第三十六話:歪んだ丸
翌日の午後、セリナの部屋に紙束が二つ届いた。
一つは、赤炉会の慰霊式と支援活動に関する公開資料。
もう一つは、叔父ライムントからの私信だった。
正式な招待状は、すでに受け取っている。
返事をする前に目を通しておけ、という扱いの資料だった。
セリナは赤い炉の印が押された表紙を見て、顔をしかめた。
「仕事が早い」
「赤炉会ですか?」
「うん。慰霊式の式次第、支援活動の概要、協力団体の一覧。昨日見た窓口と同じ名前がいくつもある」
セリナは資料を開いた。紙は上質で、文字は整っている。傷病騎士への支援、遺族への慰問、軍属相談の場。書かれている内容だけを見れば、断る理由はなかった。
次に、叔父ライムントの私信を開く。
読み終えるまで、少し時間がかかった。
「……出た方がいいって」
「叔父様からですか」
「ええ。赤炉会は今の帝国で信頼されている団体だし、グランツベルク家としても顔を出すべきだって。あと、ライオネル皇子側の人間も来るらしいわ」
最後の言葉だけ、少し硬かった。
叔父の手紙には、家名もいくつか添えられていた。
エーレンフェルト家。
ブランシュタット家。
ヴァルデック家。
セリナは名を順に見て、眉を寄せた。
「私が知る限り、どの家も外縁計画への立場を曖昧にしているか、最近になってライオネル側へ寄り始めた家ね」
そこに、反対寄りの若い貴族の名も少し混じっている。
集められるのは、賛同者だけではない。
見られる側も、見る側も、同じ部屋へ入れられる。
エアリスはすぐには答えなかった。
セリナは資料を机に置く。
「行かなければ、家の中でまた言われる。行けば、向こうの顔を立てることになる。どっちにしても面倒」
「若い方の集まりでも、家の立場になるのですね」
「なる。本人がどう思っているかとは別にね」
セリナは手紙の端を指で押さえた。
「でも、みんなが操り人形ってわけじゃない。むしろ厄介なのは、自分で考えて家の利になる言葉を選ぶ人たち。帝国の若い貴族は、早く役に立たないと場所を取れないから」
「では、あのマティアスさんは」
「あれは、たぶん分かりやすい役をさせられてる。本人も少し調子に乗ってるけど、周りはもっと冷静に見てた」
その言葉が終わる前に、扉の外で足音が止まった。
侍女が入り、外出用の手袋と薄い外套を机の端へ置く。
「奥様からです。赤炉会へお出になるなら、こちらを」
セリナは外套を見た。
「返事をする前に、服だけ先に届くんだ」
侍女は困ったように頭を下げ、すぐに部屋を出ていった。
扉が閉まると、セリナは外套をしばらく見ていた。
袖口には、グランツベルク家の赤い糸が細く入っている。慰問や式典へ出る時に使う、家の色だった。
「こういうの、断る前から準備されているのが一番困るのよね」
「断りたいんですか?」
「分からない。断りたい気もするし、行かないと後で嫌な気もする」
セリナは外套を指でつまみ、すぐに離した。
「赤炉会に助けられた人がいるのは知ってる。だから余計に面倒なの」
「行きたくありませんか?」
「行きたくない、だけで済むなら楽なんだけどね」
セリナは窓の外を見た。
庭では使用人が水を撒いている。帝国の午後は熱く、石畳の上にゆらりとした光が立つ。
「お父様は?」
「出るなら、見てから決めろって」
「見てから」
「赤炉会が何をしている団体なのか。魔淵外縁安定化計画と、どこまで関わっているのか。見られる範囲だけでいいから、自分で確認しろって」
「決めるために、見るんですね」
エアリスが言うと、セリナはすぐには返事をしなかった。
外套の袖口に入った赤い糸を、指先で一度押さえる。
「家がどちらへ寄るのか。私がどこに立つのか。誰かに先に丸をつけられる前に、見たものを持っていたい」
セリナは外套を畳まなかった。赤い糸を指で押さえたまま、赤炉会の資料ではなく、父の短い返答へ目を戻す。
返事の欄は、まだ空いている。
セリナは立ち上がった。
「だから、まず見られるものだけ見る」
確認に使う部屋は、屋敷の奥にあった。
壁には帝国各地の地図が掛けられ、棚には封をされた箱と、革紐でまとめられた書類が並んでいる。古い本の匂いより、紙とインクの匂いが強い。
入口には護衛が一人立っていた。
セリナが名を告げると、護衛はすぐに扉を開けた。中にいた書記官が一礼し、机の上へ紙束を置く。
「全部は見せられないわ。客人に見せても問題ないものと、公開されているものだけ」
「十分です」
「あなたはそう言うと思った」
セリナは机の前に座った。
「隠されたら、私はたぶん疑うわ」
彼女は赤炉会の印ではなく、軍務局の印が押された頁へ指を置いた。
「だから見せるのよ。軍務局の印、赤炉会の支援、ライオネル殿下の名。見せても困らないものだけをきれいに並べて、こちらが自分で納得するのを待つ。グランツベルク家を引き寄せたいなら、隠すより、その方がずっと上手い」
