第三十九話:臨時検査
臨時検査が行われたのは、顔合わせの翌日だった。
セリナとエアリスは、赤炉会の慰霊式に関する追加確認のため、軍属支援会館を再び訪れていた。同行しているのはグランツベルク家の護衛が二人。手続きそのものは短く、名前と席次、当日の動線を確認するだけで終わるはずだった。
会館の中は、前日より人が少なかった。
大広間にはまだ椅子が並べられておらず、壁際で職員たちが式具を確認している。火を象った燭台、献花台、遺族席の札、軍側代表の名簿。準備は静かに進んでいた。
セリナは受付で書類を受け取り、内容を確かめる。
「グランツベルク家はこの席ね。エアリスは私の隣で登録されてる」
「ありがとうございます」
「客人扱いだから、難しいことはしなくていいよ」
「はい」
エアリスは出席者名簿へ目を戻した。
机の上には、他家の出席者名も一部見えている。支援団体、軍側、貴族。知らない名が多い。その中に、皇室関係者の欄があった。
ユリウス殿下の名はなかった。
昨日の視線を思い出す。
あれが何だったのかは、まだ分からない。
受付を離れようとした時、灰色の制服を着た男が近づいてきた。
「失礼いたします。帝都警備局の臨時照合です」
男は身分札を示した。
金具も、印も、偽物には見えない。
セリナの護衛が一歩前へ出た。
「グランツベルク家の客人だ。確認は当家を通してもらう」
「承知しております。魔淵外縁安定化計画に伴う、滞在者照合の簡易手続きです。形式のみで終わります」
男は身分札を両手で示し、口令を告げた。
強引に押し通すつもりはないらしい。正面から、返事を待っている。
セリナは男を見た。
「今ここで必要な手続き?」
「はい。支援会館へ出入りされる外部客人の一部が対象です」
「一部?」
「警備上の抽出です」
セリナの眉がわずかに動いた。
エアリスは男の手元を見た。薄い結晶板がある。名簿を写すための道具にも、身元を確かめる魔導具にも見える。
男はエアリスへ向き直った。
「ヴァレン嬢。お手数ですが、こちらへ手を」
セリナがすぐに言った。
「待って」
近くにいた職員たちが、そろって動きを止めた。
受付の職員は困った顔をしている。会館の係員も、男の書類とセリナの顔を見比べていた。
「グランツベルク家を通して、と言ったはずよ」
「グランツベルク公女のお手を煩わせるほどのものではありません」
「私が決めるわ」
セリナの声は低い。
男はなおも礼を崩さなかった。
その礼儀正しさが、壁のように立っている。
エアリスは結晶板を見る。
危険かどうかは分からない。
必要かどうかも分からない。
ただ、いま触るべきではない。
その時、カバンの中で、頁が一枚だけ鳴った。
誰にも聞こえないほど、小さい音だった。
次の瞬間、結晶板の表面に淡い文字が浮かんだ。
照合済み。
男の手が止まる。
彼はまだ何もしていなかった。エアリスも触れていない。
「……失礼」
男は結晶板を見下ろした。
文字は消えない。
照合済み。
セリナの護衛が男の腕を取った。
「手続きは終わったようだな」
「何かの誤作動です。再確認を」
「必要ない」
セリナの声は明るくなかった。
「グランツベルク家の客人に触れようとした理由は、うちを通して説明してもらうわ」
男は逃げようとはしなかった。
抵抗もしない。
護衛は男を押さえたまま、身分札を責任者へ渡した。
会館の責任者は札の刻印を確かめ、受付の職員が男の差し出した紙と控えを並べる。
印は合っている。
口令も違っていない。
会館の責任者が駆け寄ってきた。
「これは、どういうことですか」
「こちらが聞きたい」
セリナは答えた。
怒っている。
けれど、声を荒らげなかった。
エアリスも、そこで口を挟まなかった。
「セリナさん」
「なに?」
「私は大丈夫です」
「大丈夫じゃない時ほど、あなたはそう言いそう」
「今は、本当に」
セリナはエアリスを見た。
それから、短く息を吐く。
「分かった。でも、これは流さない」
護衛が男を別室へ連れていく。会館の責任者も同行した。
受付の周囲には、何が起きたのか分からない顔がいくつか残っている。だが、グランツベルク家の護衛がすぐに場を整えた。
受付の机には、手続き上の確認誤差、と書かれた控えが一枚置かれた。
セリナはその場を離れるまで、表情を崩さなかった。
別室での確認は、思ったより長くかかった。
セリナとエアリスは、会館の応接室で待たされた。壁には過去の慰霊式の記録画が掛けられている。火の前に並ぶ軍人たち。白い花を持つ遺族。赤炉会の職員。
