表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鳥籠の令嬢は、神と悪魔を連れて世界の嘘を旅する ~政略結婚の前夜、地下牢で始まった神授物と邪教の巡礼譚~  作者: 0くるみ0
ガイア帝国編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
40/80

第四十話:普通の日の約束

 グランツベルク邸へ戻ると、護衛隊長が小さな応接室で待っていた。


 机の上に置かれた紙は、一枚だけだった。


 セリナは椅子に座る前に言った。


「何か残ってた?」


「偽物と言い切れるものは、ありませんでした」


 護衛隊長の声は硬い。


「身分札は帝都警備局のものです。口令も、正式な形式に沿っています。使われた結晶板も、警備局で使う型とほぼ同じです」


「ほぼ?」


「記載された番号は合います。ですが、誰が持ち出したかまでは追えません」


 セリナの指が、椅子の背を握った。


「消したの?」


「消したというより、記録上はどの扱いにも戻せる形にされていました。廃棄予定、臨時貸与、保管戻し。どれを選んでも説明がつきます」


 護衛隊長は紙へ視線を落とす。


「動いた職員本人は、深い事情を知らないようです。命じられた手続きをしただけだと」


「使われたのね」


「おそらくは」


 セリナは舌打ちしなかった。


 代わりに、椅子へ腰を下ろした。背筋は伸びているのに、指先だけが落ち着かない。


「抗議は?」


「出せます。ただ、正式に出せば、相手も正式に返してきます」


「警備上の確認だった、と?」


「はい」


「それ以上を聞けば、こちらが気にしているものまで見える」


 護衛隊長は顎を引いた。


 エアリスとセリナの頭の奥へ、アキの声が届いた。


「雑じゃないね」


 セリナがカバンを見る。


「褒めてるの?」


「嫌な相手だって言ってる」


「本当に嫌な言い方」


「嫌な相手だからね」


 アキの声は軽かったが、茶化しているだけではなかった。


 エアリスは、会館で見た男を思い出した。


 逃げなかった。


 抵抗もしなかった。


 渡された口令を、最後まで繰り返していた。


 会館の者たちも、最初は止めなかった。身分札を見て、結晶板を見て、一歩引いた。


「その職員は、今どこに?」


「警備局で再聴取です。こちらから強く押さえるには弱い」


「……弱い、ばかりね」


 セリナは低く言った。


 エアリスは水差しを取り、自分の杯とセリナの杯に水を注いだ。


「飲みますか?」


 セリナは少し驚いた顔をした。


 それから、杯を受け取る。


「ありがと」


「セリナさんが怒っているので」


「見れば分かる?」


「分かります」


「じゃあ、隠せてないね」


 セリナは水を飲み、短く息を吐いた。


「でも、あなたに何かされなくてよかった」


「アキさんが止めてくれました」


「あなたも止まった」


「必要かどうか、分からなかったので」


「それで止まれるのは大事よ」


 セリナは杯を置いた。


「私はたぶん、腹が立つ方が先に来る」


「私を守ろうとしてくれたからです」


「友人だからね」


「はい」


 短い返事だった。


 それで、セリナの眉間から力が抜けた。


 護衛隊長はそこで一礼した。


「旦那様にも報告します」


「お願い」


「当面、同じ会館へ行かれる場合は護衛を増やします」


「分かった」


「ただ、相手を名指しする材料はありません」


「それも分かった」


 セリナの返事は短かった。


 護衛隊長が下がると、部屋は少し静かになった。


 エアリスはノートを開いた。


 最初に書いたのは、「会館で起きたこと」という一行だけだった。


 その下を一行空ける。


「赤炉会って書かないの?」


 セリナが横から覗く。


「まだ書けません」


「私もそう思う」


 セリナは椅子に座り直した。


「昨日見た人たちがいるから、すぐにそこへ置きたくない」


「助けられた人がいました」


「うん。あの人の顔、忘れられない」


 赤炉会の欄は空けたままにした。


 セリナは自分の紙の端に、赤い炉の印だけを小さく写した。


 その下に名は書かず、ペンを置く。


 赤い点だけが残った。


「怒ってる時に決めると、間違えそうだから」