置かれていたのは、魔淵外縁安定化計画の公開要旨、徴兵拡充の通達、傷病騎士の再訓練制度、赤炉会の小冊子、それから軍属支援団体との協力一覧だった。
エアリスは紙面を追う。
近年、魔淵周辺の魔物活動が活発化している。
外縁地域の防衛負担を下げるため、新たな補助部隊を育成する。
新兵だけでなく、復帰を望む傷病騎士、一定条件を満たした死囚兵も、後方支援や補助任務へ回す。
セリナは、その行で指を止めた。
「魔淵のことを出されると、反対しにくいのよ」
「止めるほどのことは、書かれていませんね」
「そう。そこが困る」
セリナは軍需輸送の紙を開いた。
「糧食、簡易寝台、訓練用の防具、治療材。ここは増えてる。義肢調整用の部品も増えてる」
「正式装備は?」
「増えてはいる。でも、人数に比べると薄い」
エアリスも数字を見る。
兵を増やすなら、武器、防具、軍用魔導具、輸送車両の発注も動くはずだ。けれど、見える範囲では補給、輸送、訓練備品の欄が厚い。
「新兵はまだ訓練中だから、正式装備は後から配るのかもしれません」
「そう言われたら、反論しにくい」
セリナは紙の端を押さえた。
「死囚兵や傷病騎士を後方へ回すなら、一線級の装備を最初から渡さない。そういう説明もできる」
エアリスは赤炉会の小冊子を手に取った。
慰霊式の補助、軍属への支援金、傷病騎士の義肢調整、療養院への紹介、遺族の相談窓口。
頁をめくると、昨日の騎士が義肢を持ち上げた時の顔が浮かんだ。
小冊子の端には、片脚に義肢をつけた騎士が職員へ礼をしている図版があった。絵は少し古く、紙の角も丸い。
「この人たちに救われた家は、本当にあるわ」
セリナが言った。
「だから、怪しいって言うのも嫌なの。嫌なのに、最近は家に届く名前が多すぎる」
「赤炉会は、昔からこういう活動をしていたんですか?」
「ある程度はね。今ほど大きくはなかったと思う」
セリナは招待状を指で弾いた。
「でも、魔淵が荒れ始めたから支援が増えたと言われたら、それも変ではないの」
「はい」
「変ではないものが重なると、嫌な感じがする」
エアリスは封筒の印へ視線を落とした。
そこへ、書記官が新しい封筒を運んできた。
「お嬢様。旦那様より」
セリナが受け取り、中を読む。
オスカーからの返答は短かった。
出席を禁じない。
ただし、出るなら見聞きしたことを家に残すこと。
赤炉会と軍務局が同席する場では、個人の判断で深く踏み込まないこと。
護衛は増やす。
セリナは紙を机に置いた。
「行くな、とは言わないんだ」
「セリナさんが決めることだから、でしょうか」
「たぶんね。お父様、そういうところは厳しい」
「厳しいんですか?」
「決める余地を残してくれる。だから、逃げにくい」
セリナは椅子の背にもたれた。
しばらく何も言わない。
窓の外で、馬車の音が遠くを過ぎた。
「エアリス」
「はい」
「あなたは、どう思う?」
「赤炉会のことですか」
「うん。出るか、出ないか」
エアリスは机の上を見た。
赤炉会の案内。
招待状。
叔父からの手紙。
父からの短い返答。
それから、昨日の赤炉会で見た傷病騎士の顔。
「見ないまま避けると、セリナさんはたぶん気にします」
セリナは目を丸くした。
「私?」
「はい」
「赤炉会が怪しいから行くべき、とかじゃなくて?」
「それもあります。でも、セリナさんが気にすると思いました」
セリナは招待状を見た。
指先が、赤い炉の紋の上で止まる。
「……ほんと、そういうところ」
「どこですか」
「私がごまかしたいところを、ごまかさせてくれないところ」
セリナの肩から力が抜けた。
「行く。行って、自分で見る」
「はい」
「ただし、何かあったら止めて。私、家のことになると意地になるから」
「分かりました」
「本当に止めてよ」
「必要なら、腕を引いてでも止めます」
セリナは手袋の端を直した。
「じゃあ、お願い」
その後、二人は机の上の紙を片づけた。
エアリスはノートを開き、赤い炉の紋を小さく写した。
その横に「正式装備」とだけ添える。
「それだけ?」
セリナが覗き込む。
「今は、セリナさんが何を見るかの方が大事だと思いました」
「……またそういうことを言う」
セリナは手袋の指先をそろえた。
セリナは返事の紙を取った。
出席。
その欄に、丸をつけた。
丸は歪んだ。
「丸が少し歪んでいます」
「見ないで」
「見えました」
「そういう時は見えなかったことにして」
「検討します」
セリナの視線が、外套の留め具へ落ちた。
笑ったあとで、外套を手に取る。
「似合うと思います」
「まだ着てない」
「色は、似合います」
「先に褒められると逃げにくいんだけど」




