第三十八話:死んだはずの名
顔合わせを終えた後、ユリウスは皇室の小執務室へ戻った。
広くはない部屋だ。
机、棚、地図、封筒がいくつか。皇子の部屋としては簡素に見えるが、置かれているものはどれも選ばれていた。
ユリウスは外套を外し、机の前に立つ。
側近の一人が、封をした薄い束を置いた。
「殿下」
「出してくれ」
側近は無言で封を解いた。
中にあったのは、数枚の記録だった。
ローゼンベルク子爵家に関する古い照会。
子爵領焼失の報告。
ルミナリア大主教ルセリア・ソルヴィエル・オーレクロフトの一時失踪と帰還。
そして、セラフィア中央神導学術院へ編入した少女の公開記録。
エアリス・アウレリア・ヴァレン。
ユリウスは、その名を目で追った。
顔が似ていた。
似ていた、で済ませるには近すぎる。
ユイ・オデット・ローゼンベルク。
かつて婚約相手として資料に載っていた少女。本人と会ったことはない。だが、白い髪と白い瞳は、記録画の中でも目立っていた。
彼女は、死んだことになっている。
ローゼンベルク子爵領は、邪教の襲撃によって焼失した。そう処理されている。子爵家の者は全員死亡。
それだけなら、終わった話だった。
だが、同じ時期にルセリア大主教が失踪し、戻っている。
そして今、よく似た少女が、大主教の保護下で聖都に入り、学術院のAクラスへ編入している。
ユリウスは四枚の紙を、日付の順に並べ直した。
子爵領焼失の報告。
大主教帰還の記録。
そして、エアリス・アウレリア・ヴァレンの編入日。
紙の端をそろえると、近すぎる日付だけが机の上に残った。
「大主教閣下が、気まぐれで人を聖都の核心へ入れる方ではない」
ユリウスが言うと、側近は黙って聞いた。
「それに、ローゼンベルク家の記録には、まだ空白がある」
外典教団。
多くの者は、単に邪教と呼ぶ。ユリウスも公の場ではそう呼ぶ。だが、調査資料ではその名が残っていた。
机の端には、旧婚約に関する控えも置かれている。
縁談そのものは、帝国の皇室から見れば小さな話だった。相手は隣国の子爵家の娘。政治的な釣り合いだけを考えれば、机の上で浮く。
その浮いた欄の下で、伝達者の印だけが三度変わっていた。
うち二つは、別件で押さえた外典教団の周辺名簿にもあった。
帝国の内部に邪教が食い込んでいることは、以前から見えていた。だが、どこまで深いのか、何を狙っているのかは見えない。
ユリウスは、その不釣り合いさに目をつけた。
控えの余白に、皇室、ローゼンベルク、邪教の三語を書き、短い矢印で結ぶ。
ペン先はそこで止まった。
ひとりの少女がどう思うか。
その時の彼は、そこまで深く考えなかった。
政略とはそういうものだと、自分に言い聞かせることもなかった。言い聞かせる必要がないほど、最初からそう扱っていた。
だから、今日見た白い髪の少女が本人だとしても、懐かしさはない。
あるのは警戒だ。
そして、わずかな計算のし直しだった。
側近が静かに口を開く。
「もし彼女がユイ・オデット・ローゼンベルクなら、邪教側も気づいている可能性があります」
「ある」
「それでも帝国へ来た」
「来られた、と見るべきだろう」
ユリウスは資料を一枚めくった。
そこには、エアリスの新しい身元が書かれている。教廷関係者の遠縁。大主教の保護。学術院Aクラスへの編入。
書類には余白がほとんどない。
必要な印だけが、必要な場所に押されていた。
「邪教の後手でしょうか」
「そこが分からない」
ユリウスは机に指を置いた。
邪教の後手、と書くには目立ちすぎている。
大主教に救われた証人、と書くには、周囲の守りが厚すぎる。
教廷の隠し札、と書けば、今度は聖都から帝国へ来た理由が浮く。
ユリウスは紙の端を指で押さえた。
彼女は目を逸らさず、礼も声も乱さなかった。訓練された密偵なら、もっと余計な癖を消す。
彼女の反応には、初めて見るものへの間があった。
ユリウスは紙を封筒へ戻した。疑いを消す欄は、まだ空いたままだった。
彼女のそばには、妙な契約精霊がいるという報告もある。聖都の学術院で九色の属性光を示したという話も届いていた。
