警備局で使う型とほぼ同じです」
「ほぼ?」
「記載された番号は合います。ですが、誰が持ち出したかまでは追えません」
セリナの指が、椅子の背を握った。
「消したの?」
「消したというより、記録上はどの扱いにも戻せる形にされていました。廃棄予定、臨時貸与、保管戻し。どれを選んでも説明がつきます」
護衛隊長は紙へ視線を落とす。
「動いた職員本人は、深い事情を知らないようです。命じられた手続きをしただけだと」
「使われたのね」
「おそらくは」
セリナは舌打ちしなかった。
代わりに、椅子へ腰を下ろした。背筋は伸びているのに、指先だけが落ち着かない。
「抗議は?」
「出せます。ただ、正式に出せば、相手も正式に返してきます」
「警備上の確認だった、と?」
「はい」
「それ以上を聞けば、こちらが気にしているものまで見える」
護衛隊長は顎を引いた。
エアリスとセリナの頭の奥へ、アキの声が届いた。
「雑じゃないね」
セリナがカバンを見る。
「褒めてるの?」
「嫌な相手だって言ってる」
「本当に嫌な言い方」
「嫌な相手だからね」
アキの声は軽かったが、茶化しているだけではなかった。
エアリスは、会館で見た男を思い出した。
逃げなかった。
抵抗もしなかった。
渡された口令を、最後まで繰り返していた。
会館の者たちも、最初は止めなかった。身分札を見て、結晶板を見て、一歩引いた。
「その職員は、今どこに?」
「警備局で再聴取です。こちらから強く押さえるには弱い」
「……弱い、ばかりね」
セリナは低く言った。
エアリスは水差しを取り、自分の杯とセリナの杯に水を注いだ。
「飲みますか?」
セリナは少し驚いた顔をした。
それから、杯を受け取る。
「ありがと」
「セリナさんが怒っているので」
「見れば分かる?」
「分かります」
「じゃあ、隠せてないね」
セリナは水を飲み、短く息を吐いた。
「でも、あなたに何かされなくてよかった」
「アキさんが止めてくれました」
「あなたも止まった」
「必要かどうか、分からなかったので」
「それで止まれるのは大事よ」
セリナは杯を置いた。
「私はたぶん、腹が立つ方が先に来る」
「私を守ろうとしてくれたからです」
「友人だからね」
「はい」
短い返事だった。
それで、セリナの眉間から力が抜けた。
護衛隊長はそこで一礼した。
「旦那様にも報告します」
「お願い」
「当面、同じ会館へ行かれる場合は護衛を増やします」
「分かった」
「ただ、相手を名指しする材料はありません」
「それも分かった」
セリナの返事は短かった。
護衛隊長が下がると、部屋は少し静かになった。
エアリスはノートを開いた。
最初に書いたのは、「会館で起きたこと」という一行だけだった。
その下を一行空ける。
「赤炉会って書かないの?」
セリナが横から覗く。
「まだ書けません」
「私もそう思う」
セリナは椅子に座り直した。
「昨日見た人たちがいるから、すぐにそこへ置きたくない」
「助けられた人がいました」
「うん。あの人の顔、忘れられない」
赤炉会の欄は空けたままにした。
セリナは自分の紙の端に、赤い炉の印だけを小さく写した。
その下に名は書かず、ペンを置く。
赤い点だけが残った。
「怒ってる時に決めると、間違えそうだから」
「怒っているんですか?」
「かなり」
セリナは素直に言った。
それから、肩を落とす。
「でも、怒ってるだけじゃ足りないのも分かってる」
机の紙には、警備局の札、軍務形式の口令、臨時検査で使われる照合欄が残っている。
セリナはそれを見て、苦い顔をした。
「帝国に来てすぐ、嫌なところを見せてる」
「嫌なところだけではありません」
「そう?」
「セリナさんの護衛の方は、すぐ動きました」
「それは、うちの人たちが優秀だから」
「はい」
「そこは否定しないんだ」
「優秀でした」
セリナは紙の端を指で押さえた。
その笑いはすぐに消えた。
セリナは紙の端を指で押さえ、しばらく何も言わなかった。怒鳴ることも、机を叩くこともしない。けれど、指先にだけ力が入っている。
「騒いだ方が負ける時って、あるのよ」
「今が、そうですか?」
「たぶんね。相手は、私が怒るところまで計算してる」
セリナは窓の外を見た。
「腹が立つ。でも、ここで私が家の名を出して暴れたら、あっちは『公爵家の令嬢が手続きに圧力をかけた』って言える」
「それは困ります」
「すごく困る」
短く言ってから、セリナは水をもう一口飲んだ。
「だから、今日はここまで」
「はい」
「でも、忘れない」
エアリスは頷き、赤炉の小さな印の横に、日付だけを書き足した。
その夜、オスカー公爵から短い返答が届いた。
件の臨時検査については家として確認を進める。
セリナとエアリスは、当面、単独で軍属支援会館へ行かないこと。
必要があれば護衛を増やすこと。
紙面に余計な慰めはなかった。
廊下の向こうでは、家令が護衛札を掛け替えていた。夕方まで空いていた客用馬車の欄にも、朱線が引かれている。門の近くでは、交代の兵が一人増えていた。
家令は扉の前で一度立ち止まり、セリナへ頭を下げた。
「明日以降、外出の際は護衛を二名増やします。旦那様のご指示です」
「分かったわ」
「行き先を変える場合は、出発前にお知らせください」
「それも分かった」
セリナは大人しく答えた。
家令が去ると、彼女は小さく頬をふくらませる。
「ここまでされると、悪いことをした気分になる」
「悪いことはしていません」
「うん。してない。たぶん」
「たぶん、なんですか?」
「帝国だと、正しいかどうかと、面倒かどうかは別なの」
窓の外、屋敷の塀の向こうから、人の笑い声と肉を焼く匂いが遠く混じってきた。軍用馬車の車輪が石畳を叩く音だけが、近くの道を重く過ぎていく。
通りの火が、塀の上に赤い揺れを落とした。
誰かが値段をまけろと言い、店主が大声で笑い返しているらしい。
会館の静けさは、窓の外には残っていなかった。
セリナは読み終えると、封書を机に置いた。
「お父様らしい」
「厳しい方ですか?」
「厳しい。でも、雑に切り捨てる人じゃない」
彼女は窓の外を見た。
「明日は、もう少し普通の日がいい」
「普通の日にしますか?」
「できるなら」
「では、甘いものを食べに行きましょう」
セリナが目を丸くした。
それから、笑った。
「あなた、たまに急に強いよね」
「普通の日には、甘いものが必要だと思いました」
「それはそう」
セリナは棚から薄い街案内を取り出し、商業区の一角へ印をつけた。
「ここ。帝国菓子だけど、辛くない」
「辛い菓子もあるんですか?」
「ある。私は好きだけど、今日はやめておく」
「なぜですか?」
「腹が立ってる時に辛いものを食べると、余計に強くなりそうだから」
エアリスは少し考えた。
「では、甘いものにしましょう」
「うん。明日は、そういう日にする」
セリナは案内紙を畳みかけ、また開いた。
「ひとつだけじゃ足りないかも」
「二つ行きますか?」
「行ける?」
「セリナさんが案内してくださるなら」
「じゃあ、二つ」
声が軽くなった。
カバンの中で、アキが小さく笑った。
エアリスはノートを閉じた。
セリナの杯には、まだ少し水が残っている。
エアリスは自分の空になった杯を、そっと手前に寄せた。