白い花を持つ遺族の記録画が、応接室の灯りを受けてぼんやり光っていた。
「ここで騒いだら、慰霊式そのものに泥をかけることになる」
セリナが小さく言った。
「だから、あの人はこの場所を選んだのかもしれません」
「そう思う?」
「はい。大きく騒げない場所です」
セリナは椅子の肘掛けを指で叩きかけ、途中でやめた。
「やり方が嫌い」
「はい」
「でも、上手い」
セリナは奥歯を噛み、肘掛けから手を離した。
やがて護衛が戻り、最低限の説明だけをした。男は拘束されず、会館側の控室へ移された。グランツベルク家は、正式に抗議する前に通行経路と口令の出所を確認する。
セリナは肘掛けに置いた手を握った。
「お父様へ報告して」
「すでに使いを出しました」
「ありがとう」
馬車に戻ってから、ようやく口を開く。
「今の、アキさん?」
カバンの中で、魔導書がかすかに動いた。
「たぶんね」
「たぶんって」
「僕の出番かなと思って」
声は軽い。
エアリスは、結晶板へ伸ばしかけた自分の手を思い出した。アキが閉じていなければ、薄い光は手の内側まで入り込んでいたかもしれない。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。触らせる必要はなかったから」
セリナは窓の外へ目を向けた。
「正規の手続きみたいに見えた」
「はい」
「それが一番嫌」
彼女は拳を握っていた。
セリナは窓の向こうに遠ざかる会館を見た。あの扉の奥へ連れていかれた男の顔を思い出しているようだった。
「あの人、本当に何も知らない顔だった」
セリナが言った。
「演技かもしれません」
「そうね。でも、もし演技じゃなかったら、あの人も使われただけ」
「はい」
「腹が立つのに、殴る相手が分からない」
エアリスは少し考えた。
「分かるまで、殴らない方がいいと思います」
セリナは目を丸くした。
それから、吹き出すように笑った。
「あなたがそういう言い方するの、ずるい」
「変でしたか?」
「正しいけど、ちょっと物騒」
カバンの留め具が、かすかに鳴った。
「いいね。分かったら殴るんだ」
「アキさん」
「冗談だよ」
「今のは、あまり冗談に聞こえません」
「じゃあ半分だけ」
セリナが呆れた顔をした。
それでも、セリナの肩から少し力が抜けた。
馬車は赤い石畳の道を進む。窓の向こうで、軍服の一団が通りを渡っていた。整った列。磨かれた装備。帝国の街では珍しくない光景だ。
今日の男も、その列の一部みたいな顔で現れた。
「お父様は、たぶんすぐ気づく」
セリナが言った。
「何にですか?」
「これ、私を怒らせるためだけじゃないってこと。あなたに結晶板へ触れさせて何が起きるか、私たちがどう動くか。その両方を見たかったのかもしれない」
「どう動くか」
「うん。私が騒ぐか。あなたが怯えるか。アキさんが何をするか」
セリナはカバンへ目を向けた。
「向こうも、何かを見るつもりだったんだと思う」
アキは返事をしなかった。
カバンの中で、頁が一枚だけ鳴った。
セリナは窓へ視線を戻した。
「帝国って、強いものが好きなの」
「はい」
「でも、強いものに手順を使われると、普通の人は止めにくい」
「今日のように」
「そう」
セリナの返事は短かった。
エアリスは、その横顔を見た。
怒っているのに、考えている。
感情だけで走らないよう、自分を止めている。
セリナは怒りを飲み込み、受付で受け取った確認控えをもう一度見た。
エアリスはその横顔を見て、何も急かさなかった。
エアリスはカバンへ視線を落とした。
「アキさん。あの結晶板は、何をしようとしていたんですか?」
「正確には見てない。触らせなかったからね」
「見ていないんですか?」
「危ないものを最後まで動かして確認する趣味はないよ」
アキの声は軽い。
「ただ、身元確認だけなら、手を置かせる必要は薄い。名前、滞在許可、同行者、登録印。外側の照合で済む」
「では」
「内側を読もうとしてたかもね。魔力の癖とか、契約の有無とか、もっと嫌なものとか」
セリナの表情が変わった。
「そんなもの、臨時検査で読むの?」
「普通は読まない」
アキはあっさり言った。
セリナも、それ以上は聞かなかった。
馬車はそのまま赤い道を進んだ。
エアリスは膝の上で指を重ね、それからノートを開いた。
臨時検査。
結晶板。
三つ目に正規の口令と書きかけて、手を止めた。
エアリスはその欄を空けたまま、ノートを閉じた。