「怒っているんですか?」


「かなり」


 セリナは素直に言った。


 それから、肩を落とす。


「でも、怒ってるだけじゃ足りないのも分かってる」


 机の紙には、警備局の札、軍務形式の口令、臨時検査で使われる照合欄が残っている。


 セリナはそれを見て、苦い顔をした。


「帝国に来てすぐ、嫌なところを見せてる」


「嫌なところだけではありません」


「そう?」


「セリナさんの護衛の方は、すぐ動きました」


「それは、うちの人たちが優秀だから」


「はい」


「そこは否定しないんだ」


「優秀でした」


 セリナは紙の端を指で押さえた。


 その笑いはすぐに消えた。


 セリナは紙の端を指で押さえ、しばらく何も言わなかった。怒鳴ることも、机を叩くこともしない。けれど、指先にだけ力が入っている。


「騒いだ方が負ける時って、あるのよ」


「今が、そうですか?」


「たぶんね。相手は、私が怒るところまで計算してる」


 セリナは窓の外を見た。


「腹が立つ。でも、ここで私が家の名を出して暴れたら、あっちは『公爵家の令嬢が手続きに圧力をかけた』って言える」


「それは困ります」


「すごく困る」


 短く言ってから、セリナは水をもう一口飲んだ。


「だから、今日はここまで」


「はい」


「でも、忘れない」


 エアリスは頷き、赤炉の小さな印の横に、日付だけを書き足した。


 その夜、オスカー公爵から短い返答が届いた。


 件の臨時検査については家として確認を進める。


 セリナとエアリスは、当面、単独で軍属支援会館へ行かないこと。


 必要があれば護衛を増やすこと。


 紙面に余計な慰めはなかった。


 廊下の向こうでは、家令が護衛札を掛け替えていた。夕方まで空いていた客用馬車の欄にも、朱線が引かれている。門の近くでは、交代の兵が一人増えていた。


 家令は扉の前で一度立ち止まり、セリナへ頭を下げた。


「明日以降、外出の際は護衛を二名増やします。旦那様のご指示です」


「分かったわ」


「行き先を変える場合は、出発前にお知らせください」


「それも分かった」


 セリナは大人しく答えた。


 家令が去ると、彼女は小さく頬をふくらませる。


「ここまでされると、悪いことをした気分になる」


「悪いことはしていません」


「うん。してない。たぶん」


「たぶん、なんですか?」


「帝国だと、正しいかどうかと、面倒かどうかは別なの」


 窓の外、屋敷の塀の向こうから、人の笑い声と肉を焼く匂いが遠く混じってきた。軍用馬車の車輪が石畳を叩く音だけが、近くの道を重く過ぎていく。


 通りの火が、塀の上に赤い揺れを落とした。


 誰かが値段をまけろと言い、店主が大声で笑い返しているらしい。


 会館の静けさは、窓の外には残っていなかった。


 セリナは読み終えると、封書を机に置いた。


「お父様らしい」


「厳しい方ですか?」


「厳しい。でも、雑に切り捨てる人じゃない」


 彼女は窓の外を見た。


「明日は、もう少し普通の日がいい」


「普通の日にしますか?」


「できるなら」


「では、甘いものを食べに行きましょう」


 セリナが目を丸くした。


 それから、笑った。


「あなた、たまに急に強いよね」


「普通の日には、甘いものが必要だと思いました」


「それはそう」


 セリナは棚から薄い街案内を取り出し、商業区の一角へ印をつけた。


「ここ。帝国菓子だけど、辛くない」


「辛い菓子もあるんですか?」


「ある。私は好きだけど、今日はやめておく」


「なぜですか?」


「腹が立ってる時に辛いものを食べると、余計に強くなりそうだから」


 エアリスは少し考えた。


「では、甘いものにしましょう」


「うん。明日は、そういう日にする」


 セリナは案内紙を畳みかけ、また開いた。


「ひとつだけじゃ足りないかも」


「二つ行きますか?」


「行ける?」


「セリナさんが案内してくださるなら」


「じゃあ、二つ」


 声が軽くなった。


 カバンの中で、アキが小さく笑った。


 エアリスはノートを閉じた。


 セリナの杯には、まだ少し水が残っている。


 エアリスは自分の空になった杯を、そっと手前に寄せた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