どこまでが事実で、どこからが噂か。
確かめる必要がある。
ユリウスは、顔合わせの場での短い会話を思い返した。
彼女は帝国の空気について、「街の色も、音も違う」と答えた。
ユリウスはその返答の横に、印をつけなかった。
白とも黒とも書けない。
「ローゼンベルクの名は出さない」
ユリウスは言った。
「それを口にした時点で、こちらがどこまで知っているかを渡すことになる」
「では」
「まずは手続きを通す」
側近が目を上げた。
「臨時滞在者照合ですか」
「ああ。魔淵外縁安定化計画に伴う帝都警備の再確認。形式としては通る」
「強く出ますか」
「必要ない。傷をつけるな。騒がせるな」
ユリウスは公開記録を閉じた。
「知りたいのは、彼女が何者かだけではない。誰が彼女を守っているかだ」
側近は少し考えた。
「グランツベルク家の客人です。公女本人が止める可能性があります」
「止めるだろうな」
「では、失敗します」
「失敗していい」
ユリウスは淡々と言った。
「強引に成功させる必要はない。どこで誰が動くかを見たい」
側近は書類へ視線を戻した。
「グランツベルク家を敵に回すほどではない、ということですね」
「当然だ」
ユリウスは短く返した。
「今の帝国で、グランツベルク家を不用意に刺激する余裕はない」
上皇派。
反対派。
中立を保つ公爵家。
皇帝不在の帝国では、ひとつの家の動きが議会の空気を変える。ユリウス自身も、その中で動いている。
ユリウスは羽ペンの先を、書類の端に軽く置いた。
深く刺す必要はない。
「では、手続きの形だけを整えます」
「ああ。正規のものに近く。だが、こちらへたどられないように」
「手配します」
「手配した者が、自分の判断で動いた形にしておけ。こちらの名は出さない」
「承知しました」
側近が部屋を出る。
ユリウスは一人になり、机の上の記録をもう一度見た。
ユリウスは白紙を一枚引いた。
書けることは、三行で止まった。
ローゼンベルク家が邪教へ協力していたこと。
その城で、ルセリア大主教が囚われていた可能性が高いこと。
城が焼け、大主教が戻り、同じ時期にエアリスという少女が現れたこと。
ユリウスはそこまで書き、羽ペンを止めた。
次の行には、まだ名を置けない。
城を焼いた者の欄も、大主教を助けた者の欄も、ユイだった少女の欄も、契約精霊の欄も、紙の上では空いたままだった。
見出しを置けば、次の行で筆が止まる。
ユリウスは息を吐いた。
急ぐ理由はある。
魔淵外縁安定化計画は進んでいる。上皇派も動いている。邪教の影も深い。
だが、急いで踏み抜けば、自分の足元が崩れる。
ユリウスは机の端に置いた紙を、一枚だけ横へ動かした。
ユリウスは窓の外へ目を向けた。
皇宮の中庭では、近衛の兵が交代している。槍の角度も歩幅も乱れない。
その横を、議会の使いが封筒を抱えて足早に通り過ぎた。
皇帝は不在。
上皇派は声を強め、臨時議会は日ごとに重くなる。魔淵外縁安定化計画は、防衛の名で多くの人と物を動かし始めている。
ユリウスは「邪教」とだけ書き、しばらく線を引かなかった。
下に続く行は、まだ書けない。
エアリスを黒と見るには、反応が素直すぎる。白と見るには、周囲の名が重すぎる。
それでも、彼女の周りには見過ごせない名が並んでいる。
大主教。
学術院。
契約精霊。
そして、死んだはずの名。
机の上には、見過ごすには多すぎる紙が並んでいた。
ユリウスは、一番上の封筒だけを引き寄せた。
ほかの紙には触れない。
かつて教師に、刃は抜く時より鞘へ戻す時の方が難しい、と言われたことがある。
皇子として生まれた者は、多くのものを持っている。失敗した時に失うものも、自分一人では済まない。
それでも、動かない皇子に価値はない。
ユリウスは封筒の端をそろえ、灯りの届かない側へずらした。
エアリス・アウレリア・ヴァレン。
ユイ・オデット・ローゼンベルク。
ユリウスは二つの名前を並べ、帝国到着日だけを赤く囲んだ。
ユリウスはローゼンベルクの名が書かれた紙だけを抜き、机の引き出しへしまった。
鍵をかける音が、部屋に小さく響いた。




